第1話:おじさん、無職になる
「おじさま、
行っちゃうんですか?」
「実はさ、ダンジョンの先に異世界があるんじゃないかと思うんだよね。
だからさ、行ってみようかと思って」
「アーシャ。 もうケガも治って、何でもできるんだし。 国に帰って幸せにね」
*
2026年4月
早坂徳良、59歳。
人生の大きな決断を下した。
「……ふぅ。これで本当に、おしまいか」
横浜市鶴見区にある、ローンを完済した11階建てマンションの最上階。
そのリビングで、おじさんは一枚の紙を眺めていた。
『離職票』
中堅の分析会社に新卒で入社してから、実に39年。前半の10年間は部品・材料の開発に明け暮れた。
後半の29年間は、電子顕微鏡(FE-SEM)でミクロン単位の微小部分を観察、電子プローブマイクロアナライザー(EPMA)で物質の組成を分析した。
そんな、古い技術屋として生きてきた。
退職の理由は、シンプルに『体力の限界』だ。
1日12時間勤務、4日働いて3日休むという過酷な交代勤務は、アラ還の身体にはあまりにも応えた。
夜勤明けの朝、鶴見駅のホームで足がもつれた時、「ああ、もう無理だな」とストンと腑に落ちたのだ。
特に問題もなく、自己都合で円満に退職した。
ーーさて。
ここからが、念願の『第二の人生』である。
実はおじさんには、歳の離れた同僚たちの影響でハマった、密かな趣味があった。
『異世界ライトノベル』を読むことだ。
(毎日12時間も分析装置に張り付く必要はない。上司の小言も、依頼者からの無理難題もない。
これからは、溜まりに溜まったブックマークのWeb小説を、朝から晩まで読み放題だ……!)
退職して最初の2週間、おじさんは絵に描いたような『引きこもり生活』を満喫した。
朝はアラームをかけずに起き、コーヒーを淹れ、タブレットを開いて異世界転生モノやダンジョン配信モノを読み漁る。
主人公たちがチート能力で無双する姿を見ては、
(ふふっ、この能力の組み合わせは理にかなってるな)
などと、内心でニヤニヤしながら楽しんでいた。
まさに天国だった。
しかし、そんな自堕落な楽園は、1通の通知と、1枚の鏡によって破られることになる。
「……うわ、まじか」
ポストに入っていた『住民税と国民健康保険税』の通知書を見て、おじさんの顔から血の気が引いた。
前年の会社員としての収入をベースに計算された税金は、容赦のない金額だった。
持ち家でローンが無いとはいえ、貯金がものすごい勢いで目減りしていく。
(怖い。このまま貯金が減り続けるのは、精神的に耐えられん。何か……何か小遣い稼ぎをしないと)
焦ったおじさんは、気分転換も兼ねて風呂に入ろうと服を脱いだ。そして、脱衣所の鏡に映った自分の姿を見て、絶句した。
「……誰だ、このタヌキは」
そこには、2週間の完全な引きこもり生活の成果が、見事な脂肪となって腹の周りに浮き輪のように乗っかったおじさんが立っていた。
ただでさえ交代勤務でガタがきていた身体が、運動不足で完全に緩みきっていたのだ。
(これはいかん。精神的にも肉体的にも、このままでは本当に『おじさん、無職のまま孤独死する』ルートだ。
ラノベならここから異世界に転移して若返るのがテンプレだが、現実の俺はただの59歳だぞ……!)
内心でセルフツッコミを入れながら、おじさんはハッと目を開いた。
(まずは、身体を動かそう。動ける身体を作らないと、再就職するにしても、他のことを始めるにしても話にならない)
その日から、おじさんの、おじさんによる、おじさんのための『おじさん再生計画』が始まった。
クローゼットの奥からジャージを引っ張り出す。
「よし。まずは形からだな」
リビングの床に会社の健康イベントでもらったヨガマットを敷き、動画サイトで『初心者向け自重筋トレ』を再生する。
「ぬ、ぐぐ……ッ!」
姿勢を15秒保つだけで、腕と腹が生まれたての子鹿のようにプルプルと震えた。
腕立て伏せも10回が限界だ。
いかに自分の筋肉が落ちていたかを痛感させられる。
筋トレの後は、ウォーキングだ。
下駄箱からスニーカーを引っ張り出し、自宅を出て、まずは近所の公園や、鶴見川の沿岸を歩く。
最初は30分歩いただけで息が上がったが、長年培った生真面目さで、毎日の歩数と体重、体脂肪率を表計算アプリに記録し始めると、徐々に楽しくなってきた。
ーーそして、ウォーキングを始めて1週間が経ったある日のこと。
いつものように鶴見川沿いの遊歩道を歩いていたおじさんは、ふと、ある『異様な光景』に足を止めた。
大きなフェンスで囲まれた区画。
そこには、重武装をした若者たちが慌ただしく出入りしている建物があった。
看板には『探索者協会 鶴見支部』と書かれている。10数年前に突如として世界中に出現した、現代のダンジョン。
おじさんはこれまで『若い奴らが一攫千金を狙って行く危険な場所』『俺たちのような人間には関係のない世界』と、完全に他人事としてスルーしていた。
だが、今のおじさんの脳内には、2週間で詰め込んだ大量の『ラノベ知識』がある。
(待てよ……。あそこって、登録すれば一般人でも『魔石』を拾って稼げるんじゃなかったか……?)
じっと協会の建物を眺めるおじさんの目が、かつて新しいことに挑んでいた頃の輝きを、少しだけ取り戻し始めていた。
(つづく)




