花綻びる水底の晶つ宮・三
『おい、こんなところで寝るんじゃねえ。起きろ。アスセナ――直生!』
『わひゃぁ!』
突然肩を掴まれる感触がして、飛び起きた。
いつの間にか閉じていたらしい目を開けると、ベイルさんの呆れ顔が視界いっぱいに映り込む。
『あ、あれ? 私、寝てました?』
『ああ、そりゃあもう、ぐっすりと。水底で昼寝とは、とんだ豪胆だな』
溜息を吐きながらベイルさんが離れていくので、おかしいなあと首を捻り捻り、玉座から下りる。
『そんなつもりじゃなかったんですけど』
『居眠りする奴は、大体同じことを言う』
……ううむ、手厳しい。
『居眠りするつもりはなかったんですけど、何か変な夢っぽいの見たんですよねえ』
『夢?』
ベイルさんがステンドグラスの壁に向かっていく足を止めて、私を振り返る。怪訝そうな顔だったので、頷き返して見せた。
『夢だと思うんですけど。この玉座の間で、男の人が二人話をしてたんです。この街を放棄しなくちゃいけない、って』
『……詳しく話してみろ』
顔だけでなく、身体ごと私を向いたベイルさんが、妙に真剣な顔をして言う。何かおかしなことを言っただろうか。よく分からないけれど、ベイルさんがそんな反応をするのだから、何か変なことを言ってしまったのかもしれない。
『ええと、この部屋に二人の人がいて、片方が玉座に座ってました。それで、夢の始まりは玉座に座ってる人が呟いた風で』
玉座で見た夢のことをできる限り思い出して、なるべく細かく伝える。五帝のこと、神は全て眠りにつかねばならないということ、その為にこの街の主は去らなくてはならなくなったこと。花の宮は、その人たちの置き土産であること。
『……ってこれ、もしかしなくても』
旧時代終焉の伝承そのままだと、今になって気が付いた。
かつて神々が権勢を誇った旧時代は、力ある五柱の神様――五帝の戦争が激しくなり過ぎた為に、創造神が自分を含めた全ての神様を封印したことで終わったのだという。
『旧時代の終焉、その当時まさにこの部屋であった出来事……なんだろうな』
深々と溜息を吐いて、ベイルさんが言う。
『あ、あの、私、変なことしちゃいましたか!?』
『変だとは言わねえが、とんでもなくはある』
『え、ええ!?』
『どうやら、お前には調跡師の才能があるらしい』
『調跡師、ですか?』
『対象の魔力に同調し、その来歴を探ることに長けた魔術師のことを、そう呼ぶ。簡単に言うと、過去視だな』
『か、かこし……?』
『要するに、お前は玉座に座ったことで、玉座で起こった過去の事象を探り見たってことだ』
『そ、それをするのが、調跡師ですか』
『まあな。通常、調跡師は時間を掛けて少しずつ対象の過去を遡っていくものと聞くが……一足飛びに旧時代を垣間見るとは、全くお前はいつでも俺の予想を超えるな』
『す、すみません……』
『謝ることじゃねえがな。――ま、貴重な経験ができたと、素直に喜んでおきゃいい。旧時代を探る研究者は少なくねえが、そいつらが成果を上げてるかと言われれば、そうでもねえからな』
はあ、と分からないなりに相槌を打つと、ベイルさんは珍しく少し迷ったような顔をしてから、
『調跡師としての素質は、お前の気質そのものなんだろうよ。お前は大抵のものは反発もせずに呑み込んじまう。それと同じで、物体の持つ魔力が流れ込んでくるのも拒まずに、受け入れる。解析して読み取るのは、一種の自衛反応だろうな。本当に危険がねえかどうか、臆病なりに探りはするって訳だ』
『……微妙に貶してますよね?』
『気のせいだ。元々、水は魔力を留め内包する性質でもある。今回はそれが上手く合致したところもあるんだろうが』
『はあ……よく分かりませんけど、とりあえず、物の過去を見ることもできる、って覚えておけば大丈夫ですか?』
『ああ。それが気に食わなけりゃ、訓練次第で封じることもできる。ま、結局のところ大した話でもねえ』
大した話のように聞こえたので、実は内心ビクビクしていたのだけれど。そう言ってもらえると、少しほっとした。
『さて、予想外のこともあったが、そろそろ休憩は終いだ。少しは休めたかい』
『あ、はい。大丈夫です』
『扉は見つけた。いよいよ、花の宮だ』
ベイルさんが示したのはステンドグラスの真下、正面から見るとちょうど玉座の影になって見えない辺りだった。近寄って目を凝らして見ると、壁の中に四角い切れ目があるのが分かる。まさに隠し扉という風で、その扉はあった。
『後世に遺そうとしたのに、隠す意味ってあるんですか?』
『むやみやたらに入り込む馬鹿がいたんじゃ、遺す意味がねえと思ったんじゃねえのか』
『……ベイルさんて、竜とか神様の話になると、明らかに適当に返事しますよね』
『そういうことも、なくはねえ』
さすがに否定はしないらしい。やれやれ、と少しだけ笑って、隠し扉を開けるベイルさんに続き、扉をくぐった。
とぷん、と水の膜を突き抜けるような感覚。
隠し扉を抜けると、青い光に満たされた玉座の間とは打って変わり、真白い光に迎えられた。部屋中に溢れる柔らかな光は明るいけれど、眩しくはない。――そして、何より。
「空気だ!」
これまでずっとまとわりついていた水ではなく、懐かしい空気に全身が包まれる。思わず足を止めて、深呼吸をした。息を吸って、吐く。たったそれだけのことだとは言え、それができるということに、妙に安心した。
「一応、真っ当に清浄な空気らしいな」
深呼吸をしていると、そんな呟きが聞こえた。
呟くベイルさんの周囲で、かすかに散ってゆく魔力の気配。私はうっかり暢気に深呼吸なんかしてしまっていたけれど、ベイルさんはきちんと害がないかどうか調べていたらしい。
考えてみれば、当たり前のことだった。ここは水底で、どんな異常事態が潜んでいるとも分からない。そのことに最初に意識がいかない――こういうところが、度々ベイルさんに「迂闊」と指摘される原因なのだろう。本当に、私はまだまだ色んな経験が足りない。
溜息を吐きたいのを堪えて、気を取り直す。経験不足であっても、少なくとも今また新しい経験を得られたのだから。せめて、それはちゃんと次に生かせるようにしないと。
「でも、何でここに空気があるんでしょうね?」
「花の為だろうよ」
濡れて額に貼りついた前髪を右手で掻き上げ、ベイルさんはさも当然とばかりに答える。露わになった額の端には、複雑な意匠の黒い紋様。久々に見るそれは、何でもベイルさんを守るものであるそうなのだけれど――
……気のせいだろうか、前に見た時と模様が違う気がする。
「アスセナ?」
「あ、いえ、花の為って、どういうことなのかな、と」
訊きたい言葉を呑み込んで、無理矢理違う質問にする。
前にその紋様を見た時、ベイルさんは余り語りたくなさそうにしていた。多分、触らないでいた方がいいことなのだろう。
「……。……元々人間の住み得る場所――つまり、空気のある場所咲いてた花なら、水の中に咲く訳がねえ。花を維持しようと思うなら、環境そのものを維持する必要がある」
妙に間を挟んでから、ベイルさんは口を開いた。
「あの扉を唯一の出入り口にして、結界が張られてる。神の眷属が手ずから敷いたなら当然だが、かなり巧妙だな」
「そう言えば、後世に残せるよう手配するって。さっきの夢でも言ってましたよ。じゃあ、これがその手配の結果なんですね」
「だろうな。てことは、旧時代の魔術がそのまま動いてる訳だ」
そりゃあ珍しい、と少しも珍しいなんて思っていなさそうな顔で言って、ベイルさんはずんずん進んでいく。
白い光で満たされた空間は広く、何もかもが白かった。ぐるりと部屋を囲む壁も、天井も揃って同じに白い。ただ、天井は玉座と似た材質で作られているようで、ほのかに透ける結晶は淡く光り、チカチカと星明りのような煌めきが瞬いている。これが辺りを満たす光の源なのだろうか。
そんな空間の真っ只中、文字通りの中央に「壁も屋根もすべて透明な結晶でできた宮」――私達の目的地は、あった。
ガラスなのか、水晶なのか。それは分からないけれど、水のように透き通った結晶で、その宮は造られていた。白く満ちる光を集めて、きらきらと煌めいている。
宮までは、白い石で縁取られた細い通路が延びていた。通路の外には、何かの模様を描くかのように細かく水路が張り巡らされていて、どこをどうやって引き込まれているのか、澄んだ透明な水が絶えず流れ続けている。
「何か、圧倒されちゃいますね」
小走りになってベイルさんの後をついていきながら、床中に張り巡らされた水路を眺める。上手く読めないけれど、ひょっとしたら何かこの空間の維持に関わる魔術の紋章を、そのまま水路にして刻んだものなのかもしれない。
「所詮は、ただの遺物だ」
そんなことを言いながら、ベイルさんは通路を進んでいく。
透明な結晶の宮に、扉はなかった。ぽっかりと開いた入り口にはつやつやとした白い紗が幾重にも掛かっていて、それが目隠しになって宮の奥を窺わせない。
ベイルさんは薄い幕を手で払って、奥へと進んでいく。
「これが、噂の花か」
ふと、ベイルさんが足を止める。その背中に追いついて、脇から顔を出して窺い見ると、
「はー……これはまた綺麗ですねえ」
まるで、その一角だけ雲間から太陽の光が差し込んでいるようだった。紗に囲まれた部屋の中、綺麗に丸く天井から差し込む光が床を照らしている。床には差し込む光に沿うようにして花壇が作られ、その中に白い花が咲いていた。
ベルベットのような光沢のある、白銀の花。たくさんの花弁が密集して咲いている様子は、牡丹や芍薬に近いかもしれない。村長のおばあさんは花を摘み過ぎることを心配していたけれど、円を描く花壇の直径はおそらく私の身長の倍はあるだろうし、花も花壇からこぼれんばかりに密集して咲いている。依頼は余裕を持って達成することができそうだった。
「これを採取して帰れば、依頼は完了だな」
ベイルさんが花壇に近付き、膝を折る。持っていた箱を花壇の縁に置くと、さっと左手に鋏を生成して花を摘み始めた。
「ほんとに器用ですよねえ、その左腕」
「それなりにな」
ベイルさんの左腕は、生身ではない。傭兵になる前、軍人をしていた頃に失ったそうで、義手になっているのだ。
因みに、義手は北の雪国バドギオンの風竜謹製で、ほとんど腕を再生させたに等しい、とんでもない高性能を誇るのだという。見た目だけに留まらず、触っても温かく、不自然な硬さもない人の手そのものの左手は義手だと言われても、信じる方が難しい。生身との繋ぎ目もないし、更には温感も触覚もあって、自然治癒能力まで備えているというのだから驚きだ。
しかも、魔石を吸収させることで、本来なら使えない――ベイルさんは風と光の二重属性だ――はずの地属性は鉱物系の魔術まで使えるようになるというオプション付き。さっきの鋏も、そうやって生み出されたものだ。
「私も摘みましょうか?」
「お前は摘んだ奴を箱に入れてくれ」
そう言って、ベイルさんが次々と摘み取った花を寄越してくれたので、大人しく箱に詰める作業を担当することにした。茎が折れないように、花が散ってしまわないように、慎重に並べる。
ひたすら渡される花を並べ、箱がいっぱいになる頃には、空の太陽も傾き始めてきたのか、花壇を照らす円は大分小さくなってしまっていた。
「あ、そろそろ箱がいっぱいになりそうなので、後一本か二本で大丈夫です」
「なら、これで最後にしとくか」
差し出された最後の一輪を受け取り、箱に収める。蓋を閉じて鍵をしてしまえば、完全に封がされて、帰りの道行でも散ってしまう心配はなくなる。
花を摘み終わったベイルさんが立ち上がるので、私も箱を抱えて立ち上がったら、
「ご苦労さん」
それは、まあ、やっぱり。お約束というか、箱は私の手の中からなくなってしまった。
「鳥にでもなるつもりかい」
「うぶっ」
つい尖ってしまった唇が、伸びてきた右手の掌に潰される。
「長居は無用だ、とっとと帰るぞ」
アヒル口を潰した手が、そのまま私の左手を取った。来た時と同じように、手を引かれて歩き出す。残念なことに、今日も私はいつも通りの掌の上で転がされてばっかりだ。
「あーあ、分かりましたよう」
「何だ、不満そうだな」
ごく淡く、笑いを含んだ声が揶揄する。
「別に、そんなことないですけど! ……こんなに早く依頼が終わるとも、思ってなかったですけどね」
「予め必要な情報さえありゃあ、事は簡単に済むもんだ」
「ですか……。この後はどうなるんです?」
「今日は村で宿を借りられることになってる。明日からは、カルフールに宿を取ってあるから、そっちだな」
うん? 何かちょっと変なことを言われたような?
「……明日からは、カルフールに宿が」
「ああ」
答える声は、どこまでも平然として。
カルフールは、メリノットの王都だ。金属や石材、木材を始めとして、依頼があれば何でも加工するという謳い文句で知られる技術国家のメリノットらしく、たくさんの鍛冶屋や細工師の工房が集まっているらしい。
「初めから一日で終わらせて、移動する気だったんですか!?」
「早く終わらせりゃ、それだけ休みが増える。そう言ったろう」
「き、聞きましたけど! まさか、一日なんて……」
ううむ、管理部の人が知ったら、なんかもう悲鳴を上げて倒れてしまいそうな言い分だ!
「観光できるのは正味二週間か。どれだけ回れるやら」
「うわあ、観光する気満々!」
「何だ、お前は違うのかい」
しれっと問う声は、またしても揶揄するような。ぐぬぬ、と唸れるものなら唸りたい。
「そりゃあ、もう! 楽しみですけど! ものすごく! すごーく! 楽しみにしてましたけど!!」
自棄になって言ってみたら、くつくつと喉を鳴らして笑う声が聞こえて、何だかすごく負けた気分になった。
カルフールは王都という肩書に相応しく、賑やかで大きな街だった。街にはたくさんの装飾品や細工物を扱っているお店があって、通りを歩いているだけでも飽きない。到着して一日目は、大通りを散策するだけで終わってしまった。
そんなカルフールの街は、夜になっても綺麗だった。その技術力を誇示するかのように、街のあちこちに細工物を使ったイルミネーションのようなものが設置されていて、目を楽しませてくれる。ベイルさんが取っておいてくれた宿には、街を一望できる窓があったので、一層楽しむことができた。
「すごいですねえ、街中、綺麗なものがたくさん」
「お前は、ああいうのが好きだな」
「だって、綺麗じゃないですか」
「見るのが?」
「え? うーん、そうですね……きっと、そういうことなんだと思います」
「作る方は?」
「やったことがないので、分かりませんけど――どうしたんですか?」
「そろそろ、こっちでの生活にも慣れたろう。進路を考える頃かと思ってな」
「あ、そうか、十七歳でどうするか決めるんですもんね」
商会は私のように身寄りのない子供を引き取って育てたりもしていて、その子供達は十七歳になると、自分で進路を選ぶ決まりなのだ。そのまま商会で働く――主に管理部とかの仕事で、実際に傭兵になる子はまずいない――をするか、別の道を選ぶか。
私も十六歳になって、猶予は一年を切っている。確かに、そろそろ真面目に考える頃かもしれない。
「細工物が好きなら、シェルに弟子入りするのでもいいかと思ったんだが」
「シェルさんに弟子入り……」
シェルさんはベイルさんと同じに商会で部隊長を務めている傭兵の人で、羊の獣人だ。細工師としての腕も一流で、宝石細工の装飾品なんかも作っていたりする。
シェルさんは細工の腕以上にとても人柄がいいから、きっとたくさんのことを学ぶことができるに違いない。それは、そう思うのだけれど。
「うーん……」
ただ、その道に進みたいかと言われたら、心惹かれはするものの、何か違うような気もした。
広い部屋の中は、机やソファのあるリビングと、ベッドの並んだ寝室とに分かれている。私が夜景を眺めている窓はリビングにあって、振り返ればソファに座って新聞を読んでいるベイルさんの姿を見ることができた。
「気が進まねえかい」
ベイルさんは新聞を読んでいた目を上げると、じっと私を見据えて言った。鋭い、何もかも見通してしまいそうな眼差し。大事なことを言おうとする時、ベイルさんはよくこんな眼をする。
「ええと、細工師の仕事も素敵だなあとは、思うんですけど」
「その道を選ぶほどじゃねえ、か」
「多分、そういうことなんだと思います……」
「かと言って、このまま傭兵になる気もねえんだろう?」
「それも、多分……。こうやって、ベイルさんと色々なところに出張するのは、楽しいんですけど」
それはベイルさんがそうしてくれているだけであって、傭兵の仕事とイコールではない気がする。
「なら、何か気になってるものや、ことは?」
「気になってるもの……」
何かあるだろうか。何があるだろうか。
夜景に背中を向けて窓枠に寄り掛かり、じっと考えてみる。今まで生きてきた中で、どんなものに巡りあってきただろう。その中の、何が私の中に残っているだろう。
「……あ」
不意に、閃くものがあった。
「ハーデさん」
「ハーデ?」
呟くと、ベイルさんは眉間に皺を寄せて怪訝そうにした。
ハーデさん――ハーデ・ベルムデス。私をこの大陸に呼び込んだ張本人で、私が故郷に戻るにあたって、最大の障害となった人でもある。そして、今はもう亡い人だ。
「……あいつが最期に言ったことが、気になってるのかい」
「それも、ありますけど」
ハーデさんは、その末期にこの大陸で暗躍する何者かが存在することを教え、警戒するようにと言い残してくれた。その何者かが、本来その気のなかったハーデさんを歪ませて、大罪を犯させたというのだから、善いものであるはずはない。
できることなら、どこに潜んでいる何者で、何を企んでいるのか解明して、同じようなことが引き起こされる前に対策を取りたいとは、思うけれど。
「それより、今は単純に、知りたいんです。本当は何を思って生きて、何を思って倒れていったのか」
「死者にこだわり過ぎても、ろくなことにはならねえぞ」
まだベイルさんの表情は渋い。
「でも、このままじゃ、きっと分からないまま忘れられていってしまう。それは、悲しいことだと思うんです。……ええと、それに、ハーデさんの足跡を辿れたら、最期に言っていたことについても、何か分かるかもしれないですし」
そこまで言うと、ベイルさんはやっと眉間の皺を消して、溜息を吐いた。
「……息抜きのつもりが、とんだ藪蛇になったな」
「え?」
「何でもねえ。――忘れられていくだけの過去を、今に繋ぎ止める。それがお前の望みだな?」
「あ、はい。そう、なんだと思います」
頷いて見せると、ベイルさんはもう一度溜息を吐いた後で、新聞を畳んだ。
「だったら、お前にはもう相応しい選択肢がある」
「え?」
「水底の城で、手に入れたろう」
水底の城――ああ、そうか。本当だ、私はもう答えを見つけていた。
思い出すのは、眩い青の光。ほんの少しだけ窺い知った、遠い過去の出来事。
「――調跡師、ですね」
「そうだ。断絶した過去を探り、現在と繋ぎ合わせようとするのなら、そいつが最適だ」
「調跡師には、どうやったらなれますか?」
「手っ取り早いのは、腕の確かな先達に師事することだな。セトリアの王立魔導学院に、腕利きの調跡師が出入りしてたはずだ」
「じゃあ、その人に会いに――」
「まあ、待て。ニーノイエほどじゃあねえが、セトリアも貴族主義。取り入るにはそれなりの手間が掛かる」
「え、じゃあ……」
私には、身分もお金も何もない。つまり、無理だ。
がっくりと肩を落とすと、
「だから、待てと言ったろう。早とちりするな。ここのところ、翠珠と商会とがセトリアに関する案件で色々と動いてたはずだ。上手くすりゃ、それを使って潜り込める。絶対、とは言えねえがな。……まあ、どうにかしてみせるさ」
「ほんとですか! ――って、それじゃ、ベイルさんに迷惑を掛けちゃうんじゃ……」
細かいことはよく分からないけれど、何だか手間が掛かりそうな感じに聞こえる。ただでさえ忙しいベイルさんに、そこまでしてもらうのは申し訳ない。
「俺はお前の後見人。面倒を見るのも役目の内だ。迷惑だとは思ってねえし、何より俺が好きで勝手にやってるだけのこと」
なのに、そうやってあっさり言ってくれるのが、もう、ほんとに、困る。敵わない。嬉しいけど。でも、嬉しいと素直に言ってしまっては、なんかこう、駄目な気がするのだ。
「で、でも、ええと、他に、そうだ、学費とか。あんまり掛かるようなら、私、行けないです」
「その辺りも含めて、上手く交渉するさ。まあ、万一しくじったとしても、金の問題なら気にする必要はねえ。無駄に貯まってるからな」
これまた平然と、ベイルさんは言ってのける。
そう言えば、ベイルさんはおそろしく物欲に乏しい人なのだった。私にはいろいろ買ってくれるけれど、自分で買うものはいつも必要最低限。たまに気になった本を買ってくるくらいで、お酒も飲まないし、博打もしない。
「だからって、そんな、駄目ですよ。安くないのに」
「……その遠慮癖は、そろそろどうにかならねえもんだかな。いいかい、お前はまだ子供だ。子供は余計なことを気にしねえで、大人しく自分が成長することに集中しとけ」
「で、でも」
「本当に、お前は妙なところで頑固だな」
やれやれ、とベイルさんが肩をすくめる。
「だったら、頑張って勉強して、調跡師として大成してくれ。それがいつか、俺の利になることもあるだろうよ」
どういうことか分からなくて、首を捻る。調跡師として実績を上げると、何がベイルさんの利益になるのだろう。
「調跡師の中には、失われた過去を求めて危険地帯に入り浸る奴もいる。そういう時には、傭兵の出番だからな」
「あ、なるほど。そういう時に護衛をお願いすれば、仕事になるってことですね」
「そういうことだ。傭兵を雇って探索に出られるくらいの予算を組むには、一端どころじゃなく成果を上げる必要があるがな」
「でも、それなら頑張ります! ベイルさんに楽をさせてあげられるくらい、実績のある調跡師になりますね」
まだ時間は掛かるけれど、初めて何か返すことができる。そう思うと、それだけでやる気が出てきた。ようし、ちゃんと勉強して、早く一人前の調跡師になろう……!
「そういうことを言ったんじゃねえんだが……まあ、いいか」
何やら呟きながら、ベイルさんがソファから立ち上がる。
「勉強するにしても、前みたく根を詰め過ぎるなよ。知識を詰め込んだところで、視野が狭けりゃ使いこなすに至らねえ」
「……つまり?」
「上手く遊びながら学べ、ってことだ。経験しなけりゃ分からねえことってのは、存外多い」
言いながら、ベイルさんは窓に――私の方に近付いてくる。
「それは分かった、んですけど。その、何でこっちに」
「近付いたら悪いかい」
「わ、悪くないですけど!」
「そりゃ良かった」
近付いてきたベイルさんは、私の前で足を止めると――
「うひゃあ!」
何でか、担え上げたてくれたのであった。ラコンテ湖でしてくれたみたいに、右腕に座らせるようにして。……な、何で!?
「進路も決まったことだ、小難しいことを考えるのは終わりにしろ。明日は西の通りで祭りがあるそうだ」
「え、お祭り!」
「行きたいなら、今日はこのまま大人しく寝ろ。エカイユから移動してきて、すぐ見物に出たろう。少しは休め」
ベイルさんは、本当に私の扱い方が上手い。結局、そう言われるままに私は寝室に連れて行かれ、朝まで熟睡してしまった。
それから、私達はおよそ二週間を掛けてゆっくりとメリノットを巡り、翠珠――商会に帰還した。
依頼の達成報告の為に管理部に向かったところ、予想通りに帰りの遅さを嘆かれ、ついでに溜まった依頼について愚痴られ、最終的には泣き着かれた。お土産にと買ってきたメリノットのお菓子も、その場で一瞬でなくなり、逆に「これだけじゃ騙されません!」と火に油を注ぐ結果になってしまったくらいだ。
「土産は買ってきただろうに、文句の多い」
管理部の部屋を出ると、ベイルさんは深々と溜息を吐いた。
確かに、あの怒涛の勢いには困った。でも、それだけベイルさんが頼りにされているのだと思うと、嬉しい。
「それだけ頼りにされてるってことですよ!」
そう言ってベイルさんの顔を見上げ、私の行動は止まった。見上げたその表情に――何というか、微妙に良くない感じのものが浮かんでいるような、気がしたのである。
「……何か、企んでる顔してないですか?」
「企んでるとは、人聞きの悪い。この半月ばかりで俺の利用価値を再認識したなら、いい布石になると思っただけだ」
「やっぱり企んでますよねそれ!?」
「何、商会にとっても悪いことじゃねえさ。俺がいなくなるか、セトリアに出張させるか、好きな方を選ばせるだけだ」
わあー。それってつまり、セトリアへの出張を認めなければ辞めてやるっていう脅しなんじゃないのかな!
何だか空恐ろしいことになりそうな予感がしないでもなかったものの、ひとまずベイルさんの悪そうな――じゃなかった、妙に迫力のある顔は、見なかったことにしておくことにした。知らなくてもいいこととか、触らない方がいいこととか、世の中にはあるものらしいし。藪蛇って言葉もあるし。
ちゃんと丸く収まることを心の底から祈りつつ、廊下の窓から空を見上げる。抜けるように真っ青な空が広がっていた。次にやってくる季節を思わせるような、鮮やかな青色。
これから何が起こって、どうなるのか。それはまだ、誰にも分からないことだけれど。
「うーん、とりあえず、頑張るかな!」
私は私で、まず自分にできることをしないと。
軽く伸びをすれば、ぐしゃりと頭の上に掌が落ちてくる。
「何だ、妙にやる気だな」
「そんな気分なんです」
「そうかい。――ま、俺もぼちぼち働くとするか。叫んでる奴もいることだ」
叫んでる? 首を捻りながら耳を澄ませてみれば――ああ、本当だ。小さいけれど、「隊長ううう!」と叫ぶ声が聞こえる。
この声は、ヴィサさんだ。ヴィサさんはベイルさんの隊に所属する傭兵の人で、ベイルさんは時に部隊の指揮権を移譲するくらいに信頼している。だから、今回もベイルさんが不在の間、部隊を任されてしまって、その鬱憤とか文句とかが、溜まりに溜まっているのだろう。
「ヴィサさんに会うのも、久しぶりな感じですね。ちょうど良かった、お土産渡さなくちゃ」
「俺は別に会わなくとも良いがな。面倒が増える」
「そんなこと言うと、ヴィサさん泣きますよ……」
ヴィサさんの声は、ますます大きくなっている。
仕方がねえな、とベイルさんが溜息を吐いた。
「働くと言った手前、一仕事してくるか」
ゆっくりと歩きだしていく背中を見て、私は少し笑った。




