16・西播怪談実記草稿六1-1
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天文二十二年十一月中旬(1553年12月20日頃)。
赤松浦上間の婚約成立の噂は瞬く間に播州備州全土に広がり、各地で大きな衝撃を与えた。
今回の縁談話、多くの国人衆にとっては青天の霹靂。
赤松家御一族衆に列を並べる佐用家の嫡男といえば、赤松総領家や貞範家、赤松家七条家(加東郡を本拠地とする別家)などの有力赤松一族との縁組を行うのが通例であり、それ以外の選択肢はほぼ存在していない。
その佐用家が浦上に降り、さらには浦上氏重臣とも血縁を結ぶ。
心あるものは皆、時の流れを感じ入らずにはいられなかった。
先ず第一に喜んだのは、備前独立派に属する者達だった。今まで彼らの首魁は浦上氏当主の弟ということもあり、序列としては赤松家重臣も務めていた兄の政宗に劣っていた。それに浦上姓というだけで、下剋上を遂げた裏切り者としての影が常に彼らの背後につきまとっていた。
事実はどうあれ、それが今回、かつての主家と対等の条件で婚姻関係を結ぶとなったことで、赤松総領家から備前浦上氏当主の座は宗景のものだとのお墨付きを得た上、備前国を統治するに自分達こそ相応しい立場であると国内外に認められたのだという認識が彼らの中に生まれた。
浦上宗景ら独立派が、自分達こそ備前国の正統な後継者だと盛んに喧伝し始めるのもこの頃からとなる。
一方で、赤松総領家はといえば権勢振るわず、旧領復活の夢を諦め、政敵に備前国を割譲しなければならない現実を突きつけられ、自家の凋落を嘆かない者は無かった。赤松家当主の赤松晴政は、捲土重来を期すための一時的な措置であると家臣達に言って回ったが、その言葉は到底信用に値するものではなかった。
次に喜んだ者は、宍粟郡宇野氏に属する領民たち。
彼らは望んで尼子方に奔ったわけではない。宇野氏が家名存続目的で親尼子に舵を切ったがために、止む無く付き従い、従いながらもなにかと理由を付けて年貢銭の支払いを渋る者も多く存在していた。
先導役の宇野氏が赤松家と和睦したのであれば、ひとまずこれ以上の争いは無い。
袂を分かったとは言え、元主家に弓を弾くのは一度だけでいい、以前の様に赤松家内の親類縁者とも交流が許されるようになれば良い、播磨国内で孤立した状態で味方同士で争うのはもう懲り懲りだ、と宇野氏の判断が誤りであると考える領民の数は宇野政頼が想像するよりずっと多かった。
宍粟郡内では、この同盟の話を聞きつけた領民らが季節外れの小さな祭りを開いている。
西播磨が一丸となることは、対尼子戦には必要不可欠。そのために赤松総領家は大きな代償を支払ったが、その分見返りも大きかったといえる。
毛利元就という男を軸としたこの同盟は、毛利氏が安芸から備後にかけ、毛利氏に属する三村氏が備中、浦上が備前、赤松が播磨と、五つの国に及ぶ大包囲網としてひとまずの完成を見た。
そして俄かに活気付いたのが、美作国人衆。
美作を束ねていた三浦氏が没落して以降、新参者の尼子氏が美作国の主となった事を喜ぶものは少なく、美作国人衆達は従面背腹の思いで付き従っていた。
同盟締結の知らせを聞いた三星城主の後藤勝基は、今年三月の高田表での借りを返さんと、天神山の浦上宗景へと早々に使者を送り込み、再度尼子軍が美作国境を侵入すれば尼子氏側から離反し、他の美作国人衆らと共に包囲網側として参戦する用意がある旨を伝えている。
この知らせは即座に赤松家にも届けられ、同じく美作国内で対尼子の最前線にあたる赤松家方の将・新免氏らを心から安堵させ、新免氏が守る竹山城兵を大きく勇気づけた。




