第2話:おじさん、探索者になる
2026年4月
毎日の2時間ウォーキングと、自重筋トレを始めて1ヶ月が経った。
おじさんの身体からは引きこもり生活でついた浮き輪肉が消え、現役時代よりもむしろ引き締まった健康的なおじさんへと変貌を遂げていた。
しかし、身体の健康とは裏腹に、精神の健康は限界を迎えつつあった。
「……また減ってる」
スマートフォンの画面でネットバンキングの残高を見るたび、おじさんの心臓は小さく跳ねる。
無職になっても、容赦なく引き落とされる住民税、国民健康保険税、臨時の出費。
収入がゼロの状態で、数字がみるみる減っていく恐怖は、39年間『毎月給料が振り込まれるのが当たり前』だった人間にとって、想像以上の精神的毒物だった。
(このままではいかん。やはり、アルバイトでも何でもいいから、現金収入の口を作らねば……)
そう思ったおじさんの脳裏に、先日ウォーキングの途中で見かけた『探索者協会 鶴見支部』の光景がよみがえった。
ネットで調べてみると、ダンジョンで手に入る『魔石』は、その場で現金化、あるいは銀行振り込みされるシステムらしい。
特別な資格は不要で、24時間いつでも自分のペースで働ける。
(これって、実質『自由な働き方』じゃないか? しかも、小説でよく見たあのカードが手に入る……)
ほんの少しのミーハー心と、現実的な生活苦。それらが背中を押し、おじさんは鶴見駅近くの協会支部へと向かった。
ロビーには、革鎧を着た若い男女や、大剣を背負ったガチ勢がたむろしている。
しかし、おじさんはといえば、服装について何も深く考えていなかった。
クローゼットから適当に引っ張り出したチェックのネルシャツに、履き古したチノパン。
足元だけは怪我をしないようにと日曜大工用の安全靴を履いただけの、
完全な『近所に散歩へ行くおじさん』の格好だった。
当然、周囲からは少し浮いていたが、長年鍛えたポーカーフェイスで受付へと進んだ。
「失礼します。探索者の新規登録をお願いしたいのですが」
「はい、新規登録ですね。こちらの用紙に必要事項をご記入の上、提出してください」
愛想の良い受付嬢がタブレットと書類を差し出してきた。
おじさんは名前、住所、そして生年月日を記入していく。
『早坂徳良 昭和41年(1966年)8月23日生まれ(59歳)』
書類を受け取った受付嬢の手がピタリと止まった。彼女は書類とおじさんの顔を、3回ほど往復して見つめた。
「あの……早坂様。大変失礼ですが、ご年齢は59歳……でいらっしゃいますか?」
「ええ、そうです。何か問題でも?」
「いえ! 問題というわけではないのですが……当協会の新規登録は『16歳以上、60歳未満』と定められておりまして。つまり、その……」
「ああ、あと数ヶ月で60歳の還暦を迎えますが、本日現在は59歳ですから、滑り込みセーフ、というわけですね」
おじさんが少し悪戯っぽく微笑むと、受付嬢は慌てて「失礼いたしました!」と頭を下げた。
「実を言いますと、この年齢で新規登録される方は極めて珍しいもので……。ですが、規約上は全く問題ありません!ただ、くれぐれもご無理はなさらないでください」
手続きはスムーズに進み、数分後、おじさんの手にはプラスチック製の『探索者ライセンスカード』が握られていた。
写真と名前、そして『ランク:F』と刻印されている。
(おお……これが本物の探索者カード。ちょっと感動するな)
内心でささやかな興奮を覚えつつ、おじさんはその足でビルの裏手にある『鶴見ダンジョン』の入り口へと向かった。
ゲートにライセンスカードをかざすと、ピッと電子音がして扉が開く。24時間、入退行が電子管理されているあたりは、妙に近未来的で現実感がある。
階段を降りきると、そこは剥き出しの岩肌が続く、『第一層:洞窟エリア』だった。
「よし、まずは1ヶ月の筋トレの成果、見せてやるか」
おじさんは、自宅から持ってきた日曜大工用の頑丈な鉄ハンマーを構えた。
薄暗い通路を少し進むと、前方の地面から、ドロリとした半透明の物体が這い出てきた。
体長30cmほど。
中に小さな核が浮いている。スライムだ。
のそりと鈍い動きでこちらへ向かってくる最弱モンスターを前に、おじさんは一歩踏み込み、ハンマーを振り下ろした。
ベチャッ!
「おっと! 打撃は吸収されるのか」
手応えは水風船のようだった。スライムの身体はぐにゃりと変形してハンマーを受け流す。
おじさんはすぐに狙いをスライムの中心にある『核』に定め、何度もハンマーを振り下ろした。
ガツンと硬い手応えが響いて核が砕けると、スライムは水のようにサラサラと溶け、後には2〜3cm程度の小さな結晶ーー『魔石』が残った。
「ふぅ……。たかが1匹に、結構な労働量だな」
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。おじさんはそこから、ダンジョンの浅い層を歩き回り、見つけたスライムをひたすらハンマーで叩き続けた。
ーー2時間後。
おじさんは、肩を激しく上下させて通路の岩に腰掛けていた。
足元のポリ袋には、なんとか苦労して狩り集めた20個の魔石が入っている。
たったの20匹。
しかし、弾力のある物体を合計で100回以上も全力で叩き続けた結果、おじさんの腕は生まれたての子鹿のようにプルプルと震え、握力は限界を迎えていた。
「……いたっ!?」
袋に魔石を詰め直そうとした時、右手の甲に鋭い痛みが走った。
見ると、普段着のままで手袋すらしていなかったおじさんの手に、スライムの体液の残りが一滴、ぽつりと付着していた。
慌ててハンカチで拭き取ったが、皮膚は赤く腫れ上がり、まるで熱湯がかかったような軽いやけどのようになっていた。
(しまった。スライムの体液は微酸性、あるいは強酸性か。小説の知識では知っていたが、現実に喰らうとこんなに痛いとは……。
防護服とまではいかなくても、最低限の装備は必須だったな)
痛む手をささりながら、おじさんはほうほうの体でダンジョンを脱出した。
洗面所で手を良く洗い、酸を落すると、協会の買い取り窓口へと向かった。
「お疲れ様です。スライムの魔石20個ですね。査定いたします」
機械に魔石が投入され、モニターに金額が表示された。
『買い取り価格:600円』
『源泉徴収税(20%):120円』
『差引支給額:480円(後日銀行振り込み)』
おじさんは、しばらくその画面を無言で見つめた。
(……480円?)
一瞬、脳がうまく状況を処理しきれそうになかった。
2時間、死に物狂いでハンマーを振り回し、手の甲に酸のやけどまで負って、手に入ったのは500円玉1枚に満たない現実。
「……待て待て。これじゃあ、1日頑張っても日給にして1000円ちょっとだ。おいおい、住民税回分払うのに、何1000匹のスライムを叩けばいいんだ? 絶望的じゃないか……!」
ベンチに座り込み、ガックリと肩を落とする。ラノベの主人公のように「初日から大金ゲット!」とはいかない現実の壁が、59歳に重くのしかかる。
しかし、おじさんはトボトボと家路につく代わりに、買い取り窓口の隣にある協会併設の『探索者ショップ』へと足を向けた。
何かしらスライムを効率よく倒せる『道具』が売っているのではないか、と考えたのだ。
店内には、頑丈そうな革鎧や、鋭く輝くナイフなどが整然と並んでいた。
おじさんは品札を1つずつ確認していく。
(……無いな。スライム専用の武器なんてものは存在しないか)
ショップの店員にそれとなく「スライムを簡単に倒せる道具はありますか?」と尋ねてみた。
「基本的には核を正確に突くくらいですね。効率を求めるなら、上のランクになって別のダンジョンへ行った方がいいですよ」と苦笑いされるだけだった。
協会側にとっても、スライムは初心者が通るだけの『ただの通過点』であり、わざわざ専用の対策グッズを開発する価値すらない扱いなのだろう。
(既存のファンタジーな手段に頼っていては効率が上がらんか……)
諦めて店を出ようとしたおじさんの目に、棚の隅にある商品が止まった。
『耐酸性·薄型タクティカルグローブ(2400円)』
スライムの酸に対応した素材で作られた、手にぴったりとフィットする防護手袋だった。
これなら、細かな作業をする時にも邪魔にならない。
「……とりあえず、最低限の安全確保だな」
おじさんは、今日の売上(まだ振り込まれてすらいない480円)を大きく上回る2400円を支払い、その手袋を購入して協会ショップを後にした。
鶴見川沿いの帰路、おじさんは新調した手袋をはめ、グッと拳を握り込んだ。
手の甲のやけどはまだピリピリと痛むが、すでに悔しさを通り越して「未知の課題」に対する興奮で頭が回転を始めていた。
(打撃を吸収する液状の身体。触れると皮膚を焼く酸性の体液。……ふん、面白い。
要するに、あの体表の構造を化学的に中和、あるいは破壊してやればいいんだろ? スライムめ、長年蓄えたおじさんの知識を舐めるなよ……)
おじさん探索者・早坂徳良の、本当の『ダンジョン攻略』が、ここから始まろうとしていた。
(つづく)




