17・西播怪談実記草稿七1-1
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天文二十二年十二月二十五日(1554年1月28日)、その日は来た。
天気は晴朗。
七条家は赤松一門の武家筋となるため、祝言までの流れは凡そ当時の一般的な風習に沿ったものだと推察することが出来る。
前日二十四日より式は始まり、宇喜多広家と雪は猪伏の生家にて父と娘の暇乞いの儀を執り行い、翌日二十五日の式典に備える。広家は雪に対してあくまでも後見人としての立場しか伝えておらず、兄の広維も妹の花も相変わらず備前に留まっていたため、別れの儀は親子二人きりで形式のみの簡素なものとなった。
素焼きの土器で相向かい合い、父と娘は数回白酒を酌み交わす。
二人に言葉は無く、ただ一言「行ってこい」とだけ、父は娘に伝えた。
式の当日、早朝に七条屋敷より迎えの者が少女の家に到着すると、あらかじめ広家が頼んでおいた集落の人間が世話役となって七条家の使者を心ばかりの接待を行い、少女の出立の時を待つ。午前中を通して使者のために開かれた宴は続き、昼を過ぎて漸く雪は父と別れを告げ、用意された七条屋敷の離れの一室を目指す。
幸菱の浮織を入れた白綾の小袖に、胸元には夫婦愛敬の護符を込めた守り袋を認め、打掛姿の雪姫が幼い口唇に紅を引く。
この時、少女が輿に乗ったのか、片腰掛で乗馬したのかは記録にない。
冬枯れの道行き。正午を過ぎて、細い西河内川の水面を渡る風は無い。川沿いの道の左手に小川が流れ、右手に細長く開墾された泥色の乾いた田が並走する。山のふもとには古墳が存在すると伝えられ、時折、道脇の穂先を飛ばし切ったススキの群生地が少女らの行進を隠す。
山の木々は葉を落とし、川のせせらぎが静やかに響くのみ。
昼下がりの微風。近くの集落の洗濯物が北風にわずかに揺らされ、まばらな民家の中から花嫁行列に気づいた村民らか家族を引き連れ、少女を見送る。
少女に声をかける者はいない。
やがて、西河内の小川は福澤のあたりで少し大きな江川川と合流する。
福澤は、山と山に挟まれた広い原野で、中央の川の本流を取り囲むように湿地帯が点在し、土地の各所から泉が湧き出す水に恵まれた土地のために名付けられたのだという。
彼女の先導役には誰が選ばれたのか、それも当時の記録には残っていない。
福澤集落に辿り着いた花嫁行列は、集落中心部の本村で一旦停止。一行は、時々足を止めながらゆったりゆったりと時間をかけて目的地の七条屋敷へと向かう。
こうやって、花嫁を勿体ぶるようにして嫁ぎ先まで送り届ける文化は、戦前まで日本全国どこにでも見受けられ、少なくとも昭和八(1933)年頃までは、佐用郡でも昼に花嫁の生家を出立し、途中から提灯の灯りに切り替え、か細い光を頼りに夜に嫁ぎ先まで花嫁を送り届ける風習が残っていたらしい。
もう一つ小話が許されるであれば、この時、供回りの中に福澤集落出身の者が居たらしく、その者が本村にある荒神さんと呼ばれる社を詣でている。
それは本当に小さな社なのだが、かなり霊験はあらたからしく、戦国期から江戸期へと時代が下っても本村を守っていた荒神さんが、明治二十三年、故あって近くの福澤神社と合祀されてしまった事がある。
しかし、まもなく、荒神さんが消えた本村では立て続けに不幸が起こり、村人達の手によって再度元の場所に安置された話が地元の古老の手によって令和の世に伝えられている。




