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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第十一章・西播怪談実記草稿三【天文二十二年十月十五日(1553年11月20日)~】
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13・西播怪談実記草稿三2-1


 ―2―



 同、十月十六日(1553年11月21日)、そろそろ日付を跨いだ頃。


 備前国砥石山城下、堀内広維宅。


 この時代、家の存続のため、家を二つに分けることは決して珍しいものではない。


 それは宇喜多家においても同様。


 親尼子派の重臣・浮田大和守国定は宇喜多直家からすれば大叔父の関係に当たる。祖父・能家が島村勢に討ち取られて以降、国定は宇喜多一門を束ねていたものの、その裏で一族郎党を親尼子派閥と備前独立派閥に分散させ、宇喜多家の存続を図っていた。


 直家が浦上一族の弟・宗景の率いる備前独立派に帰属したのも、自らの主家筋である浦上兄弟の実力が拮抗していたからであり、戦況がどの様に転ぼうと宇喜多の血統を残せるよう、国定が手引きしていた可能性も一概に否定できない。


 結果、親族同士で骨肉の争いとなるが、それも世の習い。


 天文十四年(1545年)に、当時十六歳の直家が主君・浦上宗景の命を受け、砥石城下、荷蓋畠の一の木戸まで攻め寄せることに始まり、天文十七年(1548年)にも大和守との間で熾烈(しれつ)な勢力争いが起きている。


 数度干戈を交え、正面突破が難しいと考えた直家と大和守の両家は、(もっぱ)ら共通の家臣の家族を通じての情報戦に切り替え、少しでも互いの隙を伺おうと躍起になっている。


「……故に、わしは身内に信を置かぬ。むしろ利や野心で動く分、血の繋がらぬ家臣達の方が余計な気配りが不要で良い。最初から信頼せずに済む」


 直家の考え方は、極めて合理的。


 親尼子派と備前独立派の繋がりは、上層部では真二つに分断されてはいる。しかし、下々の者らは両者の間を常に揺蕩(たゆと)う存在であり、逐次(ちくじ)家と家の間で密告による情報交換が行われている。


 必要なのは信用であり、それ以上の信頼は頭から期待しない。収入の乏しい乙子城では家臣全員分の俸給はない。直家は苦しい台所事情を利用し、定期的に親尼子派の領土から略奪をともに行うことで、家臣達の敵愾心(てきがいしん)が萎えないよう調整し続けている。


 ならば、堀内広維という人物はどうなのか。どうして他の家臣達と扱いが異なるのか、と政範が聞くと、直家は少しバツが悪そうな素振りを見せた。


「……一人くらい、良いであろうが」


 それきり直家は自らの心を開こうとはしなかった。


 後になって知るのだが、直家と広維の関係は単なる幼馴染だけでなく、定期的に親尼子派の内部情報を流す間諜の役割を広維が務めている。その代わり、直家は客将として収入の不安定な広維に対し、米であったり金子(きんす)であったりを融通するなど、切っても切れぬ相互扶助の関係を築き上げていた。


 今回、こうして直家が直々に砥石山城下を訪れることは、異例な事態。


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