沈黙の確認
あの夏から、一年が過ぎた。 けれど、胸の奥へと深く刻まれた鉄の軋みだけは、いまだ消えてはいなかった。
王立魔導学院の朝は、いつも静冷だ。 尖塔の鐘が白々と鳴り響き、石畳の回廊へ無数の足音が反響する。その喧騒の中に身を置いていると、自分だけが別の時間へ取り残されているような、奇妙な錯覚を覚えることがあった。
教所の重い扉を開けば、そこにはいつも通りの光景が広がっている。 机の上に分厚い魔導書を高く積み上げる者。不器用な魔力の火花を散らしては講師に叱責される者。そのどれもが、カイの視界を素通りしていく。
――だが、彼女だけは違った。その同じ講堂に、彼女がいたのだ。
夏に出会った少女、エリル。
新学期の初日、一度だけ彼女に話しかけようとしたことがあった。 だが、「声をかける」という意思が脳裏に浮かんだ瞬間、全身の血が凍りついたように動かなくなった。身体が拒絶反応を起こしたのだ。 気づけばカイは、ただ睨みつけるような鋭さで、彼女の瞳を凝視してしまっていた。 「硬派」という名の仮面が、最悪の形で表に出てしまった瞬間だった。 エリルは怯えるように、静かにうつむいた。 結局、まともな一言もかけられないまま、カイはその場を逃げるように去ることしかできなかった。
どうして、こうなってしまうのか。 自責の念を置き去りにしたまま、残酷なほど自然に時間だけが過ぎていった。
呪わしいことに、座席は隣同士だった。 彼女はときおり、羊皮紙へ術式を書きつけるふりをしながら、こちらへかすかな視線を向けてくる。衣が擦れる微かな音だけが、やけに鮮明に耳の奥へ残った。 対するカイは、頑なに正面か、あるいは窓の外ばかりを見つめていた。 訓練場の端に張られた防魔網。空をゆっくりと流れていく雲。そんな、どうでもいい景色だけを網膜へ焼き付けながら、実際には隣席の気配へと全神経を尖らせていた。
一年目は、そうして息を詰めるようにして終わった。
二年目で一度教所が分かれ、そして、三年の春。 再び同じクラスになり、あろうことか――また隣の席になった。
エリルは、昔と同じことをした。 紙にペンを走らせるふりをしながら、かすかな魔力の揺らぎと共にこちらを窺ってくる。カイは相変わらず、石像のような無関心を装い続けた。
すると、彼女の態度に変化が訪れた。露骨に拗ねたような仕草を見せるようになったのだ。 机へ置かれる魔導書の音が、不必要に大きく部屋に響く。時に椅子を乱暴に引き、その衣擦れの音だけで、何かを訴えかけてくる。
そんな、言葉のない膠着状態がしばらく続いた、ある日のことだった。
彼女が、トン、と拳で机を叩いた。 乾いた音へ反射するように、カイは思わず顔を向けてしまう。ほんの一瞬の出来事だった。 だが、その時のお互いの顔は、ひどく余裕のない目をしていただろうと思う。 カイはすぐに視線を伏せた。エリルもまた、呼吸一つ遅れてうつむく。 二人して顔を伏せたまま、講堂の時間だけが異様に長く引き延ばされていく。胸の奥では、行き場のない魔力が暴流のように荒れ狂っていた。だが、それを言葉へと変換する術を、カイは未だに持っていなかった。
「……おい、カイ。聞いてるのか」
肩を強く叩かれ、ようやく意識が現実の光へと引き戻される。 見上げると、同級生のレオンが呆れ顔で立っていた。
「また瞑想か? 最近のお前、魔力練成ばっかやってるだろ」
「別に、いつも通りだ」
「その“硬派”も度を越すと不気味だぞ。今日の術式実技、またペアだろ? どうせお前、誰とも組まねえんだろ」
「……ああ」
レオンは苦笑して首を振ったが、カイとエリルの間に流れるこの異様な空気には、微塵も気づいていないようだった。
昼休み。 購買で買った乾いたパンを齧りながら、レオンがふと思い出したように言った。
「そういや二年の頃さ。お前とあの子、廊下ですれ違うたびに同時にうつむいてたよな。あれ何だったんだ?」
「……何でもない」
言えるはずがなかった。 示し合わせたわけでもない。それなのに、すれ違う瞬間だけ、必ず二人は同時に視線を落としてしまうのだ。 それが、あの頃の二人に許された、唯一の「会話」だった。 言葉を一切使わず、互いの境界線だけを確かめ合うための、重苦しい沈黙。 卒業を間近に控えた今になっても、その無言の確認だけは静かに続いていた。
けれど。 逃げ場のない午後の「術式実技」を前にして、その危うい沈黙の均衡は、ゆっくりと形を変え始めていくことになる。




