二十七節、思惑
「ちょっと良いか?」
明日の準備を済ませ、寝ようとしたところで、ダインの部屋のドアからジーグが顔を覗かせてきた。
「少し話をしたいことがある」
「ん」
ダインがガラステーブルに視線を向けると、それだけで伝わったのか、ジーグはテーブルの前にある座布団に座る。
「お前は気付いていたか?」
ジーグの正面に座るなり、いってきた。
主語の無い質問だったが、ジーグの真面目な顔つきを見て察したダインは「ガーゴだろ」と返す。
「村の入り口まで何人か来てたらしいな。それ以上入ってこなさそうだったから無視してたけど」
今日の昼間のことだった。ダイン達が裏山で魔法の特訓をしているとき、村の入り口で異質な気配を感じたのだ。
エレイン村にはヴァンプ族しかいない。故に、強い魔力や聖力を持つ人が来ると敏感に察してしまう。
シンシア達のことは村人に認知されていたから誰も気にしない。が、それ以外の訪問者というのは、ヴァンプ族であれば誰でも気付く。
「あいつ等に話せば不安がると思ったから何も言わなかったけど」
「ガーゴというのは分かっていたのだな?」
魔法力だけで誰であるかを見抜けたダインの鋭い感性に、ジーグは驚いている。
「以前一悶着あったとき、魔法ぶつけられたからな。そんとき感じた聖力と今日の聖力は同じだったからさ」
「そうか」
テーブルに肘を突き立て、顎を触る。
「サラが様子を窺いに行ったそうなんだが…」ジーグが考え事をするときのお決まりのポーズのまま、彼は続けた。「連中、なにやら気になることをいっていたようでな」
「気になること?」
「手筈は整った、と」
「何のことだ?」
「複数の中の一人が村へ入ろうとしたそうだが、別の者が止めたときにそのような声が聞こえたらしい。セブンリンクスの名前も出てきたそうだ」
そこでダインもジーグと似たようなポーズのまま考え込んでしまう。
「確か、セブンリンクスはガーゴの傘下だったんだよな?」
思い出してダインがいうが、ジーグは「少し違うな」と首を振る。
「確かに創立者の連名にガーゴの名があり、資金面や防衛面での援助を受けているのは事実。実質傘下といってもいいぐらいだが、名目上はセブンリンクスはガーゴとは無関係だ」
「そうなのか?」
「でなければ、デビ族やドワ族といった魔族は入学すら認められなかったであろう」
ふと何日か前に聞いたディエルの台詞を思い出し、「そういやそうだな」ダインは頷く。
「しかしあの学校にとってガーゴは実質的な上司であるのは間違いないだろう。視察に来たりお前を高圧的な態度で接したり、連中もセブンリンクスは傘下だという認識でいるはずだ。そして村の前で連中が会話していた中に、セブンリンクスの名が出た、ということは」
「…また、奴等が学校にちょっかいをかけてくるつもりってことか」
続きを予測したダインに、ジーグは「うむ」と頷いてみせる。
「その奴らの狙いは恐らく…」
「俺…っつーか、ルシラだろうなぁ」
木目の天井を見つめながら、ダインは「やたら焦るな」という。
「お前が初めてガーゴと接触したのが三日前のことだ。それからの奴らの行動を考えると、よほどの何かがある気がするな」
「よほどのことねぇ…」
奴等が欲しいのはルシラの能力か、それともルシラという存在そのものか。
何にしろ、こそこそしている段階でろくでもない目的なのは確かだった。
ルシラを利用しようとしている。機を見て奪おうとしている。
ガーゴの執念にどす黒く粘ついたようなものを感じたダインは、嫌悪感に表情を険しくさせていく。
「相手は巨大組織だ」ダインの表情の変化を確認したジーグは、突如そういった。
「お前はワシほどではないが強い。が、力だけでは解決できん問題は山ほどある」
釘をさすような父の台詞に、ダインは、また始まった、と表情を呆れたものに変えた。
これまでにジーグから何度も聞いたことだった。
力に頼るな。それは最終手段だ。
いままで何度も彼のいう場面に出くわし、その教えを実体験として味わっていたダインは、今更いうことでもない、と父の台詞を遮る。
「今回もそうなりそうな気がするんだろ。分かってるよ。暴れたりはしない」
肩をすくめつつそういうと、ジーグは「そうか」と表情を少し柔らかいものに変えた。
「昨日もいったと思うが、解決できそうにないときは親に頼れ。相手が相手だし、息子のピンチにはいち早くかけつけてやろう」
なんとも頼もしいことをいってくれるが、彼はすぐに「ま、そこまでにはならんか」と笑い出す。
「ここまでいっても、優しいお前のことだ。迷惑がかかるからと、親に頼るようなことはせんのだろうなぁ」
見透かされたかのような視線に、ダインは何も言い返せない。その通りだったからだ。
「とはいえ、お前には心強い仲間がいる。あの子達がいれば安心だ」
「巻き込む気はねーけどな」
すぐにそう返すが、ジーグは「ふ」とまた笑う。
「セブンリンクス全体に及ぶ問題にまで発展してしまったら、巻き込むも何もなくなるだろう」
気になる言い回しだった。
「何か知ってんのか?」
怪訝な表情で父を見るダインだが、ジーグは笑いながら「いや」と首を振る。
「ガーゴの連中とは何度か衝突したことがあったのでな。奴らのやり口を考えれば、あり得んことも無いと思ったまでだ。手駒が増えれば増えるだけ、姑息な手段に手を出しがちになるからな」
姑息な手段、と聞いて、ダインはある過去のことを思い出した。
いや、思い出したくはない。しかし決して忘れられることのできない、ある苦い思い出だ。
「…気持ち悪いな」
再び嫌悪感に表情を歪ませるダインは、目の奥に怒りとも悲しみともつかない色を宿している。
「そうはならんさ」長く嘆息するジーグは、いま息子と同じ事を思い出しており、呟くようにいった。「セレネの時のようにはな」
その名前を聞いた瞬間、ダインは動きが止まる。表情は強張り体も硬直させる。
昔、幼かったダインを連れ村の宣伝で大陸各地を渡り歩いていたときのことだ。
その手伝いをさせてくれないかと、セレネというヒューマ族の女が接触してきたことがある。
気さくな婦人で、ジーグもシエスタも最初こそ好意的に思っていた。が、結局その女はヴァンプ族という種族そのものに興味を抱いていた研究者だった。
未だ謎の多いヴァンプ族の特性。それを解き明かせば、何かしらの金になるのでは━━
カールセン一家を研究対象、果ては金儲けの道具になるのではと考えていたセレネは、その仕組みについてあらゆる手法を用い調べようとしていた。まだ物心がついたばかりの、ダインを攫って。
ほんの一時間ほどだったかも知れないが、ジーグとシエスタが見つけ出すまでの間、ダインはどれほどの恐怖に晒されていたか、想像に難くない。
信頼する人の裏切り。そのトラウマは深く、ダインの心にいまも傷跡として残っている。
服を脱がされ、素肌にナイフを突き立てられそうだったダインの、あの時の息子の顔。ジーグにも強いトラウマだったに違いない。
あの瞬間は、普段力を使うまいとしていたジーグでさえも、さすがに暴れてしまいそうだった。
シエスタがどうにか落ち着かせてくれたので最悪の事態は免れたが、もしシエスタが到着するのが少しでも遅れていれば、セレネは原形を留めていられなかっただろう。
いくら暴力は駄目だと自らを律しても、のっぴきならない事情というのはついて回る。
大切な誰かがピンチに瀕したときや、理不尽な目に遭いそうなときなど、理性の歯止めなど容易く切れてしまうのだ。ヴァンプ族のような優しい心を持つ種族ならばなおのこと。
セレネのことを思い出すと同時に、ジーグはダインに対しある危機感を抱いていた。
ルシラの影を付け狙うガーゴ組織。
もし奴らの狙いがルシラ本人で、セレネのときのように研究対象として探し回っていたのだとしたら。
愛する息子が襲われたときのように、ルシラが切り刻まれようとしていたのを見てしまったら。
果たして息子は…ダインは、正気でいられるのだろうか。破壊衝動に身を任せ、全てを滅ぼしてしまうことにならないか。
相手が大切であればあるほど、怒りの反動は比例して膨らむ。
「…なぁダイン。ルシラのことはどう思っているんだ?」
苦々しい表情でいるダインに、ジーグは唐突に質問した。
「どう…って?」
ダインは質問の意図が読めなかったようで、意外そうな顔をして聞き返す。
「もし、だ。もし、奴らの狙いがルシラで、攫われたとしてだな…」
続きをいおうとしたジーグであったが、はっとしたような顔になり突然笑い出す。
「愚問だったな。身内を傷つけられて黙ってる奴などおらんか」
そこで父が何を言おうとしていたのか、汲み取ることのできたダインも表情を緩めた。
「穏便にできるなら、そうできるよう努力はするよ。向こうの出方次第だけどな」
「そう、か」
「俺だって感情で動くこともあるし、保障はできない。とは言え、何をすべきか、どうすればいいか、最善の策は常に練るようにはしているよ」
普段からダインは冷静であった。
シエスタの教育の賜物に相違なかったが、しかし誰しも衝動というものはある。
ジーグの教訓もシエスタの教えも、いい方を変えればダインが本来持っている衝動や本能を押さえつけてるだけに過ぎないのだ。
何かのきっかけで、それが反動となって現れる場面は必ずやってくるはず。
「う〜む…そう、だなぁ…」
父として息子にいま何かしてやれることはないか。難しい表情で考え込むジーグ。
そんな彼を見て、ダインは「なんだよ、らしくねぇな」と笑った。
確かにジーグは豪傑だ。若い時分は考える前に体が動くタイプで、いくつもの難題を力で解決してきたこともある。
セレネのときのような裏切りは、沢山の出会いを続ける中で数え切れないほどあった。
息子を何度か巻き込んでしまったこともあり、だからこそ彼は申し訳なく思っていたのだ。
トラウマを植えつけてしまったという負い目もあるため、過去の話になるとジーグは途端に真面目な顔になってしまう。
「親父は親父で忙しいだろ。こっちは何とかするからさ」
セレネの話は気にしないようにしたのか、ダインは明るくいった。
「マジでどうしようもなくなったときには、ちゃんと頼るよ」
素直にそういったダインに、強がっている様子は見られない。
息子もちゃんと成長しているのだ。あまり心配する顔を見せていては、ダインも安心できないだろう。
「ふむ…」
気持ちを切り替えたジーグは、「そうだな」と返事をしたときにはダインと同じく笑顔になっていた。
ダインを暴走に駆り立てないため、諸々のあるプランが浮かんでいたジーグは、「困ったときは本当にいうんだぞ?」とダインに釘を刺しつつ立ち上がる。
「ではな。おやすみ」
「ああ。おやすみ」
ジーグがドアを開けたとき、目の前に小さな人物が立っていたことに気付いた。
「おお、ルシラか」
パジャマ姿で枕を抱いており、「あ、ぱぱ!」といいつつも、彼女はどこか気まずそうにしている。
「どうした?」
しゃがみ込み目線の高さを合わせると、ルシラは「え、え〜と」と視線を泳がせた。
ルシラはいつもダインの部屋に忍び込んでいる。
そのことを思い出したジーグは、ルシラの頭を撫でながら微笑みかけた。
「ルシラは、本当にダインが好きなんだな」
「え、う、うん」
戸惑いながらも素直に頷くルシラ。
その表情から、拾ってくれた恩義以上のものを感じたジーグであったが、ここで親の自分が口を出すべきではないと思い口をつぐむ。
ダインが何を望むかだ。
息子の選択を楽しみに待つことにして、彼は再び口を開く。
「好きなところで寝たら良い」顔を上げたルシラに向かって、続けていった。「ルシラはもはやこの家の一員だからな。自分の家なのだから、どこで寝ようと構わん」
「ほんと!?」途端にルシラの顔に笑顔が広がっていった。
ああ、と頷くジーグに、「じゃあ、じゃあ、明日はぱぱとままのところにいってもいい?」ルシラの目は期待に満ちている。
「もちろんだとも」
「わーい!」
ぴょんぴょん飛び跳ねるルシラは見るからに嬉しそうで、ジーグとダインを和ませた。
「しかしそう毎晩抜け出しては、元々一緒に寝る予定であったはずのサラが悲しまないだろうか?」
ジーグの指摘は最もだった。ルシラは動きを止め、「で、でも、おひるねのときいっしょだし…」急に大人しくなる。ルシラも後ろめたさはあったのだろう。
「先ほどサラがため息を吐いていたのを見かけたが」
ルシラにとっては追い打ちだったのだろう。ルシラはさらに気まずそうにする。
「じゃ、じゃあ、え〜と、え〜と…」
考え出すルシラにジーグはまた笑い、優しい口調でいった。
「今度、みんな同じ部屋で寝ようか」
「え?」
「ちょうどいい広さの部屋が一つある」
「いいの!?」
「ああ」
ルシラにとってダインは確かに特別な人だが、ジーグもシエスタもサラも、彼女にとっては大切で大好きな人たちだ。
そんな人たちと一緒の部屋で寝れるというのは、ルシラには夢のようなものでしかない。
「いつ!? いつするの!?」
ジーグに詰め寄るルシラは全身から喜びが溢れ出ていて、落ち着かせるジーグは珍しく戸惑っている。
リアクションがいちいち可愛いルシラには、ジーグもすでに虜になってしまったようだ。
天真爛漫で子供そのもののルシラ。
この子の笑顔を守るためにも、“アレ”は急いだ方がいい。
「近日中にすることは約束しよう」
そう笑いかけながらジーグは立ち上がる。
おやすみ、と声をかけてから、ルシラを部屋の中に入れ、彼は部屋を出て自室へ戻っていった。
「だいーーんっ!!」
ドアが閉まるなり、ルシラはダインにアタックする。
「親父もお前には弱いな」
ダインは笑いながらルシラを受け止め、抱っこした。
躾を考えるなら、ルシラは決められた部屋で寝かせるべきだ。望みどおりに動いていたら、わがまま放題な子に育ってしまう。
だがルシラにはその限りではない。躾などしなくても、ルシラは最初から良い子だったのだから。
家事は手伝うし勉強も自主的にしているし、ルシラの教育係を買って出たサラでさえ、ルシラには何も言うことは無いと言わしめた。
もっと遊びたいだの抱っこしてくれだの、ルシラにだって多少のわがままはある。
だがその欲求は全てダインと一緒にいたいということに終結している。わがままは可愛らしいものばかりだから、ダインも断る理由などなかったのだ。
「んふ〜」
ダインに抱かれたルシラは心から満足した様子で、彼の広い胸に何度も頬擦りしている。
「早くお前の家を見つけないとな」
頭を撫でながらいうダインに、「ふお? どうして?」ルシラは不思議そうに彼を見上げた。
「沢山食べるし沢山寝るし、このままいくと思いの外早く成長しちまいそうでさ。ルシラの家が見つかって連れて行ったとき、家の人に気づいてもらえないんじゃないかと」
冗談めかしていうダインだが、ふと気づいたことがあり「あれ?」と声を出してしまう。
「なんか…マジで伸びてね?」
ルシラを抱っこしたときの彼女の頭の位置が、昨日より高くなっている。
「え、ほんと?」
ルシラ本人も気付かなかったようで、背筋を伸ばしダインとの身長差を測りだす。
その腕も足も、よく見れば長くなっていた。明らかに成長している。
「いや、でも昨日まではもっと小さかったよな…?」
どういうことだと考えるダインだが、ルシラは素直に「せいちょう! 成長したよ!」」と喜んでいる。
確かに成長自体は喜ばしいことだが、昨日の今日で急に身長が伸びることは通常ありえない。
これはルシラの種族の特徴なのだろうか。それとも別の要因があったのだろうか。
そういえば、ルシラの舌足らずだった口調も少しだけ成長したような気がする。
「これで結婚できる!?」
意外すぎるルシラの言葉に、考え込んでいたダインは思考が止まった。
「え…? け、結婚?」
「うん! これでだいんと結婚できる!?」
突然のプロポーズだった。
面食らったダインだが、「いや」また笑いながら彼女の頭を撫でる。
「まだ早いな」
「えー? もういいんじゃないかなぁ?」
「そこはほら、まだ焦る必要はないだろ。まだまだやることがあるし、そういうことは諸々の問題が解決してからだ」
「ぶーぶー」
唇を尖らせるルシラをベッドまで運び、横にする。
部屋の明かりを消しダインも布団に潜り、文句を言いたげだったルシラを抱き寄せると、彼女は途端に機嫌を良くした。
「えへへー、きもちー」
もう深夜近い時間だ。それまで笑顔だったルシラは途端に眠たくなったようで、ダインに抱きつきながらすぐに寝息を立て始めてしまう。
「忙しい奴だな…」
ルシラの急成長は気になるが、いまは素直に喜ぼう。
そう思いながらダインも目を閉じると、彼も急速な眠気に襲われた。
ルシラの可愛らしさと、その体の感触の良さに頬を緩めながら、ダインもすぐに意識が深く沈んでいく。
※
「文言はこちらでよろしいでしょうか」
テーブルに滑らせながら寄こしてきた書類を、スーツ姿の男はシャンパングラスを揺らしながら見つめている。
「…悪くないな」
グラスを傾けつつそういった中年の男を、隣に控えていた若い男は不思議そうに見ていた。
その視線に気付いた中年の男は、グラスを置きながら見上げる。
「不服か?」
「いえ…」
首を振るものの、その秘書と思しき若い男は浮かない顔だ。
自宅兼事務所の一室だった。
休憩スペースはいつの間にか男の晩酌用ルームと化しており、彼の背後や壁にある棚には、見るからに高そうな酒瓶が敷き詰められている。
書類とグラスが置かれたテーブルは特注で、男と女が座る大きなソファもかなり高価なものだ。
他にも絵画やガラス細工の置物など、成り上がりを象徴するような部屋の中、もう一人の秘書の男は黙礼しつつ退室していく。
「この世は情報社会でもある」
時価にして数百万はくだらないシャンパンを隣にいた女に注がせながら、ふんぞり返った男はいった。
「メディア媒体が世界に流通し、誰にでも情報が入ってくるようになったこの世の中、その情報を多く持つ者こそが勝者になる資格を持つ」
「勝者…ですか」
「ああ。君にとっては、この内容はリスクが大きすぎる割りにリターンが少ないとしか見えないだろう。しかしどんな無意味に見えるものでも、使いようによっては形勢逆転のものになり得る。自身の地位を上げ、結果として大金と化すことに繋がるのだ」
シャンパンを飲み、派手な格好をした女の肩を抱き寄せる中年の男は、その手法を思い浮かべているのか口の端に笑みを浮かべた。
「まぁ、見ているがいい。これはその前哨戦にあたる。あ奴にもいい経験になるだろう」
「…こちらもその前哨戦の一つ、というわけですか」
秘書の男は別の書類を見つめており、中年の男は愉快そうに頷いた。
「なかなか行動が大胆なものになってきたな。あ奴もさすがといったところか」
「料亭に旅館、ベーカリーショップ、ファッションセンターに、不動産会社もございます」
秘書から読み上げられた会社名を一通り聞いた男は、タバコに火をつけ煙を吐き出す。
「くく、大企業ばかりか。それもさすがといったところか。いや、そんな奴らばかりが通う場所だから、当然といえば当然か」
しばし思慮に耽った男は、再び書類に目を通す。そしてやおら顔を上げ、
「手筈通りにしろ」
秘書に向け、そういった。
は、と短く返事をしたその秘書は、書類を束ねて退出しようとする。
「ああそうだ、あ奴に伝えておけ」その背に向けて、タバコを消しながら男は声をかけた。
「明日、あの方々が直々に来られる」
「あの方、ですか?」秘書は思いもよらないといった顔で振り向いた。
「ああ。どうも別件があるそうでな。ついでに“準備”の方もしてくれるとのことだ」
「なるほど」
「窮屈な場所に押し込められさぞや鬱憤が溜まってるかも知れんが、発散のときは近い」
「連日機嫌が悪そうにしていましたからね」
思い出したように秘書の男はいい、それを聞いた中年の男は大きな腹を揺らして笑う。
「成功した暁には、何か褒美をやらんとな」
「そうした方がよろしいかと」
「巨額が舞い込んでくる可能性もある。これまで尽力してくれた君にも、何か欲しいものをやった方がいいのかも知れんな」
中年の男とは明らかに不釣合いな若い女をさらに抱き寄せ、下腹部を触らせる。
嫌な顔一つせず動くその女は笑顔を浮べているが、目に生気は宿ってない。
「何が欲しい? 金か、女か、名誉か」
男は満足そうに身震いさせながら、秘書の男に問うた。
「ああいや、言わずとも分かっている。欲深い君のことだから全部欲しいのだろう」
秘書として雇って三年。君のことが段々分かってきたという台詞を聞き、それまで端正な顔立ちで無表情だった秘書は、表情を歪めて笑う。
「恐れ多いです」
口ではそういうものの、その表情は欲望にまみれていた。
あらゆる欲を隠そうともしないその秘書の顔を、中年の男もまた愉快そうに見つめている。
「いいだろう。まずは女だな」笑ったまま、中年の男は「しかし君の性癖にも困ったもんだよ」と続ける。
「若ければ若いほどいいとは。子供でも構わんというのは少々たまげたぞ」
「ふふ、すみません」
「まぁ、構わんがね。幸い取引先にはそれ専門の“薬屋”があるからな。この女のように少々反応がつまらんものだが、それでも良いのだろう?」
「はい。だからこそ、ここに勤めさせて頂いていますから」
「くく、全く困った男だよ君は。その分優秀であるが」
笑いながら中年の男が「分かった」というと、秘書の男もどす黒い笑みを浮かべながら一礼する。
中年の男が女をソファに押し倒し、その胸に体を埋めようとしたのを見てから、秘書は静かにドアを閉めた。




