第七十六話/藤川千絵②
幼馴染の彼女と同じ大学への進学が決まり、国宝級イケメン高校生、爽哉の人生は順風満帆だった。卒業式を迎えたその日、第二ボタンはおろか、袖のボタンからネクタイに至るまで、全て取られるモテ男ぶりを如何なく発揮する。自らが築き上げた学園ハーレムの総括とでも言わんばかりに、爽哉の周辺は華やかさに満ちていた。
しかし、そんな彼を神は祝福しなかった……
彼女のストーカーに襲撃され命を落とした爽哉は、稀代のブサメンとして高校生活をやり直す現実を強いられる。学園の抱える問題、断ち切れない因縁、消化不良な想い……。ブサメンの自らと向き合う覚悟を決めた爽哉は、果たして絆を取り戻すことができるのか――
今、試練の扉が開かれる。
【登場人物】
中間爽哉 イケメン高校生→ブサメン高校生
藤川千絵 爽哉の幼馴染
木崎優子 第三十六代生徒会長。図書委員
小澤詩織 攻守両立のコミュニケーションお化け
本八幡香奈 大手健康器具メーカーの社長令嬢
宮永遥 陸上部。インターハイ優勝候補
皆川結衣 第三十七代生徒会長
本条鈴音 第三十五代生徒会長。爽哉の姉的存在
中間涼香 爽哉の妹
内藤亮介 爽哉の親友
大里拓馬 ブサメン高校生→イケメン高校生
ややあって、玄関がゆっくりと開かれた。
こうやってはっきりと千絵の顔を見るのは久しぶりだ。大里に殴られた頬は、跡もなくきれいに治っている。しかし、痩せていた。ただでさえ白い肌が、病人のように青白く淡い光を放っている。
促されるままに、リビングの椅子に腰かける。千絵はケトルで湯を沸かすと、二人分のコーヒーを盆に載せて持ってきた。ふらつくような足取りに不安を覚えたが、それは本人も自覚しているのだろう。一歩一歩、ゆっくりゆっくりと慎重に運んできた。会話はない。二人とも黙りこくっていた。俺の対面に千絵が腰を下ろして、ようやく重い口を開いた。
「ありがとう」
俺は差し出されたコーヒーを舐めるように啜った。千絵はカップを両手で覆い、暖を取っている。コーヒーの表面が揺れるさまをつまらなさそうに観察しながら、黙っていた。
「退院したのね……」
しばらく間があって、ようやく千絵が口を開いた。
「おかげさまで。この通り、元気だ。医者からは奇跡だなんて、言われたよ」
俺は努めて明るく言った。
「学校は?」
俺の制服姿を眺めながら、千絵は小さく呟いた。
「今日から、だった。でも、サボった」
俺はおどけるように笑った。
「ふざけないで! 行きなさいよ! 学校!」
突然、大声を張り上げた千絵に俺は驚いた。見ると、千絵のカップからコーヒーが零れている。千絵は気にする様子もない。俺は近くにあったタオルで、千絵の手を拭った。
「私の事は放っておいて!」
俺の手を拒否するように弾くと、タオルを掠め取って机の上を拭きはじめた。
「……放っておけるもんか。お前は俺の……」
半身なのだから。
お前が不幸である限り、俺も不幸なんだ。そんな簡単なことに何故気づかなかっただろう。俺の存在は藤川千絵をなくして成り立たない。全ては千絵の幸せが前提での話だった。それなのに俺は……。
泣き出しそうな顔で机を拭き続ける千絵に、俺は諭すように語りかけた。
「強がるな。もう、強がらなくていいんだ……」
ハッと見開かれた千絵の瞳から、一筋の涙が零れて机に落ちた。
「強がって、なんか……わた、しは……」
そう言う間にも目からは止め処なく涙が溢れ出てくる。
千絵はタオルを千切れんばかりに握り締めると、顔を隠して机に突っ伏した。声を抑え込むような嗚咽が響く。俺は大里の言葉を思い出していた。
千絵の中に俺が住んでいる。いくら容姿が変わっても、俺と千絵の関係に変わる所はなかった。それはただ一つの真実だった。
「……お前と俺は一心同体だ。人生の大半を共有してきたのだから。いくら隠しても、千絵の痛みは俺に通じているよ。もう、我慢しなくていいんだ……」
俺は千絵の肩にそっと手を置いた。
千絵は声を上げて泣いた。机に突っ伏したまま、何かを解き放つように大声で泣いたんだ。
俺は心の中で優子に謝った。何度も何度も、謝罪の言葉を繰り返した。あの夏祭りの夜の優子の美しい笑顔が脳裏を掠める。俺は握り潰されそうな心を辛うじて押し留めながら、目の前の千絵を見つめた。俺には千絵を置いていくことはできない。静かに燃え盛る決意だけが俺を支えていた。
どれくらいの時間が経っただろう。いつの間にか千絵は静かになっていた。泣き果てて、眠っているのかもしれない。それでも俺は千絵の肩から手を離さなかった。手の平から伝わり続ける温かさが、千絵の存在の大きさを繰り返し意識させる。
その時、机の下からクゥゥーンと子犬の鳴き声のような間の抜けた音が響いた。
「……お腹が……減ったのか?」
俺は突っ伏したままの千絵に声をかけた。
「だって……。何も食べてないんだもん。仕方ないじゃない……」
力なく言い訳する千絵は、耳まで真っ赤に染めている。俺は噴き出した。
「クククッ……パンでも焼くよ」
立ち上がろうとした俺の腕を千絵が引き留める。
「……爽哉、しつこすぎ……」
顔を上げても目を背けたままの千絵は、小さく呟いた。
「俺のお節介は、食らいついたら最後、離さないんだ。地の果てまで追いかけるぞ」
千絵は小さく笑った。その目がやっと俺を見上げた。
「それに、優しすぎ……」
「過保護なんだよ、特に、千絵には、ね……」
千絵の瞳には光が溢れていた。もうさっきまでの千絵はいない。
「……信じて、いいの?」
俺を見つめる千絵の瞳には、俺が映っていた。醜男の俺が。何を言っても、恰好はつかないな……。自嘲しつつも俺は自分自身に言い聞かせるように、力強く言った。
「俺だけを信じろ。何があっても、何が起きても、俺はお前とともにある」
しばらく千絵は真顔で見つめていたが、やがてコクリと頷いて立ち上がった。ふらつく足取りで目の前まで来ると、俺の胸に顔を埋めて再び泣きはじめた。
俺はゆっくりと、だが、しっかりと千絵を抱きしめた。
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