仕組まれた臨床実習と、変装した大御所たち
翌日から、私たちは本格的にヴァルツァー侯爵家が統括する巨大な医療診療所へと連れてこられた。ここでの実践こそが、私たちの人となりを測る『試練』だ。
消毒液と薬草の匂いが満ちる厳格な現場の空気感に、私は圧倒され、緊張で胸を高鳴らせる。
「――本日は侯爵閣下のご意向により、新規患者のカルテ作成(初診問診)を行っていただきます。用意された20名の患者の主訴を聞き、視診、触診、聴診を行い、正確な症状を見立ててカルテに記述して提出してください。……よろしいですね?」
グレイスが、今回の花嫁修業の教育担当としての主導権を握り、尊大にそう告げた。
ミッションが開始されるや否や、エリシアは医師であるグレイスにべったりと付き添われ、至れり尽くせりの状態で診察室へと入っていく。当然、日陰者である私に先生の助けなどあるはずもなく、私は一人、広めの問診ブースに取り残された。
(落ち着いて、アリア。やるべきことはいつもと同じ。目の前の患者様を救うための、正しい情報を集めるだけよ)
私は深く呼吸をし、目の前の椅子に座った第一の患者様――長年、胃の不調に悩んでいるという壮年の男性へと向き合った。
「こんにちは。本日お話を伺わせていただきます、アリアと申します。よろしくお願いいたします。……失礼しますね、少し脈を拝見します」
緊張を隠し、完璧な微笑みで患者様に接する。
そのブースのすぐ後ろ、パーテーションの影には、診療所の制服である「リネンのエプロンと三角巾」を身にまとった、やけに体格の良いベテラン男性看護師と、異様に気品のある熟練女性看護師の二人が控えていた。
……そう、変装したヴァルツァー侯爵アルベルトと、夫人である。二人は患者の案内係を装い、アリアの「生の問診」を網膜に焼き付けるべく潜入していたのだ。
私はそんな「最高教授陣」が真後ろで見守っているとは夢にも思わず、真摯に問診を進める。
「心拍正常。脈拍も、呼吸の仕方も規則正しく問題はなさそうです。ただ……顔色に対して、少しお腹の張り(膨満感)が目立ちますね。普段、お食事の後に、みぞおちの辺りがキリキリと痛むことはありませんか?」
「ああ、そうなんだよ! よく分かったね、お嬢ちゃん」
「やはり……。舌の苔も少し白っぽくなっています。これは精神的なストレスや緊張からくる、胃酸の過剰分泌による粘膜の炎症(胃潰瘍の初期症状)の可能性が高いです。お仕事や環境で、何か強いプレッシャーを感じておいでではありませんか?」
((……ほう。素晴らしいな。問診の順序、視診のポイント、すべてにおいて無駄がない。患者の緊張を解く声のトーンも一流だ。あの若さで『触る前にある程度の見立てを立てる』領域に達しているとは……!))
背後で、変装した侯爵夫妻の目がぎらぎらと輝き、ノートに猛烈な勢いでアリアの加点ポイント(SSSランク)を書き留めていく。
アリアの診察スピードは、卓越した知識の引き出しによって驚異的な速さを見せた。
一人につき数分、的確な問診と丁寧な触診で、次々と正確なカルテを仕上げていく。
一方、エリシアとグレイス先生のブースでは、妙なことが起こっていた。
エリシアはカルテの書き方すら分からず、「先生、このおじさんお酒臭くて嫌だわ」「エリシア嬢、これは肝臓の肥大ですね、私が書いておきますから」と、グレイス先生が付きっきりで代筆しているため、一向に進まないのだ。
私が手早く19人目のカルテを書き終え、最後のブースへ向かおうとした時、隣のブースから出てきたエリシアと鉢合わせした。
「あれ……? エリシア、まだ一人目なの……?」
思わず事実を口にしてしまうと、エリシアの顔が怒りで真っ赤に染まった。グレイスも、私があまりの速度で19人分を完璧に処理していることに気づき、呆気にとられた顔で固まっている。
「ちょっと! あんた、なんでそんなに持ってるのよ! 寄こしなさいよ!」
エリシアは私の手から、書き上げられた19人分のカルテを乱暴にひったくると、勝ち誇ったようにグレイス先生に手渡した。
「ほら先生! これ全部、わたしの功績にしておいてちょうだい!」
「ええ、お任せください、エリシア嬢。侯爵閣下には、これらすべてエリシア嬢が一人で書き上げた素晴らしい成果として、私から責任を持って提出しておきますからね」
二人は声を潜めてほくそ笑み、カルテの「名前欄」をエリシアのものへと書き換え始めた。
(……ああ、やっぱり。これでまた私の功績はエリシアのものになるのね。まあ、グレイス先生が主導の修業なのだから、反論しても無駄よね。でも、お医者様である先生が、どうしてこんなに簡単な診察に時間がかかっていたのかしら……?)
知性において二人を遥かに超越しているアリアは、理不尽への諦めとともに、純粋な「医師としての技術の低さ」に対する疑問を抱きつつ、初日の実習を終えたのだった。
――だが、二人は知らなかった。
その横を、アリアの書いた「19枚の最高峰のカルテ」を抱えたグレイスが通った瞬間、変装した侯爵夫人が、鋭い目で見届けていたことを。
「(……あの女、アリア嬢のカルテを掠め取ったわね。しかも名前を書き換えているわ)」
「(ああ。泳がせて正解だったな。これですべての証拠が揃った。あの教師と伯爵令嬢、我が家の医療を舐めた罪、徹底的に思い知らせてやろう)」
何も知らないグレイス先生は、ドヤ顔でアリアのカルテ(エリシア名義)を提出する。
その一連の泥棒行為が、すべてヴァルツァー侯爵夫妻にリアルタイムで筒抜けであり、同時にアリアの評価が天を突き抜けて「我が家に絶対必要な至宝」として確定した瞬間でもあった。
オフィスに戻った夫妻から報告を受けたレオンハルトは、アリアのカルテを愛おしそうに見つめながら、氷のように冷徹な笑みを浮かべていた。
「素晴らしい。さすが僕の愛するアリアだ。……さて、あのネズミどもをどのタイミングで、最も残酷に叩き潰してやろうか」
アリアが「これで恋を諦めて身を引ける」と思っている裏で、ヴァルツァー家の「アリア完全囲い込み&悪女即位拒絶断罪計画」は、1ミリの狂いもなく、完璧に進行していくのだった。




