硬派の呪い
恋と呼べるものがあるとして、カイのそれを打ち砕いたのは、まさしく呪いそのものだった。
誠実は、人を縛らない。だが――誠実に付け入る“何か”は、確かに存在する。
銀の鎧を血に染め、右腕を喰い千切られてなお、無言で剣を握り直す英雄。 恋人を城壁へ残し、紅の呪布を風に翻しながら、魔王軍へ単騎で向かった呪装騎士。 辺境の漁村で育った幼い頃から、彼は彼らの沈黙こそが、“強さ”の正解なのだと信じていた。
だが、その静けさはいつしか胸の内に、「硬派」という名の牢獄を築き上げていく。 婦人の前で心を揺らすことすら許されない――古い英雄譚が残した呪いのような価値観は、彼が生まれ持つ照れ屋な気質と深く絡みつき、やがて一人の不器用な木偶を作り上げた。
王立魔導課程へ進んだあとも、その呪いだけは剥がれなかった。 誰かに声をかけられるたび、胸の奥の魔力が熱を帯びる。それを悟られまいとして、わざと無愛想に振る舞った。錆びついた鉄兜のように、「硬派」の仮面は最後まで外れなかった。
――そして、中等部三年の夏。 彼はその呪いの正体へ、初めて触れることになる。
夏の間、カイは学校の課外授業として、王都近郊の魔術ギルドが営む「術式の補修講習」へと送り込まれた。 潮の匂いが残る石畳の路地を抜け、古びた雑居塔の重い扉を開く。その瞬間、魔力を帯びた冷気が肌を撫でた。
薬草と古羊皮紙の濃い匂い。夏の熱気だけが扉の外へ置き去りにされ、意識がそのまま未知の深淵へ沈んでいく――あの感覚だけは、今でも鮮明に覚えている。
講堂に集まっていた生徒は、わずか三人だった。 分厚い魔導書を抱えた線の細い少年。そして、一人の少女。 講師が現れるまでの十五分間、誰一人として口を開かなかった。ただ、蝋燭の爆ぜる音だけが、石造りの部屋に小さく響いていた。
今思えば、あの沈黙は奇妙なほど完成されていた。互いの境界線を、最初から静かに引き合ってしまっているような沈黙。三人きりの狭い教室で、その所在のなさに見かねたカイは、やがて眼鏡の少年とぽつぽつと言葉を交わすようになった。
だが、どうしても視線の端が気になってしまう。 少女だけが、少し離れた席にぽつんと座っていたからだ。男二人が会話を始めれば、彼女は一人だけ取り残される。それが妙に落ち着かなかった。自分自身の不甲斐なさを責めるような、割り切れない感覚。
彼女には癖があった。 考え事をする時、魔導書の羊皮紙の端を、そっと唇で噛むのだ。爪を立てるほどでもない、ごく小さな仕草。だが、その吸い殻のような静かな癖だけが、なぜか妙に記憶へ残った。
ある日、少年が病で講習を休んだ。 狭い石造りの部屋に、二人きりになる。
沈黙はいつもより重く、湿り気を帯びて、肺腑へじわじわと沈み込んできた。 心臓の音がうるさい。魔力制御まで乱れそうになる。どれほどの時間が過ぎたのかも分からなくなった頃、カイは喉の奥で固まり続けていた言葉を、ようやく押し出した。
「……今日は、静かですね」
口にした瞬間、己の語彙の貧弱さに絶望した。
だが彼女は、ふいに唇を綻ばせた。 「ええ。静かすぎて、地下から魔物でも這い出てきそうです」
その瞬間だった。 彼女の額にかかる前髪が、ふわりと浮き上がった。体内の魔力が揺れた時にだけ起きる、ごくささやかな現象。
ただ、それだけのことだった。 それなのに胸の奥が、生まれて初めて激しく鳴った。長いあいだ身体へ食い込んでいた「硬派の盾」が、その瞬間だけ、みしりと小さく軋んだ気がした。
――彼女との会話は、それが最初だった。 そして、王立校の本課程へ上がる前の、最後の会話でもあった。




