30。ねがい
だ。
め。
花菱真以子は、自分が本当にかすかな、聞こえるか聞こえないか、かなり微妙な、でも、声を出してしまったこと、言葉を発してしまったことに、とても驚いているようだ。
そして、ものすごく衝撃を受けているようでもある。
花菱の顔がみるみるうちに青ざめる。
たとえば、誤って誰かを殺してしまったら、人はこんな顔色になるかもしれない。
ぼくは花菱が倒れてしまうんじゃないかと思う。
倒れはしなかったが、立っているだけでやっと、というよりも、身体が硬直してしまっているせいで、図らずも立っている、という感じだ。
「花菱……?」
「どうしよう」
花菱はがたがた震えだす。
うつろな声だ。
ぼくが知っている花菱の声じゃない。
地球人のふりをしている異星人みたいな声音だ。
「どうしよう。どうしよう。わたし、どうしよう。言っちゃった。どうしよう。どうしよう、わたし。言っちゃった。言っちゃったよ。ああ。どうしよう。どうしよう」
「ど、ど、どうした、花菱! 花菱!」
「どうしよう。言っちゃったよ。どうしよう。言っちゃだめだったのに。絶対、だめだったのに。わたし、言っちゃった。どうしよう。もう、とりかえしがつかないよ。どうしよう」
「だ、だから! 何が! 何を! どういうことなんだよ! 落ちつけ、花菱! 落ちつくんだ! 説明してくれ!」
「言っちゃ、だめだったの。ぷりるん、しか」
「だから、なんで!」
「がんかけ」
花菱はそう呟くと、何か危険な発作を起こした病人のように思いきり目を瞠って、十秒間くらい全身を硬直させていた。
その間、ぼくは、がんかけ、という言葉の意味を考えている。
がんかけ。
がんかけ?
もしや、癌家系……?
違うか。
違った。
花菱がようやく口を開く。
「がんかけ、してたの」
「え? 願掛け……?」
訊くと、花菱は、がくんがくん、とうなずく。
「……もう、だめ。どうしよう。どうしよう。言っちゃった。言っちゃったよ。どうしよう。わたし。言っちゃだめだったのに。どうしよう。うう。どうしよう。どうしたら」
「ちょっ! ちょっと待て! 花菱! だから、落ちつけってば! 説明してくれ! 願掛けって、何のために! どういう願掛けを――」
ぼくも落ちつけ。
どういう願掛けか。
そんなことはわかりきっている。
ぷりるん、だ。
それしか言わない。
口にしない。
何か願い事が叶うまで、髪を切らないとか、髭を剃らないとか、そういった願掛けはよく聞く。
だとしたら、ぷりるん、しか言わない、という願掛けがあったとしても、まあ、おかしくはないだろう。
いや、おかしいが、理屈としてはわかる。
理解はできなくもない。
ぼくは花菱の見開かれている目をのぞきこむ。
「何のために……?」
「それは」
花菱の目は最初、焦点が合っていない。
やっと、ぼくを見てくれる。
とうとう観念したようだ。
「ユラキくんが」
「ぼくが?」
「すこやかで」
「すこやかで?」
「幸せで、ありますように」
「しあわ――」
ぼくは声を失う。
頭の中で花菱の言葉を反芻する。
ユラキくんが、
すこやかで、
幸せで、
ありますように。
「……それ、が……」
嘘だろう?
だって。
そんな。
馬鹿な。
「それが……花菱の、願い事……?」
花菱はうなずかない。
さめざめと泣きはじめる。
「……それなのに、わたし……言っちゃった……どうしよう……言っちゃった……言っちゃ、だめなのに……どうしよう……どうしよう……どうしよう……どうしよう……」
ぼくはまだ、何も考えられない。
花菱を見つめていることしか。
花菱の声に耳を傾けていることしか、ぼくにはできない。
「た、足りない、と……思って、それだけ、じゃ……足りないから、だから……ユラキ、くん、が……苦しそうに、つらそうに、してるのかな、って……だから、お守り、を、あげれば、そうしたら、わたし、より、わたし、なんか、よりも、御利益、とか、あるかな……って、思って、でも、決めたこと、だし、だって、ずっと、わたし、ユラキくんの、こと、好き、で、好きだった、けど、でも、ユラキくん、何、しても、あんまり、かまって、くれないし、好きに、とか、そんなの……無理だって、わかったし、だって、高校も、同じ、とこ、入った、けど、でも……ユラキくん、う、嬉しそうじゃ、なかった、し、それは……そう、だと、思うけど、わたし、なんか、じゃ、やっぱり……だから、決めて、わたし、他に、何も、ユラキくんの、ために、何も……でき、ない、し……できない、から、だから……健康、で、しあわ、せで、一番、それが、大事だし……ユラキくん、には、そうなって、ほしかったから、そうで、いて、ほしかった、から……なのに、わたし……どうしよう、どう、しよう、わたし……」
そうだったのか。
花菱はぼくの興味を引きたかったのか。
ぼくに見てほしかったのか。
だから、いつもあんなことしていたのか。
たしかに、花菱がおかしなことをしたあと、ぼくは注意したり、忠告したりした。
もし、花菱が黙って、ただのかわいらしい女の子でいたら。
ぼくは、わからないが、遠くから見ていることはあっても、それだけだったかもしれない。
第九高校に入学したとき、ぼくは花菱に何と言っただろう。
はっきりとは覚えていないが、たしか、花菱はぼくに、また一緒だね、と言った。
嬉しそうだった。
やけに、ものすごく嬉しそうだった。
きらきらした笑顔だった。
ぼくは、なんで花菱はこんなに嬉しそうなのだろう、と訝った。
まばゆいばかりの笑顔に、圧倒されもした。
ぼくはなんだか照れくさかった。
目をそらした。
まあ、よろしく、というようなことを、そっけない口調で言ったと思う。
ぼくは知らなかったのだ。
花菱がぼくのことをそんなふうに思っていたなんて、知らなかった。
花菱はとても髪が長い。
ぼくは髪の長い女性が好きなのだ。
いつか、そのことを花菱の前で話したことがなかっただろうか。
花菱の学力でいえば、第九高校に合格するのはなかなか大変だったはずだ。
でも、花菱はずいぶんがんばった。
その甲斐あって、第九高校に入学した。
ぼくと同じ高校に通うために。
きっと、ただそれだけのために。
でも、ぼくはつれなかった。
少なくとも、花菱はそう受けとった。
それで、花菱はあきらめたのだ。
もしかしたら、小学校のときからずっと胸に抱いていたのかもしれない望みを捨てた。
ぼくに好意を持ってもらいたい。
自分のことを好きになって欲しい。
そうした希望を捨て去った。
普通ならそこで、誰か別の相手に破れた望みを託すところだろう。
ところが、花菱はそうしなかった。
ぼくの健康と幸せを願った。
そのために、願掛けをした。
ぷりるん、という言葉しか口にしてはいけない、という、過酷で、馬鹿げていて、めちゃくちゃな、つらい、悲しすぎる、願掛けをした。
それだけじゃなくて、お守りを買い集め、ぼくに贈った。
花菱はぼくをよく尾行していた。
いいや、ぼくの言い換えはきっと、正しい。
花菱はぼくを見守っていたのだ。
ぼくが健康で、幸せかどうか、チェックしていた。
だから、ということはすなわち、ぼくが桃川とああいうことになったのも、完全に、ではないかもしれないが、花菱は知っているだろう。
あれはやはり、振り返れば、ぼくの自業自得といえば自業自得なのだ。
深みに嵌る前に、抜けだすこともできた。
ぼくは弱かった。
だからあんなふうになってしまった。
結果的に、それはそれでよかった、とは言えないまでも、桃川とは友だちになることができた。
でも、どうだろう。
かつて想いを寄せていた相手が、他の異性とそのような間柄になって、そのことを知った上で、それでもあえて、身を削って健康と幸福を願う。
この世のどんな愚か者が、そんな馬鹿げたことをするというのだろう。
そんな者が、果たしているのか。
いるのだ。
ここに、いる。
ぼくのためだった。
すべて、ぼくのためだったのだ。
「どうもしなくていい」
いろいろあって、ぼくは正直になることができる。
自分の気持ちを素直に伝えることができる。
「いいんだ、花菱。どうしよう、なんて思う必要はない」
花菱はきょとんとした顔でぼくを見る。
今なら、ぼくの言葉は花菱の心に伝わるだろうか。
「ぼくは幸せだよ。きみのおかげで、とても幸せだ。健康かどうかは……ちょっと、まあ、問題がないわけでもないから、完全に健康とは言えないかもしれないけど、でも、おおむね健康だと言っても嘘にはならないと思う。つまり――」
伝わって欲しい。
伝えたい。
「きみの願いは叶ったんだ」
「……え」
「だから、もういい」
「え?」
「願掛けは、もう必要ないんだ」
「え……?」
花菱が何度もまばたきをする。
涙は止まっている。
ぼくの言葉はきみの心に届いただろうか。
きみは理解してくれただろうか。
花菱が満面に笑みをたたえる。
人はこんなにも幸福そうに笑うことができるのだ。
喜びに満ちあふれていて、あたたく、やわらかくて、まるで光そのもののようで、ぼくはいつか、そう、第九高校に入学して、また一緒だね、と言われたとき、この笑顔から目をそらしたのだが、それこそが間違いだったのだと、今にして思う。
ぼくは目をそらすべきじゃなかった。
その笑顔を見つめつづけて、そして、彼女が自分だけにこんなにもすてきな笑い顔を向けてくれることの意味を、ぼくは考えるべきだった。
考えれば、あっという間にわかったはずだ。
答えはすぐそこにあった。
気づいていなかった。
初めからここにあったのだ。
ぼくは矢も盾もたまらなくなって、彼女を抱きすくめる。
全身に歓喜が広がる。
ぼくの脳は幸福物質のプールで泳ぐ羽目になる。
「え? え? え? え……?」
彼女はきっと何がなんだかさっぱりわからないだろう。
でも、ぼくはぼくを止められない。
「いきなりで、ごめん。花菱」
これは本当のことだから、それでもどうか許して欲しい。
ぼくは彼女の耳許で囁く。
「好きだ。きみが好きだ」
彼女は息を吸いこんで、吐く。
それから、いきなりぼくを突き飛ばす。
間髪を容れず、抱きついてくる。
不意をつかれたぼくは、後ろ向きに倒れたが、なんとか頭は打たずにすむ。
地下鉄がやってくる。
ヘッドライトがぼくらを照らす。
ぼくを押し倒した彼女は、ぼくの顔を両手でつかんで、自分のほうへと一気に引きよせる。
ああ。
なんて、甘い。
とろけそうな唇。
ぼくは陶然として、次の瞬間、息をのむ。
嘘だろう?
熱い。
あの部分が。
痛いくらいだ。
彼女は、それほど長くはなかったけれど、一生忘れられないキスをしたあと、ぼくを見下ろして微笑む。
「ぷりるん」




