15・西播怪談実記草稿五2-2
一方で、山名家側は播磨国との停戦協定の条件として但馬国境に近い播磨国人衆への影響力拡大を求めた。
実際に兵を送り出した太田垣の軍勢はさておき、山名家の立場としては、今回の播磨侵攻は安芸毛利氏から正式な要請を受けた上、あくまでも播磨国内の尼子派閥への攻撃を行ったという大義名分がある。
赤松総領家としては事をこれ以上を事態を複雑化させるわけにもいかず、まして、同じ安芸毛利氏に協力を求めている備前独立派からは口出しできようはずもない。
播磨勢に求められたのは妥協。
と言っても、山名家側の要求は主に三つ。播磨但馬間の関銭(通行料)の軽減と、国境を行き来する馬借や人夫などの人的資源を優先利用、それにその責任を田路氏ら播磨国境の国人衆らが受け持つことといったもので、要望としてどれもこれも存外軽いものばかり。
赤松家側から大して反対意見が出なかったのも、これが理由かも知れない。
生野銀山群の埋蔵量を知らない赤松総領家からすれば、そんな些細な事で合意できるのであればと、一も二もなくほぼ山名家の要望そのままに停戦協定を結んでいる。
この件に関しては山名側も当時の生野の銀の産出量を測りかねていたらしく、多くの鉱山が未だ開発途上。後世、「銀の出ること土砂のごとし」と銀山旧記に残されるほどの国内最大級の鉱脈が発見されるのは今よりずっと後の永禄十年(1567年)の出来事となる。
それでも山名家当主・山名祐豊からすればこの銀山権益独占に等しい協定を頗る喜んだようで、翌天文二十三年の三月、感謝の意味を込めてか朝廷向けに銀三百枚を贈っている。
正午を過ぎて約一刻、各派閥の意見が出揃い、あとは着地点を見つけるだけという段階になって福原氏の小間使いが昼飯の準備が整った事を伝える。ちょうど良い時間帯である。腹が減ってはなんとやら、ここはひとつ食事を取って皆が一度冷静になってから結論を出そうという運びになった。
しかし、それぞれの派閥が食事に割り当てられた席へ移動していく中、備前独立派の浦上宗景だけが雪隠(トイレ)を理由に佐用則答を連れ立って堂内から外に出た。
余程自然な流れだったのだろう。
誰も宗景の離席を怪しむ者は居なかった。




