1 幼少
思い返せば、テオとは物心ついた時から一緒にいた。
目の前でプルプル震えるお尻を見ながら、マヤはぼんやりと思い出す。
「マヤとアスタも手伝えよ! ぼーっと見てないで! テオが死んじゃってもいいのかよ!」
お尻の主、オルアの切羽詰まった叫び声に、マヤは「はいはい」とため息をついた。お尻の両脇から手を伸ばし、腰をがっちりとホールド。相手は男子とはいえ、五歳の子供の身体は男女でさして違いはない。オルアを掴んだマヤの腰をさらにアスタも掴む。
「なんでもいいから早くしろ!」
地面よりもさらに下から悲鳴に近い声が聞こえる。
崖っぷちに立ったオルアの足が、ずり、と滑る。あと十秒もすれば、四人揃って緑と青しかない世界に投げ出されることだろう。そして重力の意のままに落ちて木に引っかかって擦り傷切り傷だらけになって、(きっとあるはずの)地面に頭を打ってチーン。それは嫌だ。
「いくよっ、せーの!」
掛け声と同時に、アスタの手がマヤの腰を引っ張った。マヤも足を力一杯踏ん張って、掴んだ腰を抱き寄せる。
「うわああああああ!」
崖の下から、テオの身体が勢いよく舞い上がった。オルアに片手首を掴まれ、振り子のように空中でぐるりと一回転。驚いてオルアが手を離すと、小さな身体はもう一度ぐるんと回って近くの木の幹に打ち付けられた。
「し、死ぬかと思った……」
普段からぼさぼさの黒髪をさらに乱し頬や腕のあちこちにたくさんの傷をつくったテオが、はあはあと肩で息をしている。夏の夕日が、疲れ切った様子の彼を優しく温める。
「だから大丈夫だって言ったのに。擦り傷なんて泉で洗えばすぐ治るよ」
テオが崖から落ちかけていたのは、転んで膝を擦りむいたマヤのために薬草を取ろうとしたためだった。マヤはそんなこと、頼んでもいないのに。
セノーテとは神の住む泉のことだ。セノーテの水は翡翠色に輝いてとても美しい。手のひらに汲むと透明になってしまうけれど。
「あそこに神なんていねえよ。俺、傷がふたつできたときに片方は洗ってもう片方は洗わずに唾つけたことあるけど、どっちも同時に治ったし」
テオが突然立ち上がって言った。ほら、と肘の内側を見せてくる。確かに、白い肌には傷跡も何もない。
「ぜったい嘘。だって、おばあが言ってたんだもん。おばあの言うことは本当なんだよ」
「おまえはいっつも、何かあるたびにおばあ、おばあってうるせえんだよ。ちょっとは自分の頭で考えろ。でないと犬になっちまうぞ、ワンワン!」
「テオこそうるさい! 神様を信じない人なんか、今に呪われても知らないから!」
「ちょっと、マヤ、言い過ぎ」
アスタがマヤの肩に手を置いた。宥めようとしているらしい。ぱっつんに切り揃えた前髪の下から黒い瞳が心配げにマヤを見つめる。
オルアもテオの肩を掴んで下がらせようとするが、頭に血が上った五歳児を抑えられるはずもなく。
「そんなことあるもんか、ばーかばーか」
べぇ、とテオが舌を出す。
とうとう頭にきたマヤが拳を振り上げようとした、そのとき。
「こら! 森には入っちゃ駄目だって、いつも言ってるでしょう!」
生い茂る木々の奥から声が聞こえた。と思ったら、幹の隙間からマヤとアスタの母が姿を現す。
「遊びに行ったきり、なかなか帰ってこないと思ったら! 森の方は危険だし、神々がたくさん住んでいるから遊んじゃいけません! さもないとバチが当たるわよ!」
「ああ、もう日が沈むわ。礼拝が始まっちゃうじゃない。ほら、さっさと砂を払って。行くわよ」
母に手を引かれて、ピラミッド状の神殿の石段を上る。九十段数えてやっと頂上に着いた頃には、とっぷり日が暮れて星がちらちらと瞬いていた。儀式はすでに始まっており、室内はしんと静まり返っている。
石造りの神殿は、この村の住人全員が入ってもまだ場所が余る。松明の火に照らされた壁にはぎっしりと文字が刻まれているが、幼いマヤはまだ読み書きができないので何と書いてあるのかはわからない。
神殿の前方で、星々を背景に、おばあは窓枠に腰掛けていた。人間の顔を象った翡翠の置物を掲げて、ぶつぶつと何かを喋っている。耳を澄ますと、「地下世界」「星々が」「霏々として降る」「連理」「連綿」などの言葉が途切れ途切れに聞こえた。
「ねえお母さん。おばあ、今日は何のお話をしてるの?」
「しーっ。死者の歩く道のお話よ。今日の星を詠んだ結果を私達に教えてくれているの」
祭祀はひと月に一度。星の美しい夜に村のみんなで集まって、おばあの語る占いに耳を傾けるのだ。
「あーあ、こんなの聞いても意味ないのにな」
「黙って、テオ」
アスタが小声で叱る。テオは不貞腐れてぷうと頬を膨らませた。その隣で、オルアは大の字になって寝息をたてている。
「こら……」
マヤの隣で、母がため息をついた。
祭祀が終わると、四人は窓枠に座って星を見上げるおばあのもとに連れて行かれた。
「この子たち、儀式の時間になってもまだ遊んでいたんです。それも森で! どうか、長老からも叱ってやってください。私たちが注意するくらいでは、素直に聞かないんです」
母が、子供たちをずいとおばあの目の前に押し出す。
するとおばあは、ふぉっふぉっと愉快そうに笑った。
「お前たち、祭祀をサボるのは構わんが」
「長老!?」
突然の星詠みとは思えない発言に驚き声をあげるマヤの母を目線で黙殺し、おばあは続ける。
「神々は、お前たちの良いところも悪いところもぜんぶ見ておられる。死んだ時に神様の前で胸を張れないような生き方はしないことさね」
「だけどよババア、本当に神様なんているのか? 昔の人が作った嘘だろ? 俺会ったことないし。じいちゃんを生き返らせてくれって願っても叶わなかったぜ」
「ふぉっふぉ。会ったことはわしもないさね。しかし、自然の不思議なことはみんな、神々の思し召しなんだよ。お前が生まれたのも、食べ物の恵みも、草が伸びるのも風が吹くのもみぃんな。お前の祖父さんも、今は神様のひとりになっとるだろうさ」
おばあの声には不思議と、人の心を落ち着かせ話に納得させる力がある。マヤはつい先ほどまでテオに腹を立てていたことなど忘れて、おばあの話に聞き入っていた。
しかしテオは納得できないらしく唇を尖らせる。
「俺はそうは思わねえな」
この四人はいつもこうだ。マヤはおばあの話に感動し、テオは不満げにぶうぶう言う。アスタとオルアは真面目に聞いたり寝たり空想したりと様々だが、今はきちんと正座して聞いている。
「生きていればそのうちきっとわかるさ。さあ、今日はもう帰ってお休み。また明日、元気な顔を見せておくれ」
おばあはまた、ふぉっふぉと笑った。




