13・西播怪談実記草稿三3-1
―3―
同、十月十九日(1553年11月24日)、同刻。因幡国、山名中務少輔豊定の屋敷。
早くも火鉢が出され、轟々と屋敷全体を叩きつける北風が音を立てるのを、二人の男たちは座を囲み聞いている。
世に、斯波氏という姓がある。かつては三管領筆頭の重鎮として揺ぎ無い権威を誇り、北陸から東海地方に渡って広大な領土を侍らせていた由緒正しい一族であった。
しかし、応仁元年(1467年)より始まった乱以降は家運振るわず、斯波一族は見るも無惨に各地の有力大名達によって蚕食された。越前国は朝倉氏に、遠江国は今川氏に奪われ、残された尾張国で、かろうじて守護代織田氏の力を借りながら息を永らえるだけの存在に成り果てている。
「久しいな。広家殿」
「……その名は既に捨て申した。中務少輔どのもお元気そうなご様子で」
懐かしい顔馴染みの姿を見て、ははは、と豊定が朗らかに笑う。
「役職でなど呼んでくれるな。以前の様に、豊定でよい」
「毛利殿との約定は良いのですか」
「なんのなんの。既に戦いの趨勢は決しておるし、幾らか援軍も送っておる。大内殿と陶殿の力添えに、なにより毛利殿が指揮を取っておられる。備中の戦もそう長くはかかるまいよ」
備中旗返城の戦も大詰めを迎え、日本海に面する因幡国では、冬備えの必要から断りを入れたうえで因幡山名氏は一足早く戦場から帰国していた。
「奥方さまは」
「……ああ、流行り病でな。とてもではないが」
人前には出られぬ、と豊定は静かに首を振る。
「そうそう、広家殿は、そう、広家殿は今は何と申しておられたか」
「……ただの雲水、至岳と」
「そんなつっけんどんな。我ら共に数奇な巡りの中で生きておる仲ではないか。俗世に城も恩義も総て置いてきたわけでもあるまい」
片や因幡山名氏の長、片や草臥れた衣の一禅僧。一見すると共通の繋がりなど無いように思えるが、実際には二人には深く繋がり容易に断てぬ縁がある。
「そうでなければ、こんな因幡国まで来まいよ」
どうだ図星だろう、と豊定が盃の酒を一息に飲み切るのを至岳は静かに見つめていた。
「……今となっては、広家殿の家の本貫も越前朝倉の手に落ちて、否、家に捨てられた其方が今度は家を捨てたのだったか」
「中務少輔どの。過去は捨て申した。現在はただの至岳に御座います」
「捨てるの捨てぬの、儂からすれば言葉遊びよ。現におめおめと生きて出て来ておるではないか」
返す言葉を失い、禅僧は黙する。
「北陸に行かれた朝倉殿は将軍様より義の一字を賜り、左衛門督の座に就かる程に、少し前までは越前の主として日の出の勢い。但馬に残られた朝倉殿はさぞや片身が狭かろうよ」
本貫とは一族の発祥地のようなもの。越前朝倉氏も但馬朝倉氏も、同じ但馬国養父郡朝倉を領した日下部氏を源流としているため、本貫は同じとなる。但馬朝倉氏は山名家の一家臣に過ぎず、それほどの知名度はない。後世においても、彼らの本貫地は戦国大名発祥の地よりも、むしろ風味抜群の朝倉山椒の産地としての方が全国的に名を残している。
越前朝倉氏当主・朝倉義景はその後、細川氏と婚姻関係となり、将軍・足利家とも繋がりを深めていたが、現在の京の都は、細川家家臣・三好長慶が主家に背き、細川氏・三好氏の主従間での戦乱の只中にあるためにせっかくの奇縁を活用出来ていない。




