砕かれた期待、深まる孤絶
僕はまだ見ぬ婚約者候補に、これまでにないほど大きな希望を抱いていた。
同世代の子供たちと全く交わろうとしない僕を、父も母も心配していたのだろう。二人は忙しい合間を縫って、僕を隣領のグレインフィール伯爵邸へと連れて行ってくれた。
この地に大きな病魔が蔓延し、僕たちヴァルツァー家族が総出で復興を手伝ってから、実に十年以上の月日が流れていた。僕は十四歳、僕の婚約者候補であるという双子の令嬢は、今年で十歳を迎えたはずだ。
「初めまして、ご令嬢。ヴァルツァー侯爵家嫡男のレオンハルトと申します」
僕はまだ見ぬ「才女」への最大級の敬意を込めて、完璧な淑紳の礼をとった。
けれど――この地に足を踏み入れ、彼女と対面したその一瞬で、僕の胸を占めていた高揚感は、冷や水を浴びせられたように凍りついた。僕が求めていた魂の片割れとは、あまりにも「違う」と、本能がすぐに判断を下したのだ。
「初めまして、レオンハルト様。エリシア・グレインフィールですわ」
彼女は、格上の高位貴族である僕の名前を、事前の許しもなく、さも親しげに直接呼び捨てにした。
そもそも僕は身分だけで人を判断するつもりはない。市井の平民であっても、僕個人を慕って名前を呼んでくれる者には温かさを感じる。だが、彼女はこれから最高位の侯爵家に嫁ごうとする貴族令嬢だ。あまりにも不躾で弁えのない初期マナーの欠如に、僕は完璧な仮面の裏で、一瞬だけ不快感に身を固くしてしまった。
「ロベルト。ところで、もう一人のお嬢さんはどうしたのかね?」
父が、そこにいるはずの双子の片割れの姿が見えないことを疑問に思い、伯爵に問いかけた。その瞬間、伯爵の顔が見る見るうちに強張る。
「じ、実は昨日から体調を崩しておりまして……せっかくの機会に、なんという不調法を。お許しください。何分、昔から出来が悪く、身体も弱い子でして……」
「ほう。ならば医者である私が直々に診てあげようか」
「いえいえ! お気持ちだけで十分です! ただの軽い風邪ですし、もう処置も済んでおりますから!」
父の親切な申し出を、伯爵はそれこそ蛇蝎のごとく嫌がり、これでもかと全力で拒絶した。その必死すぎる態度と、泳ぐ視線。あまりにも見え透いた嘘だった。
なぜこれほどまでに、もう一人の娘の存在を頑なに隠そうとするのか。僕にはその歪な家庭事情の理由は分からなかった。けれど、今は目の前の「才女」が、あの歴史的な大発見である薬草事業の論文をどうやって書き上げたのか、その真実を聞くことの方が重要だった。
僕はわずかな、本当にわずかな望みを繋ぎ止め、彼女へ語りかけた。
「エリシア嬢、素晴らしい成果を出しましたね。あの薬草の発見と精製法は、医師である僕たちにとっても実に奇跡的な発想でした。……一体、どうやってあの独創的な着眼点に至ったのですか?」
父に促され、僕が期待の眼差しを向ける。――そして、決定的な絶望が僕を貫いた。
「ええと……それは、突然ひらめきましたの」
返ってきたのは、あまりにも幼稚な、子供騙しの言葉だった。
根拠もとっかかりもなく、複雑な医学的知見が「突然ひらめく」なんて奇跡は、この過酷な医学界には存在しない。彼女は父親と同じく、嘘をつくのが致命的に下手なようだった。
「ひらめいた? では、あの成分の配合比率の医学的根拠はどこから導き出したのですか?」
すでに僕の心は冷め切っていたが、確認のためにさらに質問を重ねる。
「……っ、もちろん、患者様の体のことを第一に考えて、何度も、その……実験をいたしましたわ」
「どのような実験を? どの系統の解剖書や医学書を参考にしたのですか? 今はどのような分野の研究をされているのですか?」
「それは……まだまだ勉強中ですので……これからの、お楽しみということで……」
僕の落胆は、計り知れなかった。
目の前にいる少女は、僕が期待していた、命の尊さや医療の未来を語り合えるような才女などでは決してなかった。大人の論文を丸暗記してきたのか、あるいは、大人が用意した神童の神輿の上に、ただ飾られているだけの人形。
その瞬間、僕は彼女に対する興味を完全に失った。
(お父様、お母様、もう充分です。帰りましょう)
僕は両親に向けて、僕たち家族にしか分からない「撤収の合図」を出した。右手をそっとテーブルの端に添える。本来、虚偽を申告した患者に使うのだが、こんな時に役に立つとは……。それを見た瞬間、父と母の瞳にも、隠しきれない深い落胆の影が過った。
「それでは、我々はこれにてお暇しましょう。突然の訪問を受け入れてくださり、感謝いたします」
「アルベルト様、セレナ夫人、もうお帰りですか!? ご一緒に晩餐をと思って用意させておりましたが!」
「いや、これ以上領地を空けるわけにはいきませんから。また次の機会に」
僕たちは早くも見切りをつけ、逃げるように伯爵家を去った。
馬車に揺られながら、すっかり生気を失って俯く僕の、冷え切った手を、母がそっと包み込んでくれた。
「レオン……。邸に戻ったら、王都から医学の新刊が届いているはずよ。一番にお前に読ませてあげるわね」
僕の心を気遣う、優しい母の声。
母はかつて、実家の片田舎の領地を救うため、偏見に塗れた時代の中でたった一人医療を学び、泥に塗れて実践を積んできた人だ。だからこそ、父の無二の理解者となり、二人でヴァルツァーの医療を支えている。
けれど、母のように、血を恐れず医学に精通した気高い女性など、この広い世界のどこを探しても他にはいなかった。
(僕は……お父様のような、魂を分かち合える結婚は、一生できないかもしれないな)
「ありがとうございます、お母様……」
僕の孤独は、前よりもずっと深く、暗いものになっていった。
その日を境に、僕は両親の勧めもあり、できるだけ多くの貴族のお茶会や、お見合いの席に顔を出すようになった。けれど、ピンとくる女性にはただの一人も巡り合えなかった。
彼女たちは最初こそ、格式ある我が家の侯爵紋や、僕の「完璧なお仕着せの仮面」に頬を染めてすり寄ってくる。けれど、僕が少しでも医療の話――病と闘う過酷さや、人体の神秘について口にすると、誰もが例外なく顔を青ざめさせ、不快そうに扇子で口元を隠した。
蝶よ花よと美しさだけを求められて育てられた貴族令嬢たちに、泥に塗れて病を追及することはおろか、人の血を見ることさえできはしないのだ。
僕が断るまでもなく、本性の片鱗を見せるだけで、令嬢たちは二度と僕の前へ現れることはなかった。
誰も、僕の本当の言葉を聞いてくれない。
この完璧な仮面の下にある、醜くも、熱い医学への執着を受け止めてくれる人など、この世界のどこにもいないのだと、僕はただ静かに諦めていった。




