第一話 公卿の八男、陰陽師になる
――どうやら俺は、平安時代に転生したらしい。
そう気づいたのは、六歳の春だった。
「若君、お目覚めでございますか?」
「……うん」
几帳の向こうから聞こえる女房(*1)の声に、俺は布団(*2)の中で小さく返事をした。
薄暗い部屋。
寝床の畳(*3)。
几帳。
香炉から漂う香の匂い。
そして、庭へと続く蔀戸。
現代日本で暮らしていた俺の知識と照らし合わせれば、ここが平安時代の貴族の邸宅であることくらい、幼い俺にも分かった。
もちろん、最初からそんなことが分かっていたわけではない。
赤ん坊の頃は、自分が何者なのかすら分からなかった。
ただ、ある日。
乳母が口にした言葉で、すべてを思い出した。
『今年は貞観十五年でございますから――』
貞観十五年。
西暦で言えば873年。
俺が前世で生きていた時代から、およそ千年以上も昔。
そして俺は――
藤原家に連なる、とある公卿の八男として生まれていた。
名前は、
藤原晴蕪。
……八男。
この身分が高いのか低いのか。
転生したばかりの俺には、さっぱり分からなかった。
だが、六歳になる頃には嫌でも理解した。
俺の父は公卿。
兄たちは皆、将来の官職を約束されている。
長兄はすでに父の側近として出仕し、次兄は寺社との縁を深め、三兄は武芸に秀でている。
そして俺は八男。
「晴蕪様は、お兄様方と違って、お好きなことをなさればよろしいのですよ」
乳母はそう言って笑った。
なるほど。
つまり――
俺は家督争いとは無縁。
嫡男でもない。
父からすれば、多少失敗しても家が傾くほどではない存在。
ならば。
「……陰陽師になろう」
俺は六歳のある日、そう決めた。
理由は単純だった。
この時代、科学も医学も未発達。
疫病が流行れば、
「怨霊の仕業だ」
日照りが続けば、
「龍神がお怒りだ」
誰かが急死すれば、
「物の怪に取り憑かれた」
と騒ぐ。
そんな世界で、陰陽師という存在は強い。
しかも俺には、前世の知識がある。
病気には原因がある。
天候には仕組みがある。
火事には条件がある。
人間の心理には一定の傾向がある。
そして何より。
この時代の人間が「怪異」と呼ぶものの中には、科学的に説明できるものが少なくない。
ならば。
俺は陰陽師として名を上げられるのではないか。
そう考えたのだ。
……だが。
現実は、俺の想像よりずっと面倒だった。
「若君!」
ある冬の日の朝。
俺の部屋に女房が駆け込んできた。
「どうした?」
「東の対屋にて、怪異が!」
「怪異?」
「はい!」
女房は顔を真っ青にしている。
「夜明け前、侍女が東の対屋に火鉢を置きに参りましたところ……廊下の先に、白い女が立っていたそうでございます!」
「白い女?」
「はい。それも、足がなかったとか!」
……なるほど。
典型的な幽霊話だ。
「それで?」
「父君へお知らせする前に、若君へご報告をと思いまして」
「どうして俺に?」
「若君は、怪異がお好きでございましょう?」
「……好きという言い方はやめてくれ」
俺はため息をついた。
確かに俺は陰陽道の書物を読んでいる。
だが、六歳児が読める書物など限られている。
そもそも。
俺はまだ六歳だ。
なぜ大人たちは俺を怪異専門家のように扱うのだ。
「その女は、どこにいた?」
「東対と、渡殿の境にございます」
「何時頃?」
「寅の刻(*4)頃かと」
「天気は?」
「……雪交じりの雨でございました」
「風は?」
「強うございました」
俺は立ち上がった。
「案内して」
「えっ?」
「怪異を見に行く」
「若君!」
女房が悲鳴を上げた。
「危のうございます!」
「大丈夫」
俺は自信満々に答えた。
「幽霊なら、俺には何もできないから」
「そういう問題ではございません!」
……まあ、確かにそうだ。
俺が幽霊に対して無敵という意味ではない。
単に、幽霊が実在するという前提で考える必要がないというだけだ。
俺は女房に先導されながら、東対へ向かった。
廊下を歩く。
雨上がりの庭には水滴が残り、湿った土の匂いが漂っている。
すでに何人もの使用人が集まっていた。
誰もが不安そうな顔をしている。
「若君がお見えになりました!」
俺が近づくと、皆が道を開けた。
……おい。
本当に俺が調査する流れなのか?
俺は六歳児だぞ。
まあいい。
むしろ好都合だ。
俺は問題の場所を見る。
主殿と東対を結ぶ渡殿の端。
つまり東対の西廊下に差し掛かったところ。
東対は蔀と壁代が下ろされて中が見えない。
俺は
「ここ?」
「はい」
「白い女を見たのは?」
「あちらの辺りでございます」
女房が指差す。
庭に面した場所には、古びた几帳が置かれていた。
雨風で濡れた白い几帳。
ということは、昨夜からずっとここにあった。
薄暗い夜。
風。
俺は立ち上がった。
「幽霊じゃない」
「……!」
女房たちがざわめく。
「では、何なのでございますか?」
「見間違い」
「見間違い……?」
俺は説明する。
「白い布が風で動けば、人の姿に見えることがある。しかも夜なら、顔や足が見えにくい。だから『白い女が立っていた』ように感じた」
「しかし、足がなかったと……」
「布が床まで垂れていれば、足は見えない」
「……」
皆が黙り込んだ。
だが、一人の女房が言った。
「では、あの声は?」
「声?」
「昨夜、女のすすり泣く声も聞こえたのです」
俺は眉をひそめた。
……それは聞いていない。
「どんな声?」
「ひゅう……ひゅう……と」
俺は天井を見る。
風が吹く。
――ひゅううう。
隙間から風が抜けた。
「……これだ」
「え?」
「風の音」
屋根と壁の隙間を風が通り抜けることで、笛のような音が出ている。
つまり。
白い女も。
泣き声も。
どちらも自然現象。
「怪異じゃない」
俺は胸を張った。
「この屋敷に鬼はいない」
……その瞬間だった。
――カラン。
東対の奥から、何かが落ちる音がした。
女房たちが一斉に振り返った。
「若君……」
「……」
俺も振り返る。
嫌な予感がする。
「今の音は?」
「東対の奥でございます」
侍女が震える声で答える。
「誰かいるの?」
「誰もおりませぬ」
「誰もいないのになぜ火鉢を置いたんだ?」
「誰かがお使いになるときのために温めたのです。」
……。
嫌だ。
行きたくない。
だが、ここで逃げたら陰陽師を目指す者として格好がつかない。
「見に行こう」
俺は歩き出した。
妻戸を開けて中に入る。
東対の中には、誰もいなかった。
蔀も壁代もおりているので、朝だというのに薄暗い。
ただし。
文机の上に置かれていた水晶玉が、床に転がっている。
俺はそれを拾い上げる。
透明な水晶玉。
……かなり大きい。
俺の手では抱えるのが精一杯だ。
「これは?」
「父君のものでございます」
「父上の?」
「はい。昨夜まで文机の上にございました」
俺は水晶玉を見る。
傷はない。
だが。
よく見ると。
「……ひび?」
内部に、ごく細い線が見える。
気のせいかと思った。
しかし。
その線は確かに存在していた。
水晶玉の中心から、放射状に伸びている。
俺は少し考える。
外は雪交じりの雨上がり。
文机のそばには火鉢がある。
夜明け前、侍女が置いた火鉢が。
冷たい空気の中で、火鉢の周囲だけが温かい。
つまり昨夜。
水晶玉は一晩中氷点下近くまで冷やされた。
そして今。
冷やされた水晶玉は火鉢の近くで温められた。
「……」
まさか。
俺は水晶玉を机に置こうとした。
その瞬間。
――ピシッ。
「!」
細い音。
水晶玉の中の亀裂が、ほんの少し伸びた。
「若君!」
女房が叫ぶ。
俺は水晶玉から手を離した。
――パキッ。
さらに亀裂が走る。
まるで蜘蛛の巣のように。
水晶玉の内部いっぱいに、細かな線が広がっていく。
「下がって!」
俺は叫んだ。
次の瞬間。
――――パァンッ!
水晶玉が砕けた。
透明な破片が床に散らばる。
女房たちが悲鳴を上げた。
俺は呆然と立ち尽くす。
幽霊ではない。
呪いでもない。
内部の亀裂。
急激な温度差。
熱による膨張。
前世の知識なら説明できる現象だ。
だが。
「……これは、まずい」
俺は気づいた。
水晶玉が割れただけならいい。
問題は――
水晶玉の中から、『黒い小さな塊が一つ転がり出てきたこと』だった。
「何だ、これ……?」
俺は拾わずに眺める。
黒い。
石のように見える。
だが、妙な匂いがする。
そして、その塊の表面には。
赤い文字のようなものが刻まれていた。
俺が見ていると。
それが、ゆっくりと光った。
「……え?」
室内の空気が変わる。
風がないのに、几帳が揺れた。
火鉢の中で、赤く熾った炭がぱちりとはぜた。
その瞬間――
炭の隙間から、小さな青白い炎が一瞬だけ立ち上がった。
そして。
誰も触れていないはずの塗籠の妻戸が、
――ギィ。
と開いた。
その向こう。
暗い塗籠内に。
何かが立っていた。
白い。
細長い。
人のような形。
俺は息を呑んだ。
……さっきの白い女。
いや。
違う。
これは。
俺にも分からない。
女房たちが悲鳴を上げる。
「鬼!」
「鬼が出た!」
「誰か! 誰か陰陽師を!」
俺は動けなかった。
前世の知識では説明できない。
目の前の存在は、明らかに人間ではない。
白い影が一歩、こちらへ近づく。
――ズル。
足音がしない。
なのに近づいてくる。
俺は震える手を握りしめた。
怖い。
怖いに決まっている。
だが。
同時に。
胸の奥が妙に熱くなった。
――そうか。
これが。
陰陽師の仕事なのか。
俺は床に散らばった水晶の破片を見た。
そして黒い塊を見る。
最後に、白い影を見た。
「……なら」
俺は立ち上がる。
「俺がやる」
白い影が止まった。
俺は生まれて初めて。
陰陽師として。
呪文を唱えた。
「――――急々如律令」
……もちろん。
意味など、ほとんど分かっていない。
だが。
その言葉を口にした瞬間。
俺の足元に置かれていた水晶の破片が、一斉に光った。
白い影が初めて。
怯えたように後ずさった。
俺は目を見開く。
「……え?」
俺自身が一番驚いていた。
もしかして。
俺には――
陰陽師としての才能があるのか?
それとも。
この時代に転生した俺自身が。
まだ知らない何かを持っているのか。
答えは、分からない。
ただ一つだけ。
この日。
藤原家の八男だった俺は。
平安京に渦巻く怪異の世界へ、足を踏み入れることになった。
後に人々から、
『鬼を祓う若君』
と呼ばれることになる男の。
これは、その始まりの物語である。
(*1女房:房を与えられている侍女のこと)
(*2布団:当時は綿の入った衣のこと)
(*3畳:当時畳は座る場所や寝る場所に移動させて敷物やベッドのように使った)
(*4:現在の時間で午前3時から午前5頃までの2時間を指す昔の時刻)




