噂
翌日は定時に鳴った目覚ましで難なく起き上がることに成功した。
普段だったらここで二度寝、三度寝は当たり前なんだけど何か明確な目的があると眠気は不思議と吹っ飛んでしまうから不思議だ。
そそくさと身支度をし、髪の毛を高温のプレートでしごきまわす。
アイロンを発明した誰かに感謝しないと。なんたって、そいつは俺の救世主だから。
朝の時間の大半はこれに費やすのが日課だ。俺がストレートヘアならば、きっとベッドからチャリにまたがるまでに十分あれば事足りる。
その朝、俺は新記録で学校の門をくぐった。
普段見ることのないメンツに混じり廊下を歩くだけで数人に声をかけられた。
みんな口々に早いだのどうしただのと失礼なことを吐いては各々の教室に散っていく。
なんでよそのクラスの連中が俺のライフワークを把握しているのかは疑問だったが、まぁこうやって俺を気にかける仲間がいるってのは悪くないよな。
揚々と教室に足を踏み入れても反応は一緒だった。
信じられないって顔でみんなが俺を見ている。それは普段めったに会話をしない連中も同じだった。
「早いじゃん」
席に着いた俺にさっそく話しかけてきたのは修二だった。
「おはよ。俺が歩くとみんなが注目するんだ」
「それはあれだよ。普段チャイムギリギリか遅刻しかしない拓海が、こうやって雑談できちゃう時間に学校にいるんだもん」
「だからって俺にかまいすぎだろ」
「いやいや」
薄く笑みを浮かべて修二は言葉を続ける。正文よりも穏やかなヤツの口調は眠くなる。
「他人のイメージって結構簡単に確立しちゃうもんだよ。慌ただしく教室に飛び込んで来るのが拓海の日課だもん、この時間に拓海が学校にいたらえっ?てなるよ」
「ウザいな、それ」
俺たちがそんなどうでもいい会話をしていると、空席だった俺の隣にようやく今野がやってきた。
いつもと変わりない鋭い眼光はレーザーみたいに一点に集中。俺たちに気づくと、ひと言だけ「おはよう」と漏らし、難しい顔で携帯を睨みつけていた。
今野の挨拶は、いつだって腹話術みたいにほとんど口は動かない。
(こわいんだけど)
修二の口を読んだ俺は目線で行けの合図。俺もちょっと怯んだんだ。
なんか昨日までの出来事は夢だったんじゃないかとすら思えてきた。
「お、おはよう」
決意を固めた修二の挨拶だけが虚しく響いた。完璧なまでのシカトを決めた今野は携帯から視線を上げる素振りすらなかった。
「ムリかも」
微かに聞こえたヤツの弱音に再びのゴーサイン。きっと聞こえなかったんだといい方に解釈しておこう。
「お、おはよう今野さん」
口角をヒクつかせた修二の二度目の挨拶で、ようやく視線を携帯から引き剥がす今野。
ターゲットを切り替えたレーザー光線はヤツの眼球を容赦なく照射した。
しかし、そいつは一瞬で光を失いあきらかな動揺にと変わっていった。
「……アタシ? ごめん他の人に言ってるのかと思った」
「あぁ……うん。急に話しかけてごめん」
お互いに遠慮がち。互いを探るように、二人は双方の言葉を待っているようだった。
今野は相変わらず困惑したような表情を見せているし、それ以上に修二があからさまに動揺していた。
これじゃ今野を困らせてるだけじゃないか。
「もうすぐ夏休みだな。どっか行くの?」
見てられなかった。助け船のつもりで出した俺の問いに、彼女の硬かった表情が一瞬だけ和らいだ。
「行かない。せ、関根くんは?」
「俺も。金ないしね。今野ってバイトとかしてんの?」
「うん。あの、昔からある古本屋なんだけどね。大手と違ってさ、えっと、お客さんがそんなに来ないからラクちんなんだ」
一息で全てを言い切るような喋り方。
時たま挟む「あの」や「えっと」が、会話のたどたどしさを強調していた。
「いいなぁ。俺なんて毎日戦場だよ」
さらっと会話に混ざる修二は、いつもの修二だった。
会話の様子で少しは今野への警戒心も解けたようで、ニコニコと満面の笑みを今野へとぶつけている。
そいつに釣られてか、表情が穏やかになってきたのは今野も一緒だった。修二は人当たりがいいからな。
その後も今野を交えての会話は順調だった。とは言っても基本は俺と修二が喋くって、話を振られた今野はそれにこたえてただけなんだけどな。
そして、その会話に正文が加わることはなかった。
ヤツはチャイムギリギリに担任と一緒に教室に入ってきたんだ。昨日調子のいいことを言っておいて使えないヤツ。
「ほら! 席について」
担任のひと声で、新鮮な朝の時間が終わった。こうやって早めに登校するのも悪くないかもな。
早起きは三文の徳なんてうまいこと言ったもんだ。確かに今日の俺は朝からいい感じ。
ただ、ホームルームは初っ端から眠気との戦いだった。慣れない早起きをしたせいだろうな。
担任の話も上の空で、俺はウトウトしながら外の景色を眺めた。あと数日で夏休みを迎える七月中旬の空は、今日も澄んだ青空。
雲に消える飛行機を追いながら、半分遠のいた頭で考えていたことがある。
夏休みが終わって二学期になったら席替えとかあるのかなってこと。席が離れたら気軽に話しかけられないな、なんてことをぼんやり考えていた。
「こらっ! 関根くん。またボケッとしてたな」
また担任だ。俺ばかり晒し者にしやがって。俺が視線を担任に向けると同時に、隣から小さな声が聞こえた。
「今日は終わり次第帰るように。部活は中止」
声の主は今野だった。なんの事かと困惑する俺をよそに、彼女の視線は黒板を捉えたまま俺を見る事はなかった。
「話聞いてた?」
「あっ」
ここでようやく今野の言っていた意味を理解した俺。
「午後は部活中止で、生徒はホームルームが終わり次第帰るんでしょ?」
担任は少し驚きの表情を浮かべ、そうだと小さく言う。そして最後に余計な一言。
「できれば外ばかり見ていないで視線もこっち向けてくれたら完璧なんだけどなぁ」
◇
スローテンポで時刻を刻む時計がようやく残り一周を切った休み時間、慣れない早起きでダルい身体を机に突っ伏していた俺の前に誰かが立つ気配がした。
両腕に埋めていた顔を微かに上げると、俺の視線の先にあったのは短いスカートから伸びる色白の脚。
徐々に視線を上げると、俺を見下ろすように立っていたのは櫻井だった。
櫻井とは特につるんではいないが普通に話す仲。コテで巻いた茶色の髪が肩下くらいまである、いわゆるギャル系ってやつ。
「なんか用?」
俺の問いに、櫻井は眉をひそめた。
「あんた今野さんと最近仲良くない?」
余計なお世話。わざわざそんなことを言いにきたのだろうか。
俺は上体を起こし改めて櫻井を見た。ヤツは腕を組み、険しい目つきで俺を睨むように見ていた。
状況がまったく理解できない。
コイツは俺に怒ってるのだろうか。とりあえず、表情からしていい話ではないだろうな。
「だからなんだよ。やきもち?」
「バカ。あの娘いい噂聞かないから気をつけた方がいいよ」
俺を見る真剣な眼。意味がわからなかった。
嫌な予感。
「なんだよ噂って」
幾分小声になった櫻井の口から発せられた言葉は、とんでもないものだった。
「あの娘が援交してるの見た人がいるんだって。他にもクスリやってるとか」
嫌な汗。心臓が一度、何かに握られたように縮こまった感じがした。
「……誰が見たんだよ」
「知らないよ! 私も人づてに聞いた話だし」
「知らないってなんだよ」
無責任なヤツ。俺の中でフツフツと怒りの感情が湧いているのがわかった。
怒りを隠し、俺は櫻井から視線を逸らした。
「俺には関係ない。お前、確証もねぇのに変なこと言うな」
「だって噂になってるんだもん! それに、見たって人が……」
「だから誰だよ! 連れて来いそいつを」
怒らせた。
そう察知したのだろう。
桜井は少しばかり慌てた様子を見せ、次にふて腐れたような表情になり乱暴に口を開いた。
「人が親切に教えてあげてんのに!」
「余計なお世話」
「勝手にすれば!?」
俺の机に蹴りを一発。なんで櫻井が怒るのかが理解できない。面倒な女。
俺たちのいざこざを周囲のヤツらが気にしているのには気づいていた。
デカイ声でわめき机に蹴りを入れるギャルがいたら、そりゃあ気になるよな。
余計な話を聞かれていなければいいんだけど。櫻井を怒らせたことよりも、そっちの方がよほど気がかりだ。
「援交。か……」
さっきの言葉を改めて考えている自分がいた。眠気は飛んでった。
煙のないところに噂は立たないなんて言うけど、今野の場合はまた別な気がした。
アイツは謎が多すぎるのだ。あの風貌でプライベートは全くの謎。スキャンダルに飢えたガキどもには格好の的。
何も知らない今野が席に戻ってきたのは数分後。相変わらずの態度で無言で席につく。
なぁ今野。お前はどうしたいんだ。
俺はお前の孤独を少しでも癒せているのか?
それともただウザったいだけ?
知りたいことは沢山あった。
そんな俺と視線が合うと、今野はぎこちなくニコッと笑ってくれた。
なんだか胸が苦しい。