2.舞踏会の夜 3
残酷な描写があります。
小動物がお好きな方はご留意下さいませ。
「つまらないな、ユージィニア」
夜闇に似た呟きが落ちる。
その呟きに、差し向かいに座ったラスティアの顔が曇る様を見て、
気温が変わったわけでもないのに肌が総毛立つ。
不安になって視線を伺おうとしたところで、
優雅な仕草で膝の上のノアを掴みあげられ、ぽいと床に投げ捨てられた。
「アレックス?!」
慌てて拾い上げようと立ち上がったところで、腕を掴まれて体ががくんと揺れた。
触れんばかりの距離から瞳を覗き込まれ、
人外者特有の甘い香りと、あまりの瞳の鋭さに息が止まりそうになる。
腕を掴む手は、軽く触れているだけなのに痛い程だ。
「石炭の虚栄心に付き合わされるとは思わなかった」
刃物みたいな優しい声が、ユジィを血だらけにする。
(…………こわい)
そのまま首を引き裂くような、残忍な笑み。
フリードリヒのような生身の残忍さではない、虚ろな暗さに呑み込まれそうになる。
「私を試すなんてね」
微笑んでいるけれど一欠片も愉快そうではなくて、そこにあるのはただの煩わしさだ。
(違う、試したのはあなたの方だわ!
自分でも危機管理出来ないくらいの甘えだったからこそ、
私はこうやって追い詰められているんだもの)
脳内で警鐘を鳴らす鐘が揺れているけど、展開に対応出来ずに戸惑うしかない。
「誰かこの子が欲しいかい?」
続いたその声は穏やかで、一片の感情も含んではいなかった。
(………………アレックス?)
すぐには理解出来なくて、ユジィは呆然と菫色の瞳を見返す。
「あらら、アグライア公、もう飽きちゃいましたか?」
フリードリヒの上機嫌な言葉に、先に反応したのは体の方だった。
どっと冷や汗が吹き出し、血の気が引いた。ぐらりと視界が揺れる。
「でも僕はいらないなぁ。王が価値なしとした石炭なんて、
最下層で暖炉にでも焼べてしまえばいいと思います」
「そうだね、僕もそれに賛成」
フリードリヒの嬉々とした声にロードが賛同し、邪悪な天使のように笑い合う。
ユジィと同様に呆然としていたエレノアが、我に返ってその二人をきっと睨み付けた。
「どういうことですか、アグライア公!ユジィは…………」
「これは所有物なんだよ、エレノア。私がいらなければ、打ち捨てられるものだ」
その声の優しさに、またひたりと絶望が胸の内に落ちる。
心ががらんどうになって、その空っぽの底が焦げ付いていた。
自分だけが状況から置き去りにされている。
(でもどうしよう、これは苦しくてうまく飲み込めない)
こわい。
それは確かだ。でもこれは、身の危険だけの恐怖だろうか。
(この魅力的な人外者の庇護や興味を失っただけの恐怖だろうか?)
「では、わたくしがユジィを貰い受けますわ」
「君にはその権限はない」
にべもないアレックスに、
エレノアの素晴らしく綺麗なミントブルーの瞳に、怒りが煌めきとなって散らばる。
この空気でも物怖じしない嗜好品は、強くて麗しい。
そんな彼女を悲しませていることが惨めで、またユジィの胸を苦しくする。
「では、シュタイル様に」
「願い事には対価が必要だが、彼はそれに見合う支払いが出来ると?」
「エレノア、私には王の要求を受ける危険は犯せないよ」
「シュタイル様!」
「考えてもみなさい。王が対価として君に害を成すものを望んだらどうするのかね?」
「わたくしは構いません!こんな仕打ちは、到底許せないわ!」
「駄目だ、エレノア。堪えなさい」
厳しく言い含めるシュタイル伯に、エレノアはなおも講義したが、
守護者がそれを許すことはなかった。
その間、アレックスの手が離れてじわりと心が欠け落ちたユジィは、
冷えた頭で先程のフリードリヒの言葉を反芻する。
(悪意を正しく理解出来なくて、彼の策に乗ってしまったんだわ)
フリードリヒは、ユジィがエレノアに抱いた拗れた劣等感に気付いて、
わざと挑発したのかもしれない。
好意を持つ者にも羨望は感じて当たり前だから
、ユジィはその小さな澱みに気付かずに、彼の望む言葉を返してしまったのだろう。
面白がってゲームをしかけたアレックスにばかり気を取られていて、
足元の穴に落ちたのは自分の責任だ。
(心が欠け落ちていっている。……アレックスが、私を見放したから?)
ふと、心のどこかで、それは何かおかしいと感じた。
(私が乗り換えで願ったのは、私のアレックスの元に帰ることでしょう?)
それとも、運命の条件付けは別のものを拾い上げている?
「誰もいらないのなら、石炭部屋かな」
自分で投げておいて飽きてしまったのか、
アレックスはすっかり興味がなくなった様子で溜息をつく。
老獪な微笑もなく、純粋に退屈そうだ。
「可哀想だけど、そういうことでしょうね」
ラスティアが頷き、スヴェインは煩わしそうに他人顔で黙り込んだまま。
(…………そっか、ここは移動の合間の続き部屋だって、そう言っていた)
彼らは長居をするつもりは毛頭なく、この後は自分の城に帰るのだろう。
この先のことを考えようとして、何も思い浮かばなかったので思考を止めた。
(ノアは、……良かった怪我とかはしてなさそう。人がはけたら、外に出してあげよう)
少し離れたところで、部屋の隅に避難しようとしているらしい白い影を見付けて、
せめてもの間、胸を撫で下ろす。そうだ。せめてそれだけは。
ノアの存在を意識したら、ふわりと心の強張りが緩んだ。
「はーい。じゃぁ、我が君。もう行きましょうよ」
「わかった、わかった。今日は終わりにしよう」
「あ、一ついいですか?」
可愛いらしく強請ったロードに苦笑したアレックスを、フリードリヒが呼び止めた。
「これは、僕に下さい」
ふっと、その手元を見たアレックスの瞳に、嗜虐的な色が落ちる。
「構わないよ」
「有難うございます。ねぇ、………スヴェイン!」
「フリードリヒ?」
それは一瞬のことだった。
手に掴んだものを、フリードリヒが力一杯スヴェインに向かって投げつける。
解散の合図と共に立ち上がっていたスヴェインは、その悪ふざけに気付くと、
溜息ひとつで素早く剣を鞘から引き抜き一閃させ、飛来物を叩き落とした。
濡れた音を立てて何かが床に落ちた途端、フリードリヒが声を上げて大笑いしている。
ラスティアはフリードリヒの意図に眉を顰め、
そこまでを目に収めてから、アレックスはロードを伴うとケープを翻して立ち去った。
耳に馴染んだ足音が遠ざかってゆき、ふつりと消える。
(……………これは、何?)
その残骸が落ちたのは、ユジィのすぐ目の前の床だった。
「………………酷い、なんてことを」
口元を押さえて涙を零したエレノアを抱えるようにして、シュタイル伯が足早に部屋を出て行く。
フリードリヒもそれに続いたのか、顛末を見届けることすらせずに部屋から消えた。
その哄笑を遠くに聞きながら、今目の前にあるものが理解出来なくて、ユジィは広がった真紅が爪先を濡らすまでずっと、その場に立ち尽くしていた。
「…………ノア?」
掠れた子供みたいに頼りない声。
「ノア、」
今、冷たい大理石のモザイク床で真っ二つになっているのは、
ついさっきまで足元に擦り寄って甘えていた子供竜の残骸だ。
鮮やかな中身を晒して、虚ろな瞳には命の残滓も残っていない。
流れ出た血が、ゆっくりと広がってゆく。
(わたしが、…………アレックスの庇護を失ったから)
守るべきものがあるのなら、わきまえるべきだった。
こうなったのは、我慢のきかなかったユジィの責任だ。あの一瞬で、全てを台無しにしてしまった。
(………………ごめん、)
愚かさの代償を背負わされた無垢な生き物の生涯は、なんて理不尽なことか。
(ごめん、…………なさい)
「ノアっ、」
広間には剣の血糊を拭うスヴェインと、彼を待っているらしいラスティアの気配がまだある。
こちらには一変の興味も向けない彼等を、どこか意識の遠くで有難いと思った。
夜空の色の視界の端に、滅ぼされた国の、記憶の奥の炎の色が蘇る。
“この光景を忘れなさい、ユージィニア。人外者は心を違え理解の及ばない、災厄のようなもの。
あなたが訪れた期が悪かったのでもなく、父が愚かな選択をしたのでもない。
ただ、通り過ぎて滅ぼしてゆく嵐だと思いなさい。いいわね、忘れるのよ?”
燃え落ちる城の中でそう微笑んでくれたのは、カタルゴ伯の娘で、
いずれはリアナフレスカの領主になる人だった。顔いっぱいの笑顔で笑う可愛らしい人だったのだ。
“あなたにこんな酷いものを見せてしまって、ごめんなさいね”
どうにか手を貸そうと重過ぎる剣を手に取ったユジィ叱咤した、涙を滲ませた瞳はどこまでも穏やかで。その終末を見ても踏み止まったのは、憎しみや罪悪感を抱えることが矛盾だと知っていたからだ。
石炭候補の自分がリアナフレスカを滅ぼす理由になどならないことは分かっている。
だが、天秤が傾く最後の分銅の一つ分くらいは、
カタルゴ伯が自分を逃がそうとしたことも要因になっているだろう。
優しかった人達を殺したその災厄に向けて歩いてゆく自分が、
涙を流す程身勝手になるわけにはいかなかった。
胸元を服の上から両手でぎゅっと掴み、ぜいぜいと耳障りな呼吸を感じる。
(………………あ、)
誰かが遠くで叫んでいる。
(ううん、あれは慟哭だ)
あまりの音に両手で耳を押さえて初めて、叫んでいるのは自分だと気付いた。
膝に染みる濡れた感触は、膝から床に崩れ落ちたからだろうか。
近くなったノアの亡骸に震える手を伸ばすと、まだ暖かいそれを必死に掻き集める。
その行為の中で、陽炎みたいに、カタルゴ伯の城が落ちた日に飲み込んだ慟哭の記憶が揺れた。
喉が痛む。悲鳴は尾を引いて、欠け落ちた心では、涙は溢れない。
(ごめんなさい)
災厄だと思えば、その残酷さを受けても愛してはいける。
でも、この足元の死を見せられて、もう耐えられなくなりそうだった。
「…………ユジィ、喉を潰してしまう」
それを止めたのは、聞き慣れない誰かの声だった。
ふわりと背中にケープをかけられ、呆然としたまま見上げると、
視線を合わせる為に床に膝をついた人が、ユジィの眼差しを受け止める。
その瞳を彩る戸惑いが、一瞬で奇妙な熱を孕んだものに変わるのを麻痺した心のまま見ていた。
(………………スヴェイン?)
目の前にいるのが誰なのかを理解したら、ついさっき彼が何をしたのかを思い出す。
「…………わたしに、触らないで」
悲鳴は途切れたけれど、その余韻で声がひび割れる。
そんな言い方をされて怒るかと思ったが、なぜかスヴェインは傷付いたように息を詰めた。
(この人が、ノアを殺した)
わかっている。悪いのはユジィの浅はかさだし、直接の原因はフリードリヒだ。でも、
(この人がノアを斬ったのを見てしまった)
腕の中に抱え込んだ残骸は、さっきまで幸せそうに寝息を立てていたのに。
そう思ったら、どうしても許せなかった。
理由を失くして決壊した罪深さに打ちのめされれば、彼等のこともまた、憎む他なくなってしまう。
(……………だから、側に来ないで。あなた達を憎みたくなんてない)
せめてその刃が自分に向けられるものであれば、赦すことも容易いのに。
(私の本音は、なんて醜いのだろう)
書の世界で育てられたこの世界への飢餓の、なんと悪食なことか。
(でも、人外者の残酷さを憎んでしまったら、私にはもう大切なものがなくなってしまう。
私が、この世界が間違えた場所だとわかってもまだ魅せられているのは、
人間の領域を超えたものがおとぎ話みたいで美しいからだ)
そんな自分が恥ずかしくて、歯を食いしばって項垂れた。
「亡骸を集めたいのなら、包むものを持ってきます」
スヴェインは、一度立ち上がり卓上のクロスを剥ぎ取ると、
手が汚れるのも構わず手際よくノアの残骸を包んでゆく。
悲嘆で塗り潰された頭で、なぜスヴェインが自分に敬語を使うようになったのだろうと考える。
でも、すぐにどうでもよくなって疑問を投げ出した。
「ここにいて下さい。すぐに戻ります」
ノアの遺骸の包みをユジィの前に置いて立ち上がると、視線を巡らせたスヴェインが声を張った。
「ラスティア、俺が戻るまで誰も彼女に近付けさせるな」
「…………え?おい、」
同じく近くにいたようだが、今まで惚けていたらしい。
我に返って驚く友人に、スヴェインは返事をする間も与えないまま足早に立ち去った。
視線を上げられず、立ち上がることも出来ないまま、
ユジィは静かになった部屋で、ラスティアの苦労人めいた溜息を聞いている。
(もう、ノアの甘えた鳴き声を聞けない)
最後にあんな目に遭って、きっと困惑もしていたし、怖かっただろう。
(痛かったよね、びっくりしたよね)
ショックのあまり、欠け落ちた心が飛び起きてしまったのだろうか。
願い事を失えば心も欠けるのに、
誤認識で心を長らえさせたアレックスももういないのに、
こんなに苦しいなんてどうしてだろう。
(心が全部欠け落ちて完全に武器に成れば、私にも理外れの力が使えるのだろうか?)
けれど、悪意に報復しようにも、心がなければそれも叶わないだろう。
息を吸い込もうとしたのに嗚咽が混じりそうになり、正しい呼吸の仕方がわからなくなった。
喉を震わせて喘ぐと、肩に手を置かれて意識を引き戻される。
「君ね、一度深呼吸しなさい。ほら、ここで倒れたらその子の埋葬も出来ないよ?」
体を屈めて微笑みかけたラスティアに、また、ふつりと疑問の泡が浮かび上がる。
(どうして、この人は私を気遣うの?)
彼等は酷薄で他人に興味のない、高位の人外者なのに。
(声に、本物の温度がある)
スヴェインは駄目だ。今は見るのも耐えられない。
でも、ラスティアはそうではないので、素直に言葉に従うと、やがて乱れた呼吸が落ち着いた。
「お墓、作ってあげなきゃ」
それはただの自己満足で、自分のための子供じみた我儘だ。
でも、こんな風に投げ出すのは嫌だった。
こんな酷いものではなくて、もっと安らかに象り直したい。
(…………あ、)
さっき、スヴェインの瞳に浮かんだものと同じ熱が、ラスティアの銀色の瞳にも見えた気がした。
鈍い銀色には、黄昏色の藍と茜の光彩が散らばる。
個の色を強く持ちながらも、多彩な色を見せるのは、高位の人外者だけの権利らしい。
もう顔も見たくないけれど、スヴェインの瑠璃色の瞳にも、
南洋の鮮やかなパライバグリーンと淡い金色の光彩があって、花火みたいだった。
「ソーンの城には薔薇の庭があるよ?」
「棘のお城?」
満開の花が似合うひとなのに、棘という領名は不思議だった。
(どうして急に、そのお城の話が出たの?)
言葉の奥まで飲み込めずに、その不思議さに首を傾げる。
そっと膝に抱える上げた純白の包みには、鮮やかな血の花が開いて痛ましく、どうしても直視出来ない。
「私の庭はね、リベルフィリアの統べる季節には不似合いだけれど、
満開の薔薇が常に咲き誇っているんだ」
その言葉に、初めてノアを見つけた日のことを思い出した。
エレノアの為に用意された春咲きの三色すみれの鉢にへばりついていたのを、
使用人に引き剥がされて床に落とされていたのだ。
菫の蜜が欲しくて鳴いていた、あの甘えた鳴き声。
(ノアには薔薇じゃなくて…………)
「…………菫がいい」
ぽつりと零して、ノアの残骸を抱き締める。
(どうしてこの心に夜は来ないの?お願いだからどうか、早くこの痛みを消して)
黙り込んだユジィに辟易としたのか、ラスティアはそっと俯いたユジィの頭を撫でてくれた。
その直後、戻ってきた足音に気遣わしげな声が落ちる。
「彼女に何か余計なことを言ったんじゃないだろうな」
「何て言い草だ。私はこれでも、この子を慰めていたつもりなんだよ」
「酷い顔色をしている」
衣擦れの音がして、目の前にスヴェインが跪く。
「ここを出ましょう。王に許可を貰ってきました。今日からは、俺があなたの後見人です」
「スヴェイン?!」
ぎょっとしたのはラスティアだ。
つい声を上げてしまった彼の足元で、ユジィはぎりっと唇を噛み込む。
ぱっと燃えた不快感に、胸の奥の怖さが募った。
「石炭に戻ります。あなたでは、」
「………ええ。お叱りは後で受けましょう。今はひとまず、暖かいところへ行きましょう」
「離して下さい!」
手をするりと滑り込まされて、強引に抱き上げられた。
暴れようとしてから、抱き込んだノアがもっと壊れてしまいそうで、ぎくりと固まる。
「待て、スヴェイン!説明を……」
ラスティアの声が遠くなり、視界がくるりと暗転する。
転移されているのだとわかったけれど、急激な空間の変化についてゆけず、ユジィは気を失った。




