16・西播怪談実記草稿六1-2
が、当然、盟があればその繋がりを面白く思わない者も居る。
例えば東播。
東播磨一帯はざわめき、赤松総領家の混乱に乗じて覇を唱えることに成功した三木別所氏や有馬氏は気が気では無い。本当に西播磨がまとまりを見せるのか、まとまれば自分達の立場や如何と、絶えず置塩や姫路周辺に間諜を飛ばして情報を逐一知らせるようにと暗躍を始める。
また、この六ヵ国に渡る包囲網を警戒したのは播磨より東の諸将だけではない。
西国では、当然包囲網の対象である出雲尼子氏は危機感を覚え、雪に退路を閉ざされる前に出雲国への撤退を決めた。
そして、本来は味方であるはずの周防、長門の諸将もこの大同盟にを喜ばずむしろ危惧を抱いていた。
当時、津和野三本松城(島根県津和野町)に派兵していた大内家家臣の陶晴賢は苦戦の真っ只中。意気揚々と山口を出立したにも関わらず、津和野勢の名将・下瀬頼定の軍勢に十月に先遣隊を潰され、明けて十一月の三日と十三日にも二度に渡って会戦に敗れるなど、津和野討伐にはほとほと難渋していた。
もとより三本松城主・吉見正頼とは犬猿の仲。
前大内家当主大内義隆と義兄弟の契りを結んでいた正頼は、亡き主の敵討ちという錦の御旗を以て、打倒陶、ひいては打倒現在の新生大内家を唱って気炎を上げている。故に、三本松城兵らは意気軒昂。直情径行の強い晴賢の部下と、機を伺い熟慮断行を行う吉見正頼とではそもそもの将の器が違う。
全くをもって攻めあぐねていた。
そこに降って湧いたような同盟話に、晴賢はひどく狼狽した。
同時期、毛利氏から陶晴賢のもとに届けられた書状の中には、事前の約定通り備後国の統治は毛利氏に一任し、旗返城の守備も任せて欲しいという嘆願があった。しかし、嘆願書の中には、この同盟には一切触れた部分が無く、ただ事務的に旗返の城での戦の経緯と戦後処理のみが書かれていた。
(これは、いかぬ。これ以上毛利の手駒を増やしてはならぬ)
晴賢の現在の目的は、現在の新生大内家政権の確立。そのために武断派に徹してきた。
日に日に台頭する毛利氏の影響力を弱めるために、毛利氏当主の座を自分と顔見知りの元就の長男・隆元にすげ替えるために、元就の次男・吉川元春と義兄弟の契りを結ぶことも躊躇わなかった。
(その代償が、これか。儂が義父と呼ぶだけでは信用できぬか)
現状、毛利軍が奪取した旗返の城は晴賢の部下の江良房英を入れている。元就から分取ったこの城は、毛利氏の本拠地吉田郡山の喉元に当たる。是が非でも毛利は欲しかろう。
もし今この時、これまで通りに、周防、長門、豊前、安芸、石見の五ヵ国が陶氏に同調していたのであれば、毛利氏の要望を通していた。毛利元就は既に齢五十の坂を上り終え、治めたばかりの備後国で尼子軍相手に国力をすり減らしていれば、やがて余生も尽き果てよう。
しかし現実には、海向こうの豊前は頼りなく、石見は反旗を翻している。
今の陶が信頼できるのは、周防、長門の諸将のみ。年端のいかぬ子供でも六と二のどちらが大きいかは分かる。
(……尼子の軍勢を前に、確かに負けぬ戦をすると思うたが、それでもこうまで見事に勝ちを取りに行けるものか)
暗い嫉妬心が、猜疑心を呼び連れて晴賢の心中に鎌首をもたげ始める。
元就という男は油断は出来ない。
いつまで味方で従ってくれるのか。配下の報告では、津和野の吉見氏から陶に支配される大内氏を見限り反陶の軍勢に加わってくれないかと使者が送られたとも聞いている。その時には毛利氏側は断ったと言うがどうだろうか。
道理は向こうにある。正義も向こうにある。
(ならば、毛利の心はどこにある)
しばしの逡巡の後、晴賢は旗返城の代わりに、ひとまず自らの家臣四名を人質を差し出すことを決めた。今の譲渡を棚上げ状態を継続させ、一旦毛利氏の勢力拡大に歯止めをかける。約定は保留、一応の申し訳も立つ。
(……仮に、毛利に旗返をくれてやるのであれば、それは反陶の旗印を入念に殲滅してから。春には儂が出向かねばなるまい)
失態続きの陶軍だけに、来春の雪解けを待って晴賢自らが津和野攻めに打って出る必要がある。その際には、毛利の軍勢も津和野攻略に参戦して欲しい、援軍の指揮は毛利元就が直接を取るようにとの一文も付け加えた。
予てからの約定を破り、当主を差し置いて、隠居した元就を名指しする。
明らかに元就の忠誠心を試す所業なのだが、今ならばまだ、毛利氏を従わせるだけの力がある。
直ちに晴賢の書状は使者と共に毛利氏側へと届けられ、西国は本格的な冬を迎える。
戦雲は未だ去らず、むしろ厚く蜷局を巻いて西国全土を覆い始めていた。




