これ、シャレにならない最悪な展開じゃない?
「このまま編成所に行って昇格の申請をすればいいんだよな」
「いちいち聞くなよ。『知ってる』だろ」
昴の確認にリーゼロッテが鬱陶しそうに言い放つ。
本当におとぎ話が現実だとは。信じられないが信じるしかない。苦い思いが胸に満ちる。
「まぁまぁ、そう威嚇するんじゃないわよ」
「あ?」
「ほら、それ」
言葉遣いが粗暴すぎるとリーゼロッテをたしなめて、サイハが肩を竦める。
リーゼロッテからの舌打ちは聞き流す。場の空気が刺々しいものに変わったその刹那。
「緊急事態! 緊急事態!!」
「"帰還者"だ!!」
「家の中に入れ! 急げ! ダレカが来るぞ!」
緊急事態を告げる警鐘が町に響いた。カンカンカンと鋭い音。慌てふためきながら建物の中に逃げ込む人々。
何かわからないが、ただならぬ事態が起きたようだ。
「おい、お前ら何してる!? あぁ新参か! くそっ、説明してる時間はねぇ! ついてこい!!」
「きゃ……っ!」
事態を掴み切れずに立ち尽くしていた昴たちを見咎め、男が叫ぶ。一番近くにいたフォルの腕を掴んで引っ張る。
いいから来い、という有無を言わさない様子に事態の深刻さを察して従う。
男に引っ張られるまま近くの本屋に駆け込む。昴たちが入ると同時に素早く扉が締められ、窓に布がかけられる。店内には息を潜めて床に伏せて身を屈める何人かの人影がいた。
「悪いな、引っ張っちまって……お嬢さん、痛くなかったか?」
男が小声で非礼を詫びる。だが乱暴にでも引っ張らなければいけない緊急事態だったのだ。
気にしないでください、とフォルが首を振る。事態はつかめていないが、ともかく助けようとしてくれたのだ。その善意は悪くない。
「いったい何なんだ……?」
帰還者とは。後付けされた知識には名前だけあるが、内容についてはまったく知らない言葉だ。
自分だけが知らないのかと思って3人の顔を見てみるが、リーゼロッテもサイハもフォルも知らないというように首を振る。
「あぁ……そうだな、どう説明していいか……まぁ、見ればわかる」
そっと窓の布を除けて隙間を作る。覗けということだ。そっと昴が隙間から通りを覗いてみる。
「なんだあれ……!?」
通りを歩いているのは黒い人影だった。
違う。これは人ではない。ヒトであってたまるか。ヒトの形をしたおぞましい何かだ。
その姿を見ただけで鳥肌が立つ。鼓動が早くなって冷や汗がにじむ。怖い。今まで見たどんなものよりも恐ろしい。
この世に存在するすべての『よくないもの』を集めて煮詰めたかのような。
「あれが帰還者だ」
昴の視界を遮るように布をかけなおして男は言う。
あれは帰還者と呼ばれるものだ。何から帰還してきたものかはわからない。誰かが言い出したからそれが今まで受け継がれている。
あの黒い何かは人を見つけると襲いかかり、捕まえて影に連れ込む。連れ込まれた人間がどうなるかはわからない。だが、帰ってこないことだけは確かだ。
「あれに襲われないようにこうして建物の中に逃げ込んだってわけさ」
視覚かそれに準ずる感覚で人間を察知しているようだ。聴覚はないのか多少の音や声には反応しない。だからこうして小声で話すだけなら問題ない。
帰還者が現れることはまれにある。3階から降りてくるわけではなく、不意にどこからか湧き出すのだ。そうして出現が確認されると町中大騒ぎで逃げ出し、こうしてじっとやりすごす。
建物を壊すだとかそういうことはせず、ただ歩くだけなので建物の中にさえいれば安全だ。
「そのうちいなくなるさ。あいつが長時間いたためしはねぇ」
捕まれば最後だが、建物の中でじっとしているぶんには何も怖くはない。ふらふらと歩いているのを見送って、いなくなるまで待つだけだ。
大丈夫。今回だって何の被害もなくやり過ごせる。そう男が言いかけた瞬間。
「やい! 何が帰還者だ、化け物め!!」
通りの方で大声がした。
「は……!?」
建物の中に小さなどよめきが起こる。まさか。まさかとは思うが。帰還者に手を出そうというやつがいるのか。
おいやめろ馬鹿野郎と怒鳴りたいが飛び出していっては帰還者の餌食だ。じっと事態の収束、つまりは無謀な馬鹿野郎が『どうにか』なるまで待つしかない。
「俺はなぁ! 絶対に塔を攻略して! 金も! 女も! 名誉も手に入れる! そのための力だってあるんだ! こんな化け物なんかに――え……? あ……?」
ぐじゅ、と濡れた粘液のような音がした。ぐちゅ。じゅぷ。ねちゃ。びちゃっ。
通りで何が起きているのかわからない。知りたくなかった。布をめくって隙間から様子を窺う勇気はなかった。仮にその勇気があっても見てはいけない、と強く強く男が制する。
ぐちゃ。くちゅ。ねちょ。じゅる。ぐじゅ。ごきん。にちゃ。ぐちょ。聞くに耐えない音だ。思わず耳を塞ぐ。ここまで聞いてしまった音だけでも頭がおかしくなりそうだ。
見てはいけない。聞いてはいけない。何もなかった。何も知らない。何も感じてはいけない。何も知覚してはいけない。『何もない』。
「誰か、助け……あ、あ……!! おい、誰か扉を開けろ!! 誰か! 誰か誰か誰か誰か誰か――……!!」
それからどれほど時間が経っただろう。5分かもしれないし10分かもしれないし30分かもしれないし1時間かもしれない。
突然地響きが起きた。ずしん、と何かが倒壊した音だ。石ががらがらと崩れる音と振動が伝わってくる。
「なんだ……?」
「わからん……。まだ表は見るなよ。ヤツがいる可能性がある」
覗いて目が合ったら大変だ。あの無謀な馬鹿野郎の二の舞になってしまう。安全になったという鐘が鳴るまでじっとしているべきだ。
そっと耳を塞いでいた手を離してみるが、あの嫌な音はしなかった。だが安全を確認できた知らせがこないということはまだ通りに帰還者はいるのだ。
「大丈夫?」
「へいき……です……」
「おい、真っ青じゃねぇか」
フォルの顔色がよくない。血の気が失せている。指先は体温を失ったかのように冷たいし震えている。離れていてもわかるほど震えているフォルをサイハが抱きしめる。自身の胸にフォルの耳を押し当てさせて鼓動を聞かせる。しばらくそうして落ち着かせる。
そのまま沈黙が下りて、さらに時間が経った。静寂の中、間延びしたリズムで鐘が鳴る。帰還者はいなくなったという知らせだ。ほっと店内に安堵の息が漏れた。
「ごめんなさい、サイハさん」
「いいわ、気にしないで。怖いものは怖いもの」
フォルも落ち着きを取り戻したようだ。まだ顔色はよくないが、さっきよりはだいぶましになった。ぽんぽんと背中を叩いてからサイハがフォルを解放する。
もう安全だ。おそるおそる窓を開ける。通りには何もなかった。無謀な馬鹿野郎の影も形もない。だが。
「おい、あれ……」
通りに出た人々がそれを指す。指し示した場所に視線をやった人々が硬直する。
探索者編成所が忽然と消えていた。
食い残しのようにいくらかの瓦礫を残して、編成所があったはずの場所は更地になっていた。
そこにいた人々の気配もない。消えた。建物も、人も。何もない。まるで最初から何もなかったように。
「どうすんだこれ……」
建物が消えた。人が消えた。それも問題だが、大きな問題がある。
編成所で行っていた数々の手続きはどうするのだ?
それを代行できる施設はない。つまり。探索者の登録も情報更新も何もできなくなってしまった。それがどういうことか。理解した昴は茫然と呟いた。
「昇格が……できない……?」
昇格ができない。つまりはランク0のまま。ランク0の待遇がどうなのかはさっきカフェ・レスタでよく知った。スティーブがどういうものか語ってくれた。
おい、どうするんだ、これ。昴の中に焦る気持ちがにじむ。必須の施設だから全力で復旧させるだろう。だが、すぐとはいかないはず。今日中に元通りになるはずがない。この世界の建築技術がどうなのかは知らないが、昴の認識と同じとして早くても数か月。
建物を建てて、必要な設備を設置して、業務を遂行する職員を育成して配置して。どれだけ時間がかかるだろう。それまであんな粗末な扱いを受けなければならないのか。
これはまずい。非常にまずい。ランク1になってからでいいと言って今日の宿すら確保していないのだ。こんな、ランク0のまま行ったら下手したら宿泊拒否もありえるのでは。そうなったら野宿だ。
嫌な想像が昴の頭に浮かぶ。編成所が消えて昇格が出来なくなったのだからランク0でも手続きが間に合わなかったのだろうと容赦してくれるだろうか。
いや、何日もランク0のままでいる臆病者と区別がつかないから『公平』に冷遇するはずだ。事実カフェ・レスタではそうだった。ランク0は新人だろうが臆病者だろうが等しくランク0相応の扱いだ。
「拒否されたらぶん殴って無理矢理いくか?」
「そっ、それはまずいと思います!!」
物騒な提案をするリーゼロッテと慌てるフォル。だが、もし宿泊を拒否されたら野宿だというのは事実だ。どうする。
知らない場所に来て、知らない知識を知っていることにされ、やったこともない戦闘をした。精神的疲労は大きい。柔らかいベッドでゆっくり眠りたい。
「そうね。ベッドにありつきたいところだけど……」
ランク0だからといってどこも宿泊拒否されると決めつけるのは早計だ。
頭の中の知識にあるように、ランク0でも宿泊を受け入れてくれる場所はある。しかしそういうところは治安の問題で女が泊まるにはよろしくない。
荒事に慣れているリーゼロッテやサイハはともかく、いかにもその辺の無力な少女という出で立ちのフォルはまずい。昴は男だが、男は男で力がなければ身ぐるみを剥がされる。
打開策はないものだろうか。むぅ、と唸って思考を走らせる。頭の中の記憶を探ってみよう。




