本当の彼女
結局その後、放課後になるまで今野とはひと言も会話を交わさなかった。
「お前がテンパって今野に話振ったのには笑えたわ。シカトされてたし」
バカみたいな大声で正文がいう。車がバンバン行き交う灼熱の大通りで、ヤツはとても楽しそうだった。
「はっ? シカトされてねぇし」
「本当に? じゃあなんだって?」
今度は修二が興味津々といった顔。
「聞いてなかった。だってさ」
二人が爆笑するのにこれ以上のネタは必要ないみたい。ヤツらは声を揃えて今年一番の笑い話だと騒ぎ立てた。
猫よりも小さな犬を連れた主婦が怪訝な顔で俺たちと距離を置き、少し先で二人組の女子高生が何事かと振り返る。
「よりによって今野だもんなぁ。アイツが誰かと楽しそうにしてるの見たことある?」
話題は自然と今野の方へと流れていった。もちろんこの場にいる誰一人として、アイツと楽しく言葉を交わしたことなんてない。
「プライベートも謎だよな。知ってるか? アイツ北王寺の公園によく一人で来てるんだぜ?」
北王寺は俺には馴染みのない地区。
同じ市内だったが、ガキの頃に無意味にチャリを走らせていた時に数回立ち寄っただけ。
確かに俺の家と真逆の正文ならば行動範囲内だ。
「なにしてんの? 遊んでるの?」
修二の間抜けな質問に、正文は遠くを見ながらこたえた。道路の向かいを女子高生が歩いている。
「知らねぇよ。遠目から見えただけだから。ベンチにずっと座ってた。俺が中学時代の仲間の家に行って帰りもまだいたから数時間はいたんじゃね?」
「ホームレスなのかな」
修二がおどけた様子でいう。あれこれ考察してはああじゃない、こうじゃないと盛り上がる二人。
そんなやりとりに俺は少しばかりイラついていた。
◇
「じゃあな」
「おう! また明日」
音響堂での物色を済ませ、俺たちが解散したのはまだ陽の高い時間だった。
仲良く並走するチャリを見送って俺はヤツらとは反対方向へペダルを漕ぎだした。
北王寺か……。ふと頭をよぎったのは正文のあの言葉。
暇だし行ってみるか。
方向的にはあの二人と同じだった。
しかし、まさか目的を言えるはずもなく俺は二人と出喰わさないよう少し迂回して北王寺へとチャリを走らせた。
あの二人に知られたら何を言われるかなんて考えるまでもない。
またテンションにまかせてバカ騒ぎするに決まってる。
猿共にバナナをチラつかせたらどうなるか、そんなの誰にだって想像できる。
夏空がようやく一日を終える気配を見せ始めた頃、俺はようやく目的の公園に辿り着いた。
なんだかノスタルジックな気分にさせるこの時間が俺はたまらなく好きだった。
入り口にチャリを停め、中の様子を伺ってみる。小学生くらいのガキが数人、広場の端にあるボロいハーフのバスケットコートで遊んでいた。別になんてことない光景。
「いねぇじゃん」
俺は何を期待していたんだろう。そもそもなんでこんな所まで来たんだっけ。
今野がいたらなんだっていうんだ。
ふと我に帰るとさっきまでの行動が自分でもわからなかった。
とりあえず疲れた俺は、朽ちた木製ベンチに腰掛け、ぼーっとローテーションでシュートを打つ小学生を眺めていた。
しばらくそうやって過ごしていると、ガキの放ったボールがゴールのふちに当たり、こっち転がってきた。
座ったまま脚を伸ばして止めてやる。
「ありがとうございます!」
全員の声が揃った。ひとりが駆け足で俺の方へとボールを取りに来る。
NBAチームのユニフォームを私服にしている、ここら辺じゃ見ないファッションの少年。
「かっこいいの着てんじゃん」
少年の目が少し泳いだ。面倒くさいヤツに絡まれたとでもいった感じの愛想笑い。
俺の足元に転がるボールを取っていいものかと躊躇しているようだった。
「バスケやってんの?」
「いえ! サッカー部です!」
背筋をピンと伸ばし、指の先まで硬直させて少年は言う。それはいつだったかテレビでみた鬼教官にしごかれる訓練兵のようだった。
そんな俺たちの様子を少し向こうで少年たちが不安げに眺めていた。
「小学校にはミニバスしかないからな。てか、ボール貸してくれないか? 俺、バスケ部だったんだ」
「はい!」
一瞬、えっ?て表情を浮かべながらも、再び訓練兵ばりの悲鳴混じりの返事。
いよいよ何事かと少年たちがあからさまな動揺を見せ始めたところで、俺は立ち上がり彼らの方へと一歩を踏み出した。
「この人バスケやってたんだって!」
無事に仲間の元へと帰還した訓練兵の声は安堵からか、やけにトーンの軽いものだった。
変なヤツ連れてくんなよとでも言いたげなその他大勢。
とりあえずヤツらに俺が敵ではないことをわからせなければ。
小中とバスケ部だった俺は、この少年たちみたいに暇さえあればフリースローの練習をしていた。
スリーポイントの位置からボールを投げてみる。ボールは、シュッと小気味いい音をならしてネットを揺らした。
俺の身体はまだ当時の感覚を覚えていたみたいだ。
警戒していた少年たちも、十本目のシュートを決めたあたりから明らかに態度が変わってきた。
「すげぇ」
相手がガキだろうと羨望の眼差しってのは気持ちがいいもんだ。
誰かが漏らした言葉に俺の気は持って行かれ、ボールはこの日初めてリングに弾かれ、ありえない方向へと逃げていった。
あぁー。
再び全員の声が揃う。ボールはさっきと同じ軌道を描き、さっきのベンチ方面へと飛んでいった。
俺がバスケに夢中になっているあいだに来たのだろう。知らぬ間にベンチ腰掛けていたのは今野だった。
俺に気付いていないのか、彼女は開いた文庫本に目を落としていた。
「あぶねーぞ!」
とっさに叫んだ俺の声は、彼女には届かない。幸いにも手前でバウンドしたボールは、今野の脚に当たり、申し合わせたかのようにベンチの前で静止した。
「ごめんな」
高鳴る鼓動を落ち着けつつ、俺は今野の元に駆け寄った。はち合わせてしまった。
俺がなんでここにいるのか、いい言い訳は見つからない。
「ちょっと用事ができた。邪魔して悪かったな!」
遠巻きに眺める最初の訓練兵にボールを投げ渡し、俺は覚悟を胸に少年たちに手を振った。
「俺たちこの公園でよくバスケやってるんで、今度また教えてください!」
そんな訓練兵の声にもう一度手を挙げ、俺は覚悟を決めてベンチへとドカッと腰を沈める。
「よう今野。ぐ、偶然だなぁ」
偶然じゃないだろうが。語りかける冷静な自分。
そんな思考を掻き消すように、俺は無理やりに笑顔を作って隣の今野をチラ見した。
ヤツはさすがにびっくりしたようだった。
微かに目を丸くして俺をマジマジと眺めている。
耳から垂れるイヤフォンを首にかけ、彼女はようやく口を開いた。
「えっ……。なんでここにいるの?」
微かに聞こえる掠れ声。それを聞かれたら困るんだよな。
俺は曖昧な返事で誤魔化し、無理やりに話題をそいつから引き剥がした。
「まぁあれだ。アイツらとバスケしてた。てか、近いのか? 家」
「うん」
「そっか。俺たち外で会うの初じゃね?」
「……だね」
ぎこちないながらも会話はなんとか続いた。
正確には俺がどうでもいい話題を引きずり出して無理やり引き伸ばしてる状態なんだけどね。
相変わらず今野は無愛想でなんか感情の読めないヤツ。
ただ、俺の仮説は正解だったみたい。言葉少ないながらも返事はくれるし、やはり敵意はなさそうだ。
こう言ったらなんだけど、今野はクラスメート全員を敵とみなしクラスで一人、妙なオーラと共に常に気を張ってるように見えていた。
少なくとも今の彼女は俺を敵視してはいないようだ。
「朝はごめんな」
俺の言葉に見当もつかないといった顔。
「えっ?」
「いや、ホームルームの時。なんか怒ってたっしょ」
しばらく考え込んで今野はいう。
「あれは本当に怒ってないよ。ただ……」
「えっ。ただ?」
「なんでもない。怒ってないから気にしないで」
少しの会話で幾分の変化を見せていた今野の顔から感情が消えたのがすぐにわかった。
やはり、ここでなにかしらのタブーを踏んだのは半ば確信だった。
ホームルームの時は焦りなんかで見逃していたが、こうして冷静に見ているとそれは怒りとは少し違うような気がした。
なにより、あの話題に戻った頃から彼女は膝の上で拳をきつく握っている。
色白の手の甲にうっすらと血管が浮いているのが気になった。
「そっか、ならいいんだ。あのさ。せっかく席も隣なんだし、仲良くやろうぜ」
「……うん」
それはOKってことだよな。そんな疑問が湧いてくる微妙な返事だった。
小声で漏らした今野は、うつむいたまま顔を上げようとはしなかった。
なんだか俺に表情を見られまいとしているかのように、微妙に顔を背けてるんだ。
やっぱり仲良しごっこは嫌いなのだろうか。
しばらくして今野がチラッと俺を見た。何か言いたげな目。
これ以上いたら迷惑だよな。本読んでたし。
「じゃあそろそろ行くよ。正文の家に行った帰りに寄っただけだから」
公園にいるそれっぽい理由を加えて立ち上がる俺を追う目。その中に微かに感じる違和感。
その正体がなんなのかはわからなかった。
俺はニッと笑いかけてチャリへと向かう。
「また明日ね。ばいばい」
「えっ?」
これには心底驚いた。
思わず立ち止まり振り返ってしまう。
また明日?
ばいばい?
今野らしからぬ言葉。
「おう!また明日な」
逆光の中、今野は少し笑っていたような気がした。
◇
ーーまた明日ね。ばいばい。
頭の中でさっきの言葉が延々とループしている。
鮮明な今野の声とあの時の情景。その度に抑えられない感情が爆発しそうだった。
なんて言ったらいいのかわからないが、なんでもいいから叫んで走り回りたい気分。
オレンジと紺色のグラデーションで染まる空の下、チャリを猛スピードで走らせた。
身体で切る空気は相変わらず蒸し暑くて、俺の身体をなぞるように纏わりついてくるけど、夏ってこういうもんだよな。
悪くない。
今日という日を死ぬまで忘れないでおこう。
いや、きっと忘れないだろう。
誰にだって鮮明に覚えている過去の記憶ってあるだろ?
ずっと昔、ある日の一分にも満たない時間。
それは小学校だったり、もしかしたら幼稚園。
いや、もうちょう前かもしれない。
強烈に頭に焼き付いて、一生の記憶として残る一コマの情景だ。
きっとさっきの出来事を、俺は死ぬまで忘れないだろうな。
爺さんになってもずっと。