15・西播怪談実記草稿五4-1
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同日。
食後、一旦休憩を挟んで四者の会議は恙無く進む。
しかし、宗景の心は乱れていた。
先の佐用則答の弁を信じるのであれば、捕らえた堀内某という男が自分の異母弟であるかも知れない。状況的、物的な証拠からすれば則答の言葉は真、自らの勘も佐用氏の言葉が正しいのではないかと何度も脳裏で問いかけてくる。
だが、その事実を自分が事実と認めてしまえば、浦上氏当主の座を伺う旗印が一つ増える。
それは二つに割れた備前国を新たに三つに割る行為に繋がるのではないか。
なんとも、扱いを決めかねる。
宗景の煩悶とは裏腹に、トントン拍子で議題は進展、次第に微に入り細を穿つ。
但馬山名家は、これ以上播磨北部の親尼子派が動かなければ山名家も南下は制止。
代わりに、陸路から因幡国西部の尼子勢を牽制にする方針を固めた他、家臣の田公兵部小輔に命じ、海路からも但馬水軍を用いて尼子氏配下の日本海沿岸の集落を攻めることを決めた。
水軍の維持には兎角金がかかる。
非常に好意的な内容に、播備の侍衆一同、さすがはかつて六文一殿と呼ばれた山名の末裔よ、と褒めて賞した。
朗報ついでに、途中からは毛利氏の使者も参加し、備後戦線で毛利軍が要衝の旗返城を攻略したとの報告も届けられた。毛利氏の使者によれば、周防長門から大内・陶の援軍が到着したためにまず負けはないとの事で、山名家側の水軍遠征も今後を見据えて大盤振る舞いを行った可能性がある。
この時点で、彼らは事態を楽観視していた。
実際には、備後に駆けつけた周防長門の軍勢が本当にただ尼子軍に睨みを利かせただけで、最前線での戦いを拒否。戦闘はほぼ毛利家独力で尼子の大軍勢に当たるように指示が出されていたとは知らずにいた。
毛利氏と大内・陶の不和を播備但の諸将が知るのは、もう少し先の話。
毛利元就が内部分裂の危機を避けるため、防諜目的にあえて情報封鎖を行ったという見方も出来るが、それはあくまでも推論に過ぎない。
少なくとも、大内・陶の首脳部は完全に毛利軍と尼子軍の共倒れを願っていた。
そうとは知らない播備但の諸将は、何倍もの尼子軍を前に八面六臂の活躍をみせ、大敵相手に一歩も引かない毛利軍の奇跡を素直に喜び、やられっ放しの自分達の代わりに尼子軍を討滅する彼らをまるで我が事のように胸のすく思いで聞いていた。




