最終話
ちょっとした事件も終わり、また日常が戻ってきた。
といっても残念ながら私の望むような穏やかなものではない。
あれから私はもう一度、小野寺さんの通うジムをおとずれている。
もう行くこともないだろうと思っていたが、かなりの自信をつけたためか、熱心に勧めるのでトレーナーも見守るなか、なぜか彼女のスパーリングの相手をつとめるということになってしまった。
ミット越しに伝わる刺激に興奮した私は覚醒し、瞑想モードへと突入してしまい、それに触発されてか、熱くなりすぎた彼女がスパーリングにもかかわらず、本気で私を倒しにかかってきたのだが、そのことごとくを私が防いだために、終わった直後から数日の間、口をきくどころか目さえ合わせてくれないという、負けず嫌いで意地っ張りな可愛らしい一面をみせて、それがあまりにもいじらしくみえたので、つれない対応をされているにもかかわらず、
(やっぱり私はこの人のことが好きなのかも……)
と、心を揺れ動かされたりしている。
私はいまだに彼女の気持ちも、彼女に対する自分の気持ちもよくわからないでいる。
でも、まあ、悪くない感じではある。
この不思議な距離感が心地よいというか、癖になりそうな感じがないこともない。
山田は相変わらず私の教室へやってくる。
最近、私は山田にある程度の距離感は保ちつつも、皆と同じような接し方をするようにしていた。
逮捕してくれの件はともかくとして、恩があることに変わりはない。
それゆえ、私としても即座に眠らせるということに抵抗を感じてしまい、それにくわえ、このごろの山田は俊敏性が異常に発達しており、私としても眠らせるのが容易ではなくなってきている、というのも大きな理由である。
ただ、このために山田救護班の者たちがぽつねんとさみしそうにたたずんでいる姿を目にするのはちょっとしのびなかった。
……しかしだ。
問題の山田はこの状況の変化を自分への好意だと勘違いしたらしく、私への愛をつづった自作のポエムを皆の前で披露するという醜態をさらしたのだが、それが醜態にはならず、意外にも皆に好評で、それに気をよくした山田が曲をつけて再度披露すると、これまた受けがよく、その後、何曲かつくり、そのどれもが拍手を浴びるほどの出来であり、山田の意外な才能が開花するにいたったのである。
山田救護班が傍らで楽しそうに演奏のサポートをしているので、まあ、これはこれでよかったのかなとも思っている。
近ごろ、めっきりとやつれ、目の下のくまが悲壮さをかたるようになった工藤が、その演奏を聴いて、
「そうか、ミュージカルか……そうだ、それだ!」
と、また面倒なことを言いだしたので、即座に私が眠らせ、しばらくあとになって気づいた工藤が、
「なにかとんでもなく重要なことを閃いたような気がするんだが……ああ、くそッ! 思い出せん! くそッ、まったく思い出せん!」
という状態になり、事なきをえた。
工藤と対立していた女子たちはというと、こちらでは内乱が勃発していた。
目が合えばたちまち議論になり、ときには取っ組み合いになったりと、いたるところで小競り合いが繰り広げられ、まさに各勢力がひしめきあう群雄割拠のような様相を呈していたのだが、しだいに小規模勢力は吸収され、二大勢力の対立となった。
なぜだか知らないが、私にどちらかを選べとせまってくるので、私が適当にあみだクジで選ぶと落選したほうの落ち込み方が半端ではなく、あまりにもあわれだったため、彼女たちの望むことを私がひとつやってやると、たちまち大混乱になり、気づくとあたりには、ふやけた屍が散乱していて、立っているのは私一人という状態だった。
そこへ教師がやってきたものだから、教師も私も時の流れに取り残されたかのように、ぼうぜんと立ち尽くすしかなかった。
「か、河合……こりゃ、いったいどういうことだ……」
ようやく自分を取り戻した教師がつぶやいた問いに、いっそ私もめまいがすると言って倒れてしまいたかったが、そんなことをしてもあとで事情を聞かれるのは目に見えているし、そうなってしまっては答えようもないので、しかたなく私は、
「……オ、オーディションです! 今度、学園祭でやる劇で誰が死体役にふさわしいかを選んでいたところです!」
と、強引に誤魔化した。
「やっぱり死体役には工藤くんがいいようですな、ははは。さあ、みんな! 審査は終わりだ! 授業がはじまるぞ!」
私が呼びかけると、皆がむくむくと起き上ってくれたので、なんとか集団失神事件としてメディアを騒がせずにすんだ。
だが、私はこのときミスを犯していた。
騒動の前、工藤は、
「ああ、くそう……なにも浮かばん……アイデアが遠ざかっていく、俺は神に見放されてしまったのか……」
と、ひどく落ち込んでいたので私がなぐさめると、
「貴様が悪いのだ! 貴様が!」
逆ギレし、不貞寝でもする気なのか、そのまま机の上に突っ伏してしまい、騒動が終わってもそのままの状態だったので、おそらく彼は参加しなかったのだろう。
そこへ私が不用意に工藤と呼びかけたため、彼がみんなよりも少し早く起き上がってしまい、みんながむくむくと起き上るのを見て、
「そうか……ゾンビか、その手があったか……」
と、わけのわからないことをつぶやいていたのだが、教師のいる前では眠らせるわけにもいかず、その背に向かって私は、
「工藤よ、それは現実逃避というものだぞ」
と、目で訴えかけるしかなかったのだが、まあ、通じてはいないだろう。
いったいどんな劇になるのか、それは私にもわからない。そもそも山田とのキスシーンのある劇などに興味もない。
私としては、このまま工藤の奴が苦しみぬいて、やっぱりできませんでした、と劇自体が立ち消えになってしまえばいいと思っているくらいだ。
こんなまだ台本もできあがっていない状態の劇に情熱を燃やしているのが、このクラスの男子たちだ。
ときどき山田が私にみせるドラマ仕立ての情熱的なパフォーマンスに触発されたのかどうかはしらないが、男子の間で演劇熱が急速にわきたち、男女逆転劇という趣旨にそって、今では、にわかオネエがそこかしこに見られるようになってしまっていた。
女性のしぐさや言葉遣いを日夜研究し、日常レベルで使いこむほどの熱心さで、その凄まじさは、女子の内乱を一時休戦に持ち込み、臨時女子同盟を結成した彼女たちに、そのあまりのできの悪さを罵られたあげくに泣きだし、その泣き方までが女性らしさを追求していて、それがまたあまりにひどく、あきれた女子たちがまた内乱へと立ち返えるほどであった。
私もその巻き添えをくっている。
なぜか私は、彼らから先駆者のように思われているようで、なにかにつけて話しかけられるのだが、だんだんその演技力のひどさにイライラした私がつい、
「違う! そうではない! こうするのだ、よく見ておけ!」
と、演技指導のようなことをしてしまったために、神のような崇め方をされ、そのあげくに、このオネエ軍団の指導者という立場に祭り上げられてしまった。
「今日はやけに暑いな、こう暑いとのどが渇く」
なにげなく私がつぶやくと、さっと団扇であおがれ、目の前にジュースがさしだされたときには、さすがに戦慄をおぼえた。
「そんなことするな、というか、なにもするな!」
厳しく言いつけたのだが、親衛隊のように私を取り巻くことはやめず、なにかと私の世話を焼こうとするのだ。しかも女性として。となると、私のほうでもダメ出しをせざるをえなくなってくる。
どうも彼らは歌舞伎や舞といった伝統芸能から入ったようで、はるか昔の大和撫子というものを目標としているらしく、彼らはそれらを大げさに演じようとするため、ギャグとして演じているようにみえるというか、ときに見るものを不快にしたりしているようだった。
そう見抜いた私は現代的要素も取り入れながら、それらを矯正し、彼らも熱心にそれにこたえるというひたむきさをみせ、そうすると私のほうでもまた胸をうつものがあったりと、なんだかしらないが奇妙な師弟関係が生まれていった。
どうしたわけか、そのひたむきな熱意は目をみはるものがあるのである。
彼らから、にわか、という言葉がとれる日もそう遠くはないだろう。いや、もうすでに彼らは、にわか、ではないのかもしれない。彼らのその気高い精神はすでに後戻りできないほど、どっぷりとオネエなのかもしれない。もういっそのこと、ひたむきに努力する彼らのこの姿を劇にしたほうがいいのではないかと思うくらいだ。そうすれば、拍手喝采は間違いないだろう。
(どうだ、工藤よ、そうしてみては?)
と、問いかけたいところだが、このごろの工藤は絶好調のようで、
「そうだ、そうすればよかったのだ。ふはは、ははは……俺はまだ神に見放されてはいないぞ!」
と、画面に向かってなにやらぶつぶつと独り言をいって笑っている姿がよく見られ、なんだか近寄りがたい。まあ、台本が出来上がるのもそう遠いことではないだろう。
(変なテンションで書かれているので、書き直すことになるのは確実だろうが……)
不毛な戦いを続けるのは、なにも工藤だけというわけではない。
望月さんである。
彼女はすでに九連敗中で、振られ女王の名をほしいままにしている。
もちろん私へのやつはカウントされていない。
まあ、それはいいのだが、おそろしいことに、大半の生徒が彼女の告白を自虐プレイだとみなしているというのだ。
夏休み前にもう一度告白するらしいのだが、その相手と目されている男は、
「彼女のことは嫌いじゃないんだけど、なんだか振らなきゃいけない気がして……」
笑いながら語ったとか、取り巻きのオネエたちから聞かされた。
彼女を振った男たちも同じような証言をしているそうだ。
だが、彼女に自虐という気持ちはないようで、
「テメェー、どんな呪いかけたんだァ? あァ?」
と、私に詰め寄り、そのあまりにおそろしい形相に、私が失禁しかけたのはつい最近のことである。
なんとかなだめようとしたのだが、うまくいかず、最終的に、
「……では、責任をとってボクとつき合おう!」
「は? 誰がテメェーみたいな変態とつき合うかよ、馬糞のほうがまだマシじゃ!」
と、捨て台詞を残して去っていった。
残念なふくらはぎの幸せを私以上に望んでいるものもいないというのに、それが伝わらないというのは、ちょっとかなしい。
ただ、残念なふくらはぎは、残念なままでいてほしいという気持ちが心のどこかになくはないし、おそろしい形相で罵倒される、あのドキドキ感をもう一度味わいたいという気持ちもあるにはある。
ちなみに、彼女が十回目の告白をする日だと目されている学期の終了日には、二桁到達記念イベントが計画されているそうだ。もちろん望月さんには内緒なので、彼女はなにも気づかないまま、おそらく学期末終了の打ち上げとでも思いながら、それに参加して、みんなから祝われていることもわからずに、そのイベントを楽しむのだろう。
恋多き乙女である彼女がどこまで記録をのばすのか、皆の注目を集めている。
余談だが、私は今、ブーツに夢中である。
この暑いのになぜまたと思うかもしれないが、あるとき私は奥にしまっていた靴を久しぶりに履いてみようという気になり、取り出そうとしたのだが、あの女が乱雑にしまいこんでいたブーツが邪魔で取り出せず、多少イライラしながらそれを手に取り、なにげなくにおいをかいで失神しかけて以来、私はブーツの虜となってしまった。
(やはり革製品というのは独特のにおいを放つものだ)
使い込めばそれだけのものを返すというのは、なかなか魅力的である。
それに私はブーツの特性というものに気づいてしまった。
望月さんの残念なふくらはぎ、小野寺さんの強靭で迫力のあるふくらはぎ、そしてあの女のパーフェクトなふくらはぎ、すべてのふくらはぎを守護するもの、いわば騎士だということに……。
この気づきが私に革命的な変化をもたらした。
騎士……。
すべてのものが憧れるであろう、あの精神がブーツに宿っている。できることならば私もブーツになりたいとさえ願うがそれは無理である。だが、彼らをつくりあげる靴職人ならば私にもなれる。
さしずめ老齢の鬼教官といったところだろうか。
一癖も二癖もある荒くれ者を立派な騎士へと導いていく。
(……それも悪くない)
服飾の道へ進もうと考えていたが、靴職人となるのも捨てがたい。
私は今ちょっと迷っている。
いずれにしても今年はブーツを買う予定だ。
早く冬にならないかと私は首を長くしている。
そうそう、私よりも季節を先取りして春がやってきているのが、若づくりに成功した朝倉教員である。
この夏の気温のようにアツアツなのかどうかはしらないが、マダムキラーという異名をつけられる原因にもなり、私としても多少の縁がなくはないので、まあ、うまくいって本物のマダムになることをひそかに祈っている。
と、まあ、私を取り囲むのは相変わらず騒々しい日常である。
どうしてこんなことになってしまったのか私にもさっぱりわからないが、すでに慣れてしまった。もう体調を崩すこともほとんどなくなっている。
私は以前のような快便ライフを取り戻しつつあるのだ。
それもあの女との関係が改善されたというのが大きな要因といえるだろう。
あの女はまた私の部屋にやってくるようになった。
前のように私のベッドの上を占領し、なにやらやっている。
たまに私の買い置いていたお菓子を勝手に食べて、それで口論になったりもするし、静かに読書にふけっていることもあれば、私の所有するレコードに聴き入り、その曲のことで議論することもあったり、絨毯の上に置かれた小テーブルに場所を移し、学校の課題に取り組んで、この問題を教えろと私の手を煩わせてみたりと、以前と変わりない様子をみせている。
だが、以前のように私の部屋に入りびたるということはなくなった。
適度な距離感が保たれるようになったのが心地よい。そう思えるようになったのも、いつもあの女から放たれていた身の危険を感じるほどの強いプレッシャーがなくなったからだろう。
これが最も大きな変化だ。
まあ、あの女としても恩があるわけだから私への殺意を取り下げるのも当然といえるだろう。部屋に仕掛けたトラップもあれ以来作動することもないし、人の憤怒のスイッチは意外なところで再点火するものだとして迷っていたが、もう設置しなくても大丈夫だろうとやめてしまったくらいだ。
いろいろなことがあったが、あの女との関係が改善されたことにより、私の心は平穏な状態を維持している。高校へ入る前とまったく変わらないかというとそうではないし、私が求めていたものともちょっと違うが、これはこれで悪くないかなとも思いはじめている私がいる。
無関心を貫いていた私になぜ殺意をもったのかという疑問は残るが、まあ、それも些細なことだ。問題ではない。
ただ、ひとつ気がかりがあるとすれば、初音さんの勘違いである。
私が女装しないのを不審に思っていたようなのだ。
ちょっと前までは猜疑の目が光っていたのだが、近ごろ、思春期の男の子がかかる病気に思い当たったらしく、突然、
「ひょっとして、キョウちゃん……あなた、好きな子ができたんじゃない?」
と、問われ、私は答えに窮した。
脳裏には小野寺さんの姿が浮かんでいたのだが、彼女との関係をどう説明したものか、それともここはそんな子はいないと否定しておくべきか、と迷っていると、その沈黙をイエスと受け取り、その子が女装を受け入れるかどうかわからないから女装を控えているのだな、とひとりで納得してしまった。
その日から猜疑の目はなくなったが、今度は見守るような目をむけられるようになってしまった。
「キョウちゃん、あなたは男らしくありません。ここは男らしく女装すべきよ。その子の前であなたの堂々とした男らしい姿をみせるべきだわ。大丈夫、あなたなら嫌われたりしないから」
と、励まされたりするのだが、正直ちょっと面倒になってきていたので、初音さんには申し訳ないが適当に返している。
ただ、小言のようなことをいろいろ言ってくるのだけれど、なぜだかちょっと嬉しそうにしているのが、私としては気になるところだ。
初音さんとこういう状態にあったので私はあることを一人ですることにした。
本当は初音さんを当てにしていたのだが、まあ、仕方がない。一度つくっているから手順はわかっているけれど、大幅なデザイン変更は難しいと思い、出来る範囲で変えるようにした。
それで私が生地を買いに行ったとき、人妻ユキちゃんこと川村雪子の娘さんがたまたまその場にいて紹介されたのだが、
「ああ、女装して学校行った人だ」
と、知っているのが当たり前のように言われて、私は愕然とした。
(他校にまで、それも高校ではなく中学生にまで知れ渡っていたとは……)
私はメディアのおそろしさを実感した。
そんなこともありながら、私はあの女に気づかれないように、あの女がいないときや早起きしたりして一着仕上げた。
そして私はさりげなくあの女に向かって、
「そういえば、あの服は残念だったな、プレゼントだったし、なんならもう一度つくってやろうか?」
と、言ったのだが、あの女はどういうわけか、
「ううん、もういいの」
それを断った。
うん、といえば、すぐにでも見せて驚かしてやろうと思っていたのだが、まさか断られるとは思っていなかった。
しかもこの女は、それを捨てるわけでもなく、別のものに転用するわけでもなく、大事に取っておくというのだ。私にはこの女の心理がまったくわからないが、もう一度聞いても、かたくななので私もあきらめ、私のつくった一着は今も引き出しの奥にそっとしまわれたままになっている。いつか渡そうと思っているのだが、なかなかそんないい機会がおとづれないでいる。
そうこうしているうちに今日で一学期も終わりである。
あの女はというと、
「ああー、もう、ホントやんなっちゃう! なんでこんなときに髪型が決まらないのかしら! ねえ、ちょっと! 袋はちゃんと用意してあるの? 今日はいろいろ持って帰んなきゃなんないものがあるんだから、ちゃんと用意しといてね、おっきいやつよ、おっきくて頑丈なやつ! いっぱい入れるんだから――ああっ、もう! そっちじゃないったら! 壊れてんのかしら、これ? ああっ、イライラするわ! もういっそ、根元からちょん切ってやろうかしら」
と、朝からの剣幕である。
自分が寝坊するのが悪いのだろ、それに袋など必要なのは計画的に事を運ばない自分のそのずぼらな性格のせいだろうがと、のどまで出かかった言葉をのみ込み、私は用意した袋をみせた。
「ああ、それならいいわ。それから帰りに、教室によってよね。いろいろ手伝ってもらわなきゃなんないから――ああっ、もうまたあー、もういいわよ! あんたみたいなわからず屋はいらないわ! クビよ、クビ! 美容院行ってバラバラに切り刻んでやるから、いい? 見てなさい!」
(坊主にでもするつもりか、この女は)
自分の髪の毛と対話する、この奇妙な女を見ていると、なぜだか私は日ごろから胸に秘めていたことを言いたくなった。
(……なぜ、そんなことを言いたくなったのか)
髪の毛にまで言いたいことを言うこの女の様子からか、それとも、このごろの穏やかな心境のせいか、この夏の暑さのせいかもしれないし、明日から学校が休みだという開放的な気分なのかもしれない。自分でもわからない。わからないが、とにかく、そうしたくてたまらない気分だった。
「ちょっと、いいか? 言っておきたいことがある」
「なによ、このいそがしいときに」
髪をセットするのをあきらめて洗面所からでていこうとする女を私は呼びとめた。
当然、不機嫌そうな顔をむけてくる。
その顔に向かって私は、
「ボクはキミのことが嫌いだ。ずっと前から嫌いだった」
と、胸のうちにずっとわだかまっていたことをはきだした。
よどむこともなくすっと言葉がでてきた。こんなものかと思うほどなんでもないことのように感じた。
気分もよかった。
(はたして、この女はどんな顔をするだろうか……)
不機嫌な顔のまま怒りをあらわにするだろうか、それとも、蹴りが飛んでくるか、無視されるか、もしくは、この間みたいに泣きだすのだろうか。
様々な表情を思い浮かべながら私はこの女の顔を注視した。どれでもなかった。私が想像したものとはまるで違う顔が目に映った。
実に意外だった。
この女は、ちょっと驚いたように目をパチクリさせたあと、笑ったのだ。それも素晴らしくステキな顔で……。
「あら、奇遇ね。あたしもあんたのこと、だぁーいっ嫌いなの!」
あまりにもあっけらかんと言われて、私も思わず笑ってしまった。
傍らに置いていた鞄を私に押しつけると、あの女は、
「そんなことはどうだっていいの。それより、さっさと行くわよ。もう出ないと遅刻しちゃうわ……」
さっと背中を見せ、そのまま洗面所を出て行ってしまった。そのうしろ姿がなんだか妙に印象に残った。
(やれやれ……)
私はまたちょっとだけ笑った。
たしかに、私はこの女のことが嫌いだ。今も嫌いである。だが、以前ほど嫌いというわけでもない。まあ、せいぜい、砂浜に頭だけ出るように埋めて、バケツいっぱいにくんだ海水を上からぶっかけて、そのままバケツを頭の上にかぶせるくらいである。もちろん、私だって昔のようにそのまま生き埋めにするつもりもないので、すぐに引っ張りあげてやる。ご希望なら、そのまま海に放り投げてやったっていい。
まあ、せいぜいその程度だ。
おそらく世間一般の兄と妹の関係性というのは、こんなものなのだろう。
(……思えば、長いものだな)
もう少ししたら、あの女と出会ってからのほうが長くなる。いままで生きてきた半分だ。それだけの年月を経て、ようやく我々は本来あるべきところへ落ち着いたというわけなのだ。
そして、それがこれからも続いていくというわけだ。
なんだか、ひどくばかばかしい。
ばかばかしいが悪くない気分である。
こみ上げてくるおかしさの余韻にひたっていたとき、ふとあの女が押しつけた鞄に目がいった。どういうわけか、イルカのキーホルダーが外されていた。
「はて……?」
(これからの季節に似合うというのに……)
私がいぶかしがっていると声がかかった。
「ちょっと! なに、もたもたしてんのよ! 遅刻するって言ってるでしょ! まったくホント、グズなんだから……」
(……もたもたしていたのは、そっちのほうだろう)
やれやれ、本当に世話の焼ける妹だ。
ため息をもらしながら、私はあの女のほうへ向けて足を踏み出した。




