十七編
聞いた話。
たまに忘れるという機能に対して不平不満をいう人を見かける。
そんなものなければいいのにと。
本当にそう言えるのだろうか?
彼は気がつけば、玄関に立っていた。全身は汗で濡れ、息切れを起こしている。
彼は何故自分が玄関にいて、ここまで疲れ切っているのか分からなかった。
玄関は暗く、静かだ。
ポケットに入っていた携帯で時刻を確認する。午後の八時。
こんな時間に自分は何をしていたんだ。
そんな当たり前の疑問が浮かぶ。しかし、何一つ思い出せなかった。無理に思い出そうとすると頭の奥が重石を乗せたようにぐうっと痛む。
寒気を覚え、彼はその場で身震いした。何故か真冬だというのに自分は上着を着ていない。それどころか半袖だ。
靴はぬかるんだ泥がついていて、大分汚れている。
雨でも振っているのだろうかと思ったが、玄関から流れてくる空気は全く湿っていない。むしろ乾いている。
本当に何が起ったんだろうと首を傾げた。
彼は額の汗を拭い、靴を脱ごうとした。しかし、ピンポーンと来客を告げる音。
その瞬間、彼の呼吸は止まった。冷たい汗が額を流れる。
何故は分からない。
扉一枚隔てた向こう側が奈落の底のように恐ろしく感じる。
彼は震える足でゆっくりと玄関の扉に振り向く。
のぞき穴の小さなレンズに蛍光灯の白い明かりが灰色のコンクリートを照らしているのが見えた。
そして同時に扉の前に何かがいるのも分かった。
黒っぽい何かが背筋をピンと伸ばし、そこに立っているのがレンズに小さく映って見える。
彼はもう一度汗を拭い、唾液を飲み込むと片目を閉じてその穴に目を這わした。
見えたのは薄汚れた団地の扉。つまり向かいの家の扉。
ほっと一息つく。
何もなかった、と。
しかし自分は一体何をここまで恐れ――
玄関から離れようとして彼は止まった。
ぶわっと汗が吹き出る。
右足に違和感。
自分の足元を見た。
玄関ポストの入り口から、子供のように細く、真っ白な腕が彼の右足を掴んでいた。
「うわああっ!」
尻餅をつきながらその手から逃れる。すると腕も向こう側に消えた。
ポストの小さな入り口がきいっと音を立てて、ゆっくりと広げられる。何かがこちらを覗こうとした。
彼はとっさにそれは見てはいけないと思い、目を瞑る。
老婆のような、果ては年季の入った男のような、どこか野太い声でそれは言った。
「おしいおしい」
それはパタンとポストが閉じられても扉の向こうで呪詛のようにその言葉を吐き続けた。
彼はその声が聞こえなくなっても一時間はその場で震え、目を開けることができなかった。
今彼の願いはあの時、何を思い出せなかったのかを思い出さないことだという。