第132話:1800本全数合格:サファイアの輝きの復活
工期28日目、午後16時30分。
地下100階、全高500メートルの世界の心臓『始祖コア』を取り囲む銀色の超高層自立式立体トラス足場。
あの日、アレクが「3ミリの気泡」を理由に容赦ないハツリ直しを命じてから3日。10万人の作業員たちは、誰一人として不満を漏らすことなく、むしろ自らの職人としての誇りをかけて、極限の品質管理へと身を投じていた。
8時間三交替制による、不眠不休ならぬ「厳格な無事故定時サイクル施工」。
ポチの絶対零度吸熱ジェルによる局所急冷消火、高圧乾燥窒素ガスによる微細スラグ清掃、真空脱泡カートリッジを用いた神聖ミスリルエポキシパテの50メガパスカル高圧圧入、そして左官コテによる鏡面成形。
その神業のような工程が、高度50メートルから450メートルに至る全フロアにおいて、1842回にわたって寸分の狂いもなく反復されたのだ。
過酷な作業でありながら、誰一人として集中力を切らす者はおらず、現場の安全帯二丁掛け着用率は100パーセントを維持し続けていた。
地上のエレノアから届けられる無尽蔵の補修資材と、ルシアが空中補給ステーションから配給し続ける温かい食事。
それらが10万人の胃袋と体力を支え、現場のモチベーションは日を追うごとに高まっていた。
そして今――高度420メートル、最頂部直下の第88作業デッキ。
黄色いヘルメットの現場最高責任者――アレク・ユグレットが、右手に持った超音波探傷プローブを、グリセリン接触媒質を塗布した最後の亀裂――『第1842番クラック』の補修面へと静かに押し当てていた。
――キィィィィィン……ピピッ。
静まり返った大空洞に、高感度超音波の探傷シグナルだけが澄み渡るように鳴り響いた。
アレクの耳の密閉型ヘッドホンから微細なエコー音が流れ、胸元の魔導オシロスコープに波形が走査されていく。
隣で検査記録簿を抱きしめたシエルの手が、微かに震えていた。
デッキを取り囲むエドワード、ルシア、師匠ガント、そして外周キャットウォークを埋め尽くす10万人の作業員たちが、息をすることすら忘れてアレクの唇を見つめている。
誰もが、この3日三晩の汗と努力の結晶が実を結ぶ瞬間を信じて待っていた。
波形解析結果。
底面反射波(底エコー)の透過率、99.8パーセント。
不連続エコー、ゼロ。
内部微小気泡、ゼロ。
母材界面の剥離欠陥、ゼロ。
結晶格子の同化共振率、99.99パーセント。
アレクはゆっくりとプローブを離し、ヘッドホンを首へ下ろした。
そして、手元の黒革バインダーに挟まれた公式検査成績表に、銀の万年筆で迷いなくサインを走らせた。
「……第1842番クラック、超音波探傷試験、合格(PASS)」
アレクの静かな声が、デッキに響いた。
アレクは顔を上げ、全通信チャンネルのマイクを握りしめると、地下100階の全10万人へ向けて通達を放った。
「全作業員に通達! 外殻結晶全周におけるクラック総数1842本――全数検査、完全終了! 欠陥残存数、ゼロ! 全数、完全合格だ!!」
その瞬間であった。
――キィィィィィィィィィィン……!!
それは、世界が生まれた瞬間に鳴り響いたかのような、どこまでも高く、澄み切った鐘の音であった。
1842本の亀裂がすべてナノレベルで塞がれ、内部の350メガパスカルの超高圧エーテル流が外殻結晶の全分子格子と完全に共振したのだ。
傷口を塞いでいた白銀のパテが、コアの原初魔力と同化して完全に透明化し、周囲の神話結晶と完全に一体化した。
ブワァァァァァァッ……!!
全高500メートルの巨大結晶球体が、眩いばかりの『神聖サファイアブルー』の光芒を解き放った!
表面に刻まれていた無数の傷跡や濁りは、跡形もなく消え去っていた。
まるで磨き上げられた巨大な宝石のように、ツルリとした完全なる球面鏡面を取り戻した始祖コアが、地下大空洞のすべてを青き光の海へと染め上げていく。
足場の銀色のミスリルパイプがサファイアの光を乱反射し、まるで銀河の中心に浮かび上がる光の神殿のような神秘的な絶景を現出させた。
荒れ狂っていたプラズマの間欠泉は完全に消え去り、静かで、力強く、温かい生命の鼓動だけが、大地の底から規則正しくドクン、ドクンと響いてきた。
それは、世界の心臓が健やかな呼吸を取り戻した証であった。
「き、綺麗……」
ルシアが両手を胸の前で組み、サキュバスとしての妖艶さを忘れ、一人の少女のように涙ぐみながらその光に見惚れた。
「こんなに透き通った青、魔王軍の宝物庫にもありませんでしたわ……!」
「や……やった……! 本当に……全数合格したんだ……!」
シエルが検査記録簿を胸に抱きしめ、メガネを外して大粒の涙をポロポロと零した。
「1842本……1本も欠陥を残さずに……1000年前の図面通りの結晶強度を、完全に復元できましたわ……! アレク主任の計算は、1ミリも間違っていませんでした!」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!」
そして、エドワードが両拳を天に突き上げて咆哮した。
「見たかコノヤローッ!! オレたち10万人の職人が本気出せばな、神代の水晶玉だろうが何だろうが、傷ひとつ残さねえでピッカピカに直せるんだよォォォッ!! 3ミリの気泡どころか、ゴミひとつ残さねえぜ!」
「「「わあああああああああああああああああああああああッッッ!!!!」」」
銀色の足場を埋め尽くす10万人の職人たちから、地鳴りのような歓声と拍手が爆発した。
ドワーフたちは互いのヘルメットをぶつけ合って喜び、王国兵と魔王軍の術士たちは手を取り合って足場の上で飛び跳ねた。
かつて地上で血を流し合っていた種族の壁など、この場には微塵も存在しなかった。
かつて死のトラップだった地下100階の大空洞は、今や完全なる奇跡の達成感に満ちた祝祭の場と化していたのだ。
「へっ、バカ弟子め」
師匠ガントが煙管から紫煙を吐き出しながら、目尻を細めてアレクの肩をポンと叩いた。
「1842本の全数ハツリ検査なんぞ、儂の現役時代でもやったことねえぞ。あの頑固なドワーフどもやプライドの高い魔導士どもを、誰一人脱落させずにここまで引っ張ってくるとはな。……立派な現場責任者になりやがった」
「いいえ。私は図面を引き、検査をしただけです」
アレクは首を静かに横に振り、足場の至る所で歓声を上げる作業員たちを見渡した。
「実際に3ミリの気泡に妥協せず、血反吐を吐きながらハツリ直しに応えてくれた10万人の職人たちのプライド……彼らの技術こそが、このサファイアの輝きを取り戻したのです。彼らこそが、真の原状回復士です」
アレクは懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開いた。
針は、16時45分を指していた。
「シエル、ルシア、エドワード」
アレクの声に、三人が振り返った。
「16時45分だ。外殻結晶補修工程は、これをもって完全終了とする。全班、工具を片付け、足場の清掃を行え。17時0分、完全定時退社だ」
「「「アイアイサーッ!!」」」
誰もが最高の笑顔で敬礼を返した。
第1段階の10000万トン姿勢復元、そして第2段階の外殻クラック1842本完全密封。
世界の心臓『始祖コア』は、外見上、1000年前の神代の完全無欠な姿を取り戻した。
これにて、始祖ダンジョン大改修編・第9巻に相当する激闘は、完全なる大勝利をもって幕を閉じたのである。
だが――青き光に包まれるアレクの視線は、すでに更なる深奥――始祖コアを足元で支える『台座の闇』へと向けられていた。
1000年の負荷に耐えきれず爆発的にへし折れた、直径5メートルの神話級アンカーボルトの残骸。
そして、硬度10を超えるオリハルコン花崗岩盤の壁。
真の最終決戦となる【第10巻:コア完全オーバーホール・新設基礎工事編】が、彼らを待ち受けていた。




