12・西播怪談実記草稿二4-2(カラムシの話)【蝸牛考】
ゆえに、冬季になれば女性たちは糸宿と呼ばれる作業所をつくり、皆で集まって夜なべで機織りを行い、作業の合間合間に雑談を興じる事を楽しみとする。
少女がこの集落にやってきたのは、浦上領に来てすぐの八月頃。
浦上氏の姫君として預けられた二ヶ月の間、少女はただ姫君として過ごしていたわけではない。彼女はすすんで村人と交流を持とうとした。この辺りは少女の性格なのかもしれない。
見知らぬ大人達の中でも、七条屋敷での生活と同様、炊事、洗濯、掃除、水汲みに稲わら編み、夏の炎天下の草刈など。家事一切、村人らとともに汗を流して働く彼女の姿に、村民らも最初は誰かが親類の子を引き取ったのだろうと思っていた。
盛夏、カラムシの収穫から皮剥ぎの工程では、茎から指を黒く染めるほどの汁が出るが、少女は特に気にした様子もなかった。
さて、古い時代、カラムシを扱うことは花嫁修業の一環として扱われる。
涼やかな瞳を持ち、目鼻立ちの整った女子が甲斐甲斐しく汗水を垂らしているとなれば、たちまち集落の男衆の目にも留まるようになる。評判の娘となれば、村の悪童共は少女にちょっかいを出すようになり、近隣の大人達も、一体何処の家の子どもなのか、ぜひうちの嫁に来てくれないか、と縁談を持ち出し始める。
これは不味いと思った預かり主の富農が、少女が浦上の殿様からの預かり子だと告げ、やっとの事で少女の婿選び騒動は落ち着きを見せた。
しかし、その後も甲斐甲斐しく働く事を少女が止めたわけではなく、奇妙な姫様も居らっしゃるものだと村民たちは彼女の行動に一目を置くようになり、集落の女たちも少女を守るように、「姫さま、姫さま」と何かと世話を焼いてくれた。
今行っている糸宿での作業も皆の好意の現れと言える。
通例、この地方では、繊維を糸に紡んだり糸を反物へと織り上げる作業は難易度が高く、コツを掴むのに時間がかかるためもう少し上の年齢になってからの工程となる。
そのため、まだ十になるかならないかの少女くらいの年頃であれば、糸を繰る前の繊維を取り出すところが精々だろうという事で、自分達の子と同じように彼女を扱い、困ってるようであればあれこれと親身になって話を聞いてくれていた。
トントントンと木槌が、タンタン、トントンと機織りが小気味いい音を響かせて、集落の夜は更けていく。
夜中、子の刻(午前0時前後)を越えれば、昼間の疲れも手伝い、次第に睡魔に取り付かれる者も出てくる。そうなれば部屋の隅に置かれた茣蓙の上で横になり、子が居る者は身を寄せ合いながら仲間たちの作り上げる多くの音に包まれて眠りについていった。
少女も丑の刻(午前2時前後)までには寝床に付き、くぅくぅと小さな寝息を立て始めた。
この日の作業は翌朝近くまで続けられ、目覚めた者から自分の家に帰っていった。
この天文二十二年の夏から始まった少女の逗留生活はしばらく続き、現地の人々との交流もだんだん増えていくと、やがて誰彼ともなく、青苧の原料となるカラムシの事を「浦上の姫さまが打ってくれたもの」という意味で「姫打ち」、あるいは「姫打つ」と呼ぶようになり、それが訛って「ひうじ」、「ひうづ」という方言が生まれたのだと伝えきく。
嘘か誠か、筆者も知らない。平成時代、筆者にこの話をしてくれた老人は、いやいやカラムシ引きの際に使用する器具が火打石に似ていたため、ひうじ、ひうづと呼ばれるようになったのではないか、と言っていたのを覚えている。
一方で、浦上氏の家臣のひとりに、虫明氏という者がおり、彼らが在した虫明村(現・瀬戸内市邑久町虫明)の由来として、明るい夜光虫の光に由来するとされるという説と、村がカラムシの名産地で繊維を取るために村内で蒸しあげていた事に由来する説をともに聞く。
そして後世、太平の世を迎えた赤松総領家の所領替え先、阿波国(現・徳島県)の一部でもカラムシの事を「ひうじ」と呼ぶ地方があることを書き加える。
また、筆者、および私に話をしてくれた老人は、この話の舞台を備前国英田郡としているが、「ひうじ」が正しいならば少女が居たのは備前国英田郡であり、「ひうづ(ひゅうず)」が正しいならば美作国苫田郡である。あるいは火打石説が正しいのであれば、全くの偶然で全然違う別の場所が舞台なのかもしれないことを明記しつつ、この段を終えることにしたい。
【蝸牛考】
昭和二年、民俗学者の柳田國男が発表した論文。
柳田が日本全国のカタツムリの方言を調べたところ、カタツムリの方言が京都を中心とした同心円状に分布していることが判明。後に方言周圏論とも呼ばれるようになる。カラムシの話もこれに類する可能性がある。




