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第十二話 泉の巫女と黒い手

泉の底から。


巨大な黒い手が伸びてきた。


「――来ます!」


小夜(さよ)の声が響いた。


次の瞬間。


ザバァァァァァンッ!


泉の水が大きく跳ね上がった。


水面から現れたのは、腕だけだった。


人間の腕に似ている。


だが、その大きさが尋常ではない。


五尺。


いや、それ以上。


黒い水と泥が混ざり合ったような腕が、空中でぐにゃりと曲がる。


そして、その手のひらには――。


巨大な黒い穴が開いていた。


「目……なのか?」


俺が呟いた瞬間。


黒い手がこちらへ向かって振り下ろされた。


「右です!」


泰親(やすちか)が叫ぶ。


俺が飛び退く。


ドォォォン!


地面が砕けた。


「助かった!」


「星の動きだけではありません。気の流れにも規則があります」


泰親(やすちか)は空を見上げながら言った。


「奴は次に――左!」


「分かってる!」


再び黒い手が迫る。


俺たちは散開した。


ズドォォォン!


地面に巨大な亀裂が走る。


「今度は――上!」


「上!?」


見上げる。


黒い手が、まるで蛇のように空中へ伸びていた。


そして俺たちを押し潰そうと――。


「呪符!」


明乃(あけの)が叫んだ。


バッ!


無数の呪符が宙を舞う。


「縛!」


呪符から赤い光が走り、黒い腕に絡みついた。


「止まりなさい!」


ギギギギギ……。


黒い腕が動きを止める。


「今です!」


「小夜(さよ)!」


「はい!」


小夜(さよ)が式盤を掲げた。


式盤の上で、針が激しく回転する。


「……やっぱり!」


小夜(さよ)の顔色が変わった。


「この腕そのものが地脈ではありません!」


「どういうことだ?」


「地脈に入り込んだ、異物です!」


小夜(さよ)が泉を指差す。


「泉の底から地脈に沿って何かが入り込んでいます。水の気と、土の気……それに、地中の鉱物まで取り込んでいる!」


俺は黒い手を見る。


確かに、ただの水ではない。


黒い泥。


砂。


小石。


そして、黄色や赤茶色の鉱物のようなものまで混ざっている。


「つまり……」


「五行を喰らったものの一部が、泉の水脈に流れ込んでいるんだと思います」


小夜(さよ)が答えた。


「黒い石の中にいる災厄が、直接ここまで来ているわけじゃない」


「その眷属……みたいなものか」


俺が言うと。


黒い手が、突然暴れ始めた。


「きゃっ!」


明乃(あけの)の呪符が次々と弾き飛ばされる。


「くっ……!」


「明乃(あけの)!」


「大丈夫です!」


明乃(あけの)は歯を食いしばる。


「ですが、長くは持ちません!」


そのときだった。


黒い手の動きが変わった。


俺たちではない。


黒い手が見ているのは――。


俺の腰。


そこに吊るしてある黒い石だった。


「……まさか」


黒い石が。


ゴォォォォォン……。


低い音を立てた。


「石が……」


小夜(さよ)が呟く。


黒い手もまた震えている。


ゴゴゴゴゴゴ……。


「呼応している?」


俺が黒い石を取り出す。


その瞬間。


黒い手が大きく膨れ上がった。


「晴蕪(はれむ)様!」


明乃(あけの)が叫ぶ。


「それを狙っています!」


「分かってる!」


黒い石を握る。


熱い。


まるで中から何かが叩いているようだ。


ドクン。


ドクン。


心臓のように脈打っている。


「俺の持っている黒い石に反応している……」


もしや。


この黒い手は、あの石の中に封じられているものの一部なのではないか?


ならば――。


「だったら、ここで消す!」


俺は右手を前へ突き出した。


「土行!」


白い光が紫色へ変わる。


紫。


土の色。


俺の手から紫色の光が溢れ出した。


「土は水を制する!」


紫色の光が巨大な塊となる。


そして――。


ドォォォォン!


黒い手へ叩きつけた。


「効いた!」


一瞬。


黒い手が大きくへこんだ。


だが。


次の瞬間。


ズズズズズ……。


紫色の光が黒い手の中へ吸い込まれていった。


「なっ……!」


俺は目を見開いた。


黒い手がさらに巨大になる。


「吸収した!?」


小夜(さよ)が叫ぶ。


「土の気を……!」


黒い手が握り拳を作った。


先ほどよりも二回りは大きい。


「まずい!」


ズドォォォォン!


黒い拳が地面を叩く。


土砂が舞い上がった。


「晴蕪(はれむ)!」


泰親(やすちか)が叫ぶ。


「水です!」


「水?」


「奴は水の気を使っています!」


泰親(やすちか)が空を見上げる。


「土は水に克つ。ですが――」


「待って!」


小夜(さよ)が声を上げた。


彼女は式盤を見つめている。


「違う……」


「何が?」


「晴蕪(はれむ)様。土だけでは駄目です」


小夜(さよ)は泉を見る。


そして、黒い手を見る。


「この黒い手は、水と土を別々に喰らっているんです」


「別々に……?」


「なら――」


小夜(さよ)の目が輝いた。


「一緒にしたら、どうでしょう?」


「水と土を?」


「はい!」


小夜(さよ)は式盤を握りしめる。


「水だけでもない。土だけでもない。二つを合わせて、一つの気としてぶつけてみるんです!」


俺は泉を見る。


確かに。


五行は単純な相克だけではない。


水。


土。


それぞれ単独なら、あの黒い手に喰われる。


ならば。


「やってみる価値はあるな」


俺は両手を広げた。


「水行!」


右手から青い光が生まれる。


青。


水の色。


「土行!」


左手から紫色の光が生まれる。


紫。


土の色。


二つの光がぶつかる。


青と紫。


反発するように震えた。


バチッ。


そして。


消えた。


「だめだっ!なぜっ?!」


「相克…!かもしれないっ!順番です!

土のあとに水を混ぜてください!」


小夜(さよ)が叫ぶ。


「二つを混ぜるんです!」


「分かった!」


俺は力を込める。


紫の光と青い光が絡み合う。


その瞬間――。


ゴォォォォォォッ!


地面が震えた。


「な、何ですか!?」


明乃(あけの)が驚く。


青と紫の光が渦を巻く。


水が土を巻き込み。


土が水を受け止める。


そして――。


巨大な泥流へと変わった。


「これは……」


俺自身が驚いた。


ただの水でもない。


ただの土でもない。


水を含んだ土。


土を含んだ水。


濁流。


いや――。


「これならどうだ!」


俺は黒い手へ向かって両手を突き出した。


「行けぇぇぇぇぇぇ!」


青紫色の巨大な泥流が泉へ叩き込まれた。


ドッッッッ!


黒い手が受け止める。


ズズズズズ……。


また吸収しようとしている。


だが。


「……止まった?」


黒い手が震えている。


吸収できない。


「効いてる!」


小夜(さよ)が叫んだ。


「水と土が混ざって、別の性質になっているんです!」


黒い手が苦しそうに身をよじる。


「ギィィィィィ……!」


声なのか。


水の音なのか。


分からない。


だが確かに――。


苦しんでいる。


「明乃(あけの)!」


「はい!」


明乃(あけの)が最後に残った呪符を取り出す。


「八方封!」


八枚の呪符が飛ぶ。


黒い手の周囲を囲む。


「泰親(やすちか)!」


「分かっています!」


泰親(やすちか)が空を見上げた。


「今です!」


俺は力を込める。


「小夜(さよ)!」


「北東です!」


小夜(さよ)が式盤を突き出す。


「そこが一番弱い!」


「分かった!」


俺は青紫色の泥流を一点へ集中させた。


「これで――!」


ドォォォォォォォン!


黒い手が爆発した。


大量の水が泉へ落ちる。


泥が舞い上がる。


そして。


静寂。


……。


……何も起こらない。


黒い手は。


消えていた。


「……終わった?」


明乃(あけの)が呟く。


「どうやら……そのようです」


泰親(やすちか)も息を吐いた。


小夜(さよ)は式盤を確認する。


「地脈の乱れも……収まっています」


俺は泉を見る。


黒い水は、少しずつ透明になっていた。


「勝った……のか?」


そう呟いたとき。


「――はい」


声がした。


あの巫女だった。


いつの間にか、泉の中央に立っている。


白い衣。


赤い袴。


長い黒髪。


鈴のついた髪飾りが、かすかに揺れている。


「皆様のおかげです」


巫女は微笑んだ。


「ありがとうございます」


「いや、礼を言われるほどのことじゃ――」


「いいえ」


巫女は首を横に振る。


「この泉を守ってくださったのですから」


そう言って。


彼女は一歩、こちらへ近づいた。


……。


だが。


俺は違和感を覚えた。


「……待て」


巫女が止まる。


「どうしました?」


「お前……」


俺は目を凝らした。


巫女の足元。


そこにあるはずの地面が――。


ない。


「……泉の中にいるのか?」


「はい」


巫女は微笑んだ。


だが。


その姿をよく見ると。


彼女の腰から下が――。


水になっていた。


白い衣の裾が泉の水へ溶けている。


足がない。


膝もない。


腰から下が。


完全に水と一体化している。


「え……?」


明乃(あけの)が絶句する。


泰親(やすちか)も言葉を失う。


小夜(さよ)は式盤を握ったまま、青ざめている。


「あなた……人間ではない?」


俺が問う。


巫女は微笑んだ。


「はい」


そして。


静かに泉の中へ沈んでいく。


「私は――」


水面だけを残して。


その姿が消える。


最後に聞こえたのは。


「この泉が生まれた時から、ここにいるものです」


という声だった。


俺は泉を見つめる。


水面には、何もない。


ただ。


青い月が映っているだけだった。


「……泉が、生まれた時から?」


俺は呟いた。


その瞬間。


腰に吊るした黒い石が。


ゴォォォォォン……。


再び低く鳴った。


泉の底から。


何かが――。


こちらを見ているような気がした。


そして俺は、まだ知らなかった。


この巫女が。


ただの巫女ではないことを。


この泉そのものに宿る――。


水の神なのか。


それとも。


五行を喰らう災厄と、もっと深い因縁を持つ――。


何かなのか。


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