16・西播怪談実記草稿六3-2
政範が肯定すると、棟梁は顎で弟子のひとりに天井裏に登るよう促す。
トントンと弟子が小気味のいい音を立てながら梯子を上り、合図を待つ。
北寄りの寒風に晒されながら戸口で待つこと暫く、弟子からの合図があり、室内に案内されると、すぐに天井板が取り外されているのが目に入る。その頭の上、剥き出しとなった梁の上から政範を見下ろす二つの顔と目が合った。
ひとつは人間。もうひとつはふっくらとした女性を模した能面。棒に括り付けられた能面は埃に塗れ、表層の白い塗料はすっかりくすんでいる。面の周囲にはかつては鮮やかだったのであろう紅白の紙が色褪せながら往時を偲ばせていた。
「若は見たことないやろ。大工のわしかてそない見いひん。これはおかめ御幣いうて都の風習や。あんたのお爺さんの親父さんが京と繋がっとったときに教えて貰たん違うんかなあ」
まだ政範がこの世に生を受ける前の時代。
赤松家の行く末の手綱を握らんと、総領家当主の赤松義村と先代当主の後室(洞松院)が政治の主導権を巡って激しく争う時代があった。義理の親子ながら骨肉を喰む二人の対立は、やがて浦上氏の台頭を許し、別所氏、明石氏、有馬氏などの有力家臣団とも分断を招くようになる。
大永元(1521)年、囚われの義村が洞松院の手の者によって弑された時、義村派に属していた祖父は、主君救出に向けて二百余りの手勢で室津へと出兵する途中だったと聞いている。その忠義を評価され懐柔のためか、あるいは当て付け目的か、義村殺害の後、則答の娘には既に廃嫡が定められた父の七条政元があてがわれた。
年齢からして目の前の棟梁も赤松家の陰惨な時代を知る当事者だったのだろう。
「なんや、どうかしたんか」
「……否、珍しいと思いまして」
知識としては知っている。棟上げの際、工事の無事と建築物がとして祀られる神具。この時期の佐用郡ではほとんど広まっていない風習で、政範も実物を見たのは初めてとなる。おかめ御幣が西播一帯に広がるのは江戸中期以降となる。
政争に明け暮れる主家を憂い、存命中だった曽祖父は遠い都に平穏の夢を抱いていたのかも知れない。
「ありがとうございます。曽祖父の貴重な……」
「ああ、違う違う」
棟梁がぶんぶんと両手を交差させる。
「これから新しく生活が始まるんに湿っぽいのはあかん。ほら、若も上に登ってみい。上がってすぐ左、まだ一枚だけ天井板が残っとるやろ」
棟梁にせっつかれるように政範が梯子を上ると、確かに一枚の天井板が残されていた。
所々あかり取りが存在し、薄暗くはあるがそれなりに明るい屋根裏で、差し込む光によって舞い上がった埃がチンダル現象を起こしている。天井板は杉を切り出した一枚板らしく、木目以外に中央にはなにやら絵が描かれていた。
「そこな、丁度おかめさんの置いてあったところや。この建物建てた当時の誰かがこの絵をおかめさんの顔の真下に描いた奴がおる。な、罰当たりかもしれんけど、なかなかおもろいやろ」
絵の内容が分かると政範は愕然とした。
子孫繁栄の象徴。
作者不明、天井裏には見事な男性器が描かれていた。
(追記)
この絵が描かれた天井板は天正五(1578)年以降に郡内の民家に移築され、十八世紀の春名忠成の生きた時代まで残っていました。忠成の知り合いが確認したところ、わずかに墨で描かれた跡が見つかったとのことで、後に江戸後期から明治初頭にかけて家人が老朽化に伴う改築を行った際には墨絵の痕跡は消えてしまっていて廃材としてそのまま焼却されたのだと伝えられています。
また、天井に男根と女陰を飾る風習は福島県の奥会津地方のものがよく知られています。
奥会津では火災除けの呪いとして使用され、平成6年に福島県重要有形民俗文化財にも指定されています。残念ながら播磨国ではその様な使われ方をした記録が残っておらず、子孫繁栄というのは完全に筆者の憶測になります。
当時の大工さんのただの落書きかもしれません。ご了承ください。




