ミア
走れない日の走り方
朝の訓練場には、誰もいなかった。
少なくとも、トーマにはそう見えた。
夜明けからさほど時間は経っていない。空はまだ薄い青色で、訓練場を囲む石壁の影が長く伸びている。
昨日までの合同訓練で乱れた砂地には、靴跡や魔法の焦げ跡が残っていた。
その中央に、一人だけ座っている少女がいた。
ミアだった。
両膝を抱え、砂の上に座っている。
普段なら朝から騒がしい彼女が、今日は珍しく静かだった。
トーマは少し迷ってから声をかけた。
「ミア?」
ミアの肩が大きく跳ねた。
「うわっ!」
勢いよく振り向き、そのまま立ち上がろうとして、足をもつれさせる。
「危ない」
トーマは駆け寄り、倒れかけたミアの腕を掴んだ。
ミアは何とか踏みとどまったが、すぐにトーマの手を振りほどいた。
「だ、大丈夫だ!」
「今、転びそうだったぞ」
「転んでないから大丈夫だ!」
「その理屈、レナと同じだな」
「レナと同じなら強そうだな!」
いつものミアだった。
大きな声。
迷いのない返事。
すぐに明るい方へ話を持っていく。
けれど、トーマは気づいた。
ミアの右足が、少しだけ震えている。
「足、痛いのか?」
「痛くない!」
「じゃあ、どうして庇ってる?」
「庇ってない!」
「さっきから右足に体重を乗せてない」
ミアは黙った。
視線が泳ぐ。
嘘を隠すのが下手だった。
トーマはミアの前にしゃがみ込む。
「見せてくれ」
「嫌だ」
「怪我なら治療師に」
「嫌だ!」
ミアの声が、訓練場へ響いた。
トーマは手を止める。
普段の勢いとは違う。
怒っているというより、怯えているような声だった。
ミアは唇を噛み、右足を後ろへ隠す。
「治療師には言わなくていい」
「どうして?」
「言ったら、今日の訓練を休まされる」
「休んだ方がいい」
「嫌だ」
「悪化するかもしれない」
「それでも嫌だ!」
ミアは拳を強く握った。
「今休んだら、遅れる」
「誰に?」
「みんなに!」
その答えは、思っていたよりも早く飛び出した。
ミア自身も驚いたのか、少し目を見開いている。
それでも、一度外に出た言葉は止まらなかった。
「ユナはいっぱい考えられる。糸もどんどん上手くなってる。ノアはすごい魔力があって、テリア女王にも教えてもらってる」
ミアは俯く。
「キリカは罠も剣も使えるし、メルは戦う時だけすごく頭がよくなる。ルチアは前でみんなを守れるし、フィナは広いところをまとめて壊せる」
砂へ落ちた声は、いつもの大声よりずっと弱かった。
「私は、走るだけだ」
トーマは何も言わなかった。
ミアは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「走れなくなったら、何もない」
その言葉に、トーマの胸が少し痛んだ。
ミアはいつも走っている。
考えるより前に飛び出し、誰よりも先に前へ出る。
それは彼女の長所だ。
だが同時に、彼女自身がしがみついている唯一のものでもあった。
走れる自分なら、皆の隣にいられる。
走れない自分には、価値がない。
そう思っている。
トーマはミアの隣へ座った。
「俺も、剣を持っていた」
ミアが顔を上げる。
「忘却の剣か?」
「ああ」
トーマは腰元を見る。
今は何も下がっていない。
「最初は、あの剣がないと何もできないと思っていた。俺が何者か知るためにも、戦うためにも、あれが必要なんじゃないかって」
「でも、あれは危ないぞ」
「危ない。皆を傷つけた」
トーマは自分の手を見る。
「あの剣を失ったら、俺には名前しか残らないと思った」
「……トーマって名前?」
「ああ」
ミアは少し考えた。
「でもトーマ、短棒で戦ってたぞ」
「皆から教わったからな」
「私からも?」
「止まることを教わった」
ミアは目を丸くした。
「私が?」
「ガーネ戦も、イリス戦も見ていた。ミアも訓練で、走り方を何度も見せてくれた」
「でも私は、止まるの苦手だぞ」
「苦手なのにやろうとした。だから覚えた」
ミアは黙る。
トーマは続けた。
「俺は皆から少しずつ借りている。レナの足、ロイドの考え方、ノアの膜、ユナの糸、ソルの戦い方」
「私のも?」
「ミアのも」
トーマははっきり答えた。
「怖くても、とりあえず前へ出るところ」
ミアは頬を膨らませた。
「とりあえずって言うな!」
「悪い。でも、それに助けられたことがある」
「本当か?」
「本当だ」
トーマは笑う。
「皆が考えすぎて動けない時、ミアが先に飛び出す。正しいかどうか分からなくても、ミアが走ると道ができる」
ミアは、自分の右足を見る。
「でも、今日は走れない」
「今日はな」
「走れない私は、役に立たない」
「そんなことはない」
「どうして分かるんだ?」
ミアの問いには、少し怒りが混ざっていた。
励ますだけなら簡単だ。
大丈夫と言うだけなら、誰にでもできる。
ミアはそれを信じたくないのではない。
信じたいからこそ、証拠を求めていた。
トーマは少し考えた。
「今朝、俺がここへ来た理由は、昨日の訓練を思い出すためだった」
「うん」
「でもミアを見つけて、足の怪我に気づいた」
「それは私がいたからだろ?」
「そうだ」
トーマは頷いた。
「ミアが走らなくても、俺の行動は変わった」
ミアが瞬きをする。
「今、俺はミアのことを考えている。どうしたら怪我を悪化させずに済むか。どうしたら一人で悩ませずに済むか」
「……それが、役に立つことなのか?」
「少なくとも、俺にとってミアは、走っていない今も大事だ」
ミアの顔から、表情が消えた。
数秒後、耳まで一気に赤くなる。
「だ、大事!?」
「仲間だから」
「そっちか!」
「ほかに何があるんだ?」
「何でもない!」
ミアは慌てて顔を逸らした。
トーマには分からなかったが、ミアの胸は妙にうるさかった。
大事。
その言葉が、頭の中を何度も走り回っている。
仲間として。
当然だ。
分かっている。
それでも、嬉しい。
トーマに自分の名前を呼ばれるのが、ミアは好きだった。
訓練中に「ミア」と呼ばれれば、いつもより速く走れる気がする。
トーマが危ない時には、考える前に助けに行きたくなる。
それを好意と呼ぶには、ミアはまだ自分の気持ちをよく知らなかった。
ただ、トーマの隣にいると、胸の奥が前へ走りたがる。
それだけは分かっていた。
「じゃあ」
ミアはまだ顔を逸らしたまま言う。
「私が走れなくても、トーマは私のこと忘れないか?」
トーマは一瞬、言葉を失った。
ミアが怖がっていたのは、遅れることだけではない。
置いていかれること。
そして、忘れられること。
記憶を失ったトーマのそばにいるからこそ、その不安は誰より生々しかったのかもしれない。
トーマは静かに答えた。
「忘れない」
「絶対?」
「絶対とは言い切れない」
ミアが振り向く。
少し傷ついた顔。
トーマは続けた。
「俺は、忘れることがある。自分の過去も覚えていない。だから、絶対に忘れないとは約束できない」
ミアの肩が少し落ちる。
「でも、忘れたら何度でも覚える」
トーマはミアを見る。
「名前を書いて、声を聞いて、一緒に過ごしたことを残す。もし忘れても、またミアを知る」
ミアは黙っていた。
トーマは胸に手を当てる。
「ミアは、前へ走る。大声で笑う。すぐ突っ込む。ユナに止められる。仲間が困っていたら、何も考えずに助けに来る」
「何も考えずには余計だぞ」
「でも、助けに来る」
「……うん」
「だから、忘れたとしても、きっとまた好きになる」
ミアの顔が真っ赤になった。
「す、好き!?」
「仲間として」
「またそっちか!」
「だから、ほかに何があるんだ?」
「何でもないってば!」
ミアは両手で顔を隠した。
トーマは首を傾げている。
しばらくして、ミアは指の隙間からトーマを見た。
真面目な顔。
本当に何も分かっていない。
少し腹が立つ。
でも、その鈍さもトーマらしいと思うと、なぜか笑えてきた。
「トーマは変だな」
「ミアに言われたくない」
「私は変じゃないぞ!」
「怪我を隠して朝から訓練しようとしていた」
「それは……少しだけ変だったかもしれない」
「治療師に行こう」
「休まされる」
「俺も一緒に休む」
ミアは目を丸くする。
「トーマも?」
「ああ。昨日の傷も残っているし、ロイドには休めと言われていた」
「じゃあ、どうして訓練場に来たんだ?」
「少しだけ動こうと思って」
ミアは頬を膨らませた。
「トーマも同じじゃないか!」
「そうだな」
「人のこと言えないぞ!」
「一人だとやっていたかもしれない。でも、ミアがいたからやめる」
「私がいたから?」
「ああ」
トーマは立ち上がり、ミアへ手を差し出した。
「一緒に叱られよう」
ミアは差し出された手を見る。
それから、嬉しそうに笑った。
「うん!」
勢いよく手を掴んで立とうとする。
右足に痛みが走った。
「いっ……!」
「やっぱり痛いんじゃないか」
「少しだけ!」
トーマはミアの腕を自分の肩へ回した。
「歩けるか?」
「歩ける!」
一歩。
ミアの顔が歪む。
トーマはため息をついた。
「無理だな」
「無理じゃない!」
「背負う」
「え?」
トーマはミアの前にしゃがんだ。
「乗って」
ミアは固まった。
「背中に?」
「ほかにどこへ乗るんだ?」
「でも……」
「治療師まで遠い」
ミアは周囲を見回した。
誰もいない。
今だけ。
少しだけなら。
「じゃあ……乗る」
ミアはおそるおそる、トーマの背中へ体を預けた。
トーマが立ち上がる。
「軽いな」
「私は小さいからな!」
「知ってる」
「子ども扱いするなよ!」
「リトルヴァルキリーだろ」
「リトルだけど、戦士だぞ!」
「分かってる」
トーマはミアを背負い、訓練場を出る。
ミアは最初こそ落ち着かなかったが、やがてトーマの肩へ頬を寄せた。
背中は温かい。
歩くたびに揺れる。
普段なら自分の方が先に走り、誰かを置いていく側だ。
今は、運ばれている。
それが少し悔しくて。
少し恥ずかしくて。
かなり嬉しかった。
「トーマ」
「何だ?」
「今日のこと、記録帳に書くのか?」
「書く」
「怪我を隠してたことも?」
「書く」
「それは書くな!」
「大事な記録だ」
「恥ずかしい!」
「じゃあ、こう書く」
「何て?」
トーマは少し考える。
「ミアは、走れない日でも前へ進めた」
ミアは黙った。
頬をトーマの背中へ押しつける。
顔が見えなくてよかった。
「……それなら、書いていいぞ」
「分かった」
「あと」
「まだあるのか?」
「トーマが私を背負ったことも書け」
「必要か?」
「必要だ!」
「どうして?」
「大事な記録だから!」
ミアは大声で言った。
トーマは少し笑う。
「分かった。書く」
ミアも背中で笑った。
走れない日。
何もできないと思っていた朝。
それでも、自分は置いていかれなかった。
走らなくても、名前を呼ばれた。
走らなくても、大事だと言ってもらえた。
そして、自分の足で進めない時には、誰かの背中を借りてもいいのだと知った。
ミアはトーマの服を、ほんの少しだけ強く掴む。
「トーマ」
「何だ?」
「私、早く治す」
「ああ」
「治ったら、また一緒に走ろう」
「一緒に?」
「トーマは遅いから、私が合わせてやる!」
「それは助かる」
「でも、最後は競争だ!」
「怪我が治ってからな」
「分かってる!」
朝の光が、二人の前に伸びていた。
ミアはその光を見ながら思う。
今は走れない。
けれど、止まっているわけではない。
トーマの背中の上でも、自分は確かに前へ進んでいた。
トーマの記録帳
ミア。
走ることが好きな少女。
走れない時、自分には何もないと思っていた。
でも、走らなくてもミアはミアだった。
今日、俺はそれを覚えた。
ミアも、覚えていてくれると嬉しい。
その下には、少し乱れた別の字が付け足されていた。
トーマに背負ってもらった。
これはすごく大事な記録!
さらにその横に、細く冷静な字で一言だけ書かれていた。
怪我を隠したことも大事な記録。次はすぐ報告すること。
ユナ
そして最後に、丸い字で大きく追記されていた。
ユナは勝手に書くなー!
そのページだけは、後から読み返すたびに、トーマを少しだけ笑わせた。




