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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第十一章・西播怪談実記草稿三【天文二十二年十月十五日(1553年11月20日)~】
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13・西播怪談実記草稿三1-2


「早速本題に入りたい。堀内殿。至岳禅師は何処(いずこ)へ」


因幡(いなば)国の山名中務小輔殿の下へと向かいました。中務小輔殿は情に厚い人物と聞き及んでおります。数日もすれば彼からの和議の便りが届くでしょう」


「情に厚い、か。情に(ほだ)されやすいの間違いだろう」


「同じですよ」

 山名中務小輔(やまななかつかさのしょうゆう)、本名・山名豊定は、現在の山名総領家当主・山名祐豊の実弟。


 不安定な但馬山名氏の支持基盤を打開するべく、一族の因幡山名氏から強奪した因幡国の支配拡大を兄から期待された人物だったが、いまだ幕府からの公的な因幡守護職は尼子氏の手にあり、望んだ程の成果を残せていない。


 あくまでも、山名祐豊・豊定兄弟の影響力は因幡東部に限局している。


 因幡西部では、もともと独立志向の高い国人衆達の気質からか、蜂起(ほうき)や命令無視が散発し、布施天神山城(鳥取県鳥取市)では因幡山名氏残党が前主君の遺児・山名源七郎(豊道)を推して主家再興を目論み続けているなど、理想と現実の板ばさみに悩まされ続けている。


 その証左のひとつに、先の九月、播州・但州境の戦いに参加した因幡衆として、鵯尾城(ひよどりおじょう)(鳥取市玉津)の武田信高や鳥取周辺の国人衆がわずかな兵士を向かわせたに過ぎず、近隣の八上郡や八東郡の国人衆は但馬山名氏の要請に応えない者も多く居たという。


なにより、当の豊定自身が、西の尼子派閥を無視できず、播磨へ援軍を送れていない。


 領内が混沌としているのはいずこも同じだが、今回ばかりは皮肉にもその混乱に播磨・備前両国は救われた形となる。


「堀内殿、尼子軍の動きはどうだ……」


「はっ」


 現状、備後戦線において、二万五千の尼子軍本隊は、七月に尼子方の(ほうり)城を失陥してからは大内・陶の軍勢に阻まれ、進むも退くもできないまま、毛利勢が総攻めを始めた旗返城の支援にまで至れていない。


 旗返の守備兵は千余りと聞くが、麓の丸山(着陣山)に毛利勢が付け城を構え、水の手も糧道を断たれて早二ヵ月。


 八月三日の会戦で一敗地に塗れた旗返城主・江田隆連は、独力では来る毛利氏の猛攻に堪え切れられないと判断し、自らの妻と身重の娘を密かに逃がしたものの、二人は逃亡の途上、付近を流れる掛田川沿いで自刃しているのが発見された。


 現地の村人たちが、二人の女性と共に幼い赤子の遺体を埋めた場所を姫塚と呼んでいるのを直接聞いた者が居るから間違いはない。


「……現状では、毛利殿と陶殿の方が有利でありましょう」


 一方で、石見国(島根県西部)津和野城主・吉見正頼が亡き主君・大内義隆に義理立て、陶氏に従うことを拒否し続けているため、陶軍の一部が吉見氏討伐に向けて軍勢を割いたという報告も上がっている。


「構わぬ。西が波乱に満ちるならば好都合だ」


「ええ、備前を併呑する時間稼ぎになりましょう」


「……ああ、話の途中で申し訳ない」


 全く話についていけない政範が若い侍に名を尋ねると、若い侍は少し呆気にとられた様子で答えに詰まった。


「そうか、そうであったな」



「わしは宇喜多、宇喜多直家という。わしらの力添えをお願い致したい……」


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