平凡なる皇帝(if話)
「もしエドモンドとフレアが結婚して、ハルがドラニアスで平和に生まれていたら」というif設定です。
帝国の皇女はそろそろ二歳になろうとしていた。
父親のエドモンドは朝起きると、伴侶のフレア、それに護衛の竜騎士――今日はクロツキとナギサ、サタケがいる――と共に子供部屋へと向かう。
そうして扉を開けると、エドモンドは娘の姿を目にして表情をとろとろに崩した。
「ハルー! おはよう! 父さまだよー!」
父になっても少年のような若々しさを持つエドモンドは、両手を広げて娘のハルに近づいた。
ハルはすでに起床していて、侍女や乳母と遊んでいたようだ。ふかふかの絨毯が敷かれた床の上で、ちょこんと座って積み木を積んでいる。
ハルは父と母を見ると、にこっと笑って片手をそちらに伸ばした。
「あう」
「ハルー! 今日も可愛いなぁ」
エドモンドはハルを抱きしめ、ぐりぐりと頬を擦り付ける。ハルは若干迷惑そうにしながらも大人しく父親からの愛を受け止めている。毎朝の恒例となっている光景だ。
そしてエドモンドが顔を離すと、今度はフレアがそっとハルの頬を撫でた。
「おはよう、ハル」
ハルは嬉しそうににこにこしながらフレアの手を触る。
「俺の時と、ハルの表情に差がありすぎない?」
エドモンドが言うと、フレアは「ふふふ」と控えめに笑った。
「ところで俺、一つ心配な事があるんだけどさ」
急に深刻な顔つきになると、エドモンドはこう続けた。
「ハルって、他の子と比べて全然お喋りしないよな? 年齢的にまだちゃんとした文章は喋れないかもしれないけど、『おはよう』とか、『父さま』『母さま』みたいな単語すら話さないし」
エドモンドは本気で心配している様子で、腕の中にいるハルを見ている。ハルはきょとんとして父親を見返していた。
「確かに、それは私も少し気になっていました」
夫婦は揃ってハルを見つめる。
しかしそこでサタケが口を挟んだ。
「エドモンド様は『他の子と比べて』とおっしゃいましたが、皇帝一族の血を継ぎ、かつ半分人間であるハル様と普通の竜人の子では、やはり成長の早さに違いがあるのではないでしょうか。例えば、ハル様はまだほとんど走らないですが、普通の竜人の子は二歳にもなると危なげなく駆け回るようになりますし、飛んだり跳ねたりして、動きは猿のようですよ」
「ああ、そうだ。そっちも心配なんだった」
エドモンドは思い出したように言う。
「ハルは立ち上がる事すらあまりしないんだよ。このくらいの子なら、親が目を離した一瞬の隙に、好奇心旺盛にあちこち移動しちゃうものじゃないのか? ハルは一度床や椅子に座らせたらそこから動かないんだ。……あ、そういえば泣く事もめったにしないし! 赤ん坊の頃からよくふにゃふにゃ笑ってたけど、夜泣きしたりぐずったりして周りの大人を困らせた事がない」
手がかからないけど心配だ! と頭を抱えるエドモンドに、今度はクロツキが声をかける。
「それほど心配されなくてもよいのでは? エドモンド様も幼い頃はそんな様子だったと記憶していますよ。私も当時はずっとエドモンド様のお側にいたわけではないので、はっきりとは分かりませんが。ねぇ、ナギサ」
「ええ」
ナギサはクロツキに向かって頷いた後、エドモンドを見て続けた。
「私もそのように思います。グオタオ将軍やサザ将軍、八賢竜たちなら、当時の事をよく覚えておられるのではないでしょうか」
「そうか! じゃあ皆に訊いてみよう!」
ぽんと手を打った後で、エドモンドは勢いよく指示を出した。
「会議だ! ハルの成長についての会議を開く! 至急、将軍たちと八賢竜を集めてくれ」
「わざわざ会議まで開かなくても……」
「心配なんだよ、ハルの事が」
「分かりましたよ、泣かないでください」
サタケは苦笑して言ったのだった。
こうして、禁城の一室で会議は開かれた。エドモンドは真剣な顔つきで、ハルを抱っこしたまま円卓に座る。緊急招集されたレオルザークとサイファン、四将軍と八賢竜もすでに着席していた。
「今回の議題は、ハルの成長についてだ」
重々しい口調でエドモンドが口火を切るが、次にはへにゃっと眉を下げて情けなく言う。
「……その前にちょっと、腕がしびれてきた。クロツキ」
エドモンドはハルをクロツキに渡す。ハルは親指をしゃぶりながらクロツキの腕の中に収まった。
ハルは全く人見知りをしないので、父や母から離されても泣き出す事はない。たとえ全く知らない竜人に抱っこされても、その竜人に身を預けるだろう。竜人は自分を害さないと分かっているのかもしれない。
「で、ハルについてなんだけど……」
エドモンドは娘についての心配事を皆に説明した。言葉を話さない事、歩いたり走ったりしないという事を。
するとやはり、八賢竜からはエドモンドもそうだったという発言があった。
「何も心配ありますまい。エドモンド様も四、五歳になった頃、急に色々と話し出されたのですよ」
「皇帝一族は、生まれてくる前は神々の一柱として天上にいたと考えられていますからな。地上に降りて、初めて肉体を得て、まだ喉の使い方が分からないのでしょう」
「天にいた頃は考えただけで相手に気持ちが伝わるものだから、声を出すという事に慣れないのだとも言われておりますよ」
「そうなのか?」
エドモンドは半信半疑といった様子だ。
けれど自分もそうだっという事を知って幾分安心したらしく、ホッとした表情を見せた。
「早くハルがお喋りする姿を見たいなぁ。『父さま』って可愛く呼んでもらうんだ」
希望を語りながら、クロツキに抱かれているハルを見上げる。ハルはクロツキの顔をぺたぺたと触っていた。
ハルは面食いなようで、美形の竜人に抱っこされるとじーっと顔を見たり、確認するように手で触ったりするのだ。
「じゃあ身体的な成長の方は? どうしてハルはあまり動かない? 足の筋肉が弱くて歩けないのか?」
「歩けないと言うより……」
将軍のサザが静かに指摘する。
「歩く必要がないから歩かないだけでしょう」
「歩く必要がないって?」
首を傾げるエドモンドに、今度はサイファンが説明した。
「ハル様はいつも誰かに抱かれていますから、自分の足を使う必要がないのですよ。行きたい方向を指差すだけで大人たちがその通りに動いてくれますし」
「なるほど……」
確かにハルは常に誰かに抱っこされている。座っている時ですら誰かの膝に乗っている事が多い。エドモンドやフレアは体力がないのでずっと抱っこしている事はできないが、竜騎士たちは一日中ハルを抱っこしていても平気らしいのだ。
本人たちもハルを抱っこしていると幸せなようで、ハルが眠ってしまっても、朝まで延々抱いている場合もある。
(ハルも、ベッドで寝かせるより抱かれてた方がよく眠るんだよなぁ)
エドモンドはそんな事を考えた。体温を感じて安心するのだろうか。最近ではベッドはもうほとんど使っていない。
クロツキたち紫の面々と、侍女や乳母たち、しょっちゅう様子を見に来る八賢竜とレオルザーク、サイファン、四将軍たちで、ハルを抱っこする権利を争っているくらいだ。
「珍しく抱っこされていない時でも、ハルはどこかへ移動したい時はじっと大人を見上げてくるもんな。そうすればすぐに抱き上げてもらえるって分かってるみたいだ」
腕を組んでエドモンドは頭を悩ませる。周りの大人を使う事を覚えたハルは、次期皇帝としては順調に育っていて頼もしい。
だが、このままでは足に筋力がつかずに本当に歩けなくなるのではないかと心配になる。
「よし、分かった。これからは皆、必要以上にハルを抱っこしないようにしよう! いいな? 過剰な抱っこは禁止だ!」
エドモンドがそう発言すると、周りから次々に狼狽の声が上がった。
「陛下、どうかそれだけは……」
しかしエドモンドは心を鬼にして首を横に振る。
「駄目だ。これはハルのためなんだ。俺も辛いし皆も辛いだろうが、どうか耐えてほしい。ハルに見つめられても、彼女が自分で立ち上がって歩き出すのを待つんだ」
「なんという試練だ!」
「我々には耐えられそうにありません」
どこかから大軍の敵が攻めてきて国が滅亡の危機に晒されたとしても、将軍たちや八賢竜はこんなふうに悲哀に満ちた顔をしないだろう。
嘆き悲しむ八賢竜といつも以上に険しい顔をするジン、目を見開いて凍りついているレオルザークや、「俺は絶対無理だわ」とこぼすラルネシオ、困ったように笑うサザ、そして今生の別れのように涙ながらにハルに手を伸ばすグオタオ。
会議室は混沌とした。
「とにかく皆、頑張ってくれ!」
エドモンドはそう言って、会議を終わらせたのだった。
エドモンドは子供部屋に戻ると、そこに紫の若手――クロナギとアナリア、オルガを呼びつけた。
三人が部屋に入ってくると、ハルは手に持っていた人形を放り出し、「あ」「あう!」と短く言いながらクロナギたちを指差す。
「そうだね、クロナギたちが来たね」
エドモンドは興奮する娘をなだめてから、並んで立っているクロナギたち三人に向かって言う。
「クロナギ、アナリア、オルガ。三人にはこれまで紫の見習いとして俺やフレア、ハルの護衛についてもらっていたけど、これからはハルの専属になってもらおうと思う」
エドモンドの言葉を聞いて、クロナギとアナリアは息をのんで目を輝かせた。オルガは満足気に笑っている。
「しばらくはクロツキやナギサ、サタケやタイガも交代でハルについてもらうけど、後々はクロナギに隊長になってもらうつもりだ。あと、しばらくしたら新人を一人入れるかもしれない。実力の有りそうな者が見つかったんだよな、クロツキ?」
そこでクロツキに話を振る。クロツキは呆れたように笑って言った。
「ええ、力試しで北の要塞に突っ込んだ馬鹿がいるのですが、ジン将軍によると実力は確かだという事です。けれど躾がなっていないようなので、これから私が教育します」
「だ、そうだ。クロナギ、アナリア、オルガ、ハルを頼んだぞ」
エドモンドが引き継いで、クロナギたちに言う。
三人はうやうやしく礼を取って、クロナギが「お任せください」と頷いた。
「嬉しい。ハル様」
そしてアナリアは顔を上げると、床に座っていたハルを抱き上げようとする。
以前はフレアに対して敵意を剥き出しにしていたアナリアだが、ハルが生まれてからは普段の表情もフレアに対する態度も随分柔らかくなった。
しかしエドモンドは、ハルを溺愛するアナリアの行動を制限しなくてはならなかった。
「待て、アナリア。これからは、必要な時以外はハルを抱っこしないようにしてくれ」
エドモンドは先ほどの会議で決まった内容をクロナギたちにも説明した。これもハルのためだと言うと、クロナギとアナリアは悲嘆に暮れながら渋々了承する。
「じゃあ、少し練習してみましょう」
フレアはそう言ってほほ笑むと、ハルから少し離れたところでしゃがんだ。
「ハル、こっちへおいで」
フレアが呼ぶと、ハルはそちらへ行きたそうな素振りを見せた。あうあう言いながらフレアの方に手を伸ばす。
「うー」
「頑張って、ハル!」
フレアがこちらに来てくれないと分かると、ハルは両手を床に着いてうんしょと立ち上がり、とてとてと絨毯の上を歩いた。危なっかしい足取りだが、ちゃんとフレアの元に到達する。
「おお! すごいぞハル!」
「ハルはやればできる子なんです」
フレアはにっこり笑って、ハルを抱きしめた。
「こんな感じで、クロナギたちも頑張ってくれ」
「はい……」
自分にできるだろうかと思っていそうな顔で、クロナギは不安げに頷いた。
そしてそれから一週間が経ったが、案の定、フレアとオルガ以外の面々は抱っこ禁止を守れなかった。エドモンドでさえ駄目だった。
ハルはフレアの事は弱い存在だと認識しているようで、あまり負担をかけないようにしているのか抱っこをねだる事はしないし、オルガの事は保護者というより遊び相手だと思っているらしく、オルガが呼べば自分から向かっていって、体によじ登るという遊びを始める。
けれどその他の大人には容赦をしない。容赦せず、甘えて頼ってくる。
「ハル様、おもちゃはこちらにありますよ」
たとえばクロナギがそう言ってハルをおもちゃ箱に誘導しようとしても、ハルは絨毯の上に座ったまま立ち上がらない。
おもちゃを持ってきてと言うように、あるいはそこまで抱っこして連れて行ってと言うように、緑金の瞳でじっとクロナギを見つめるのだ。
「ハル様、おもちゃはいらないのですか?」
クロナギが視線に耐えてねばると、ハルもねばる。
拗ねたようにその場でうつむきにころんと丸まって、親指を咥えながらちらりとクロナギを見る。
「ハル様……」
それでも放っておくと、ハルは今度は眉を垂らして悲しそうな顔をする。どうして意地悪するの? と訴えるみたいに。
そこで大体皆、陥落する。
ハルの望み通りにおもちゃを運んだり、抱っこしたりするのだ。ハルはさっきまでの悲しい顔はなんだったのかと思うほどあっさりとにこにこ笑う。
「全然駄目じゃねぇか」
クロナギとハルのやり取りを一部始終見ていたオルガが言う。
クロナギはハルを抱っこして、恨めしそうにオルガを睨んだ。
「うるさい。オルガはハル様のこの攻撃を受けた事がないだろう」
「お前らハルになめられてんだよ」
「それならお前は、ハル様に大きな遊具か何かだと思われてるな。毎回毎回よじ登られて」
「ハルの運動になっていいだろ」
二人がそんな話をしている間、ハルはクロナギの整った顔をぺたぺたと触っていた。
オルガはクロナギからハルを奪うとまた床に座らせ、今度はアナリアを見て言う。
「次、アナリアな」
「無理よ。私、もう諦めてるもの。何度やっても駄目だったし」
「ちょっとは頑張れよ。ハルのためだと思って」
オルガにそう言われて、アナリアはため息をつきながらハルから離れた。
そして「ハル様」と呼ぶ。
ハルは小首を傾げてアナリアを見つめる。
「ハル様」
もう一度呼ぶと、今度は反対側に首を傾げた。いつもそばに居てくれるアナリアが、何故自分から中途半端に離れたところにいるのか不思議に思っている様子で。
そして次にハルは、アナリアに向かって手を伸ばす。が、それは到底届かない。
ハルは動きを止めて、何か考えているようだった。
たっぷり十秒ほど間を取ると、今度は側にあった人形を持って、それをアナリアに見せるように掲げる。人形を見せたらアナリアが寄ってくると思っているみたいに。
アナリアは別に人形が好きなわけではなかったが、ハルが一生懸命考えたであろう作戦が可愛かったので、早々に降参してハルに近寄り、抱き上げた。
「私には無理だわ」
再度そう言って、ハルに頬を寄せる。ハルはアナリアの綺麗な顔をぺたぺた触った。クロナギ、クロツキ、アナリア、フレア辺りは、面食いなハルによく顔を触られている。
「もういいじゃない。ハル様はよくオルガや総長、将軍たちの体によじ登っているから、それで十分運動になるでしょう? だから私たちは抱っこしたって大丈夫よ」
「まぁ、言い出しっぺの陛下ももう諦めて普通に抱っこしてるからな」
こうしてハルをなるべく抱っこしないという計画は崩れたが、それから一年ほど経つと、ハルは急に自らの足で歩きたがるようになった。
体の大きな竜騎士の面々に日頃からよじ登っていたおかげで順調に筋力がついたらしく、危なっかしさもなくなったので、歩いたり走ったりするのが楽しくなったのかもしれない。
それまでは、ハルは自分でも歩くのが少し不安だったのだろう。転ぶかもしれない危険を冒すより、周りの大人に安全に運んでもらう方を選んでいたようだ。
そして言葉の方も、それからさらに一年ほどしてから急にぺらぺらと喋り出すようになった。
エドモンドは「ハルの初めての言葉は『とうさま』だといいなぁ」とにやにやしながら言っていたが、実際はきょろきょろとお気に入りの人形を探しながらこう言った。
「ハルさまのおにんぎょう、どこ?」
エドモンドやフレアはハルの事を「ハル」と呼び、クロナギたちは「ハル様」呼び、レオルザークたちは「小陛下」と呼ぶので、ハルも自分の事を話す時の一人称は「ハル」「ハルさま」「しょうへいか」とばらばらで、少し混乱しているようだった。
しかしそれ以外は、舌っ足らずながらちゃんと喋る事ができている。
「ハルさま、おかしがたべたいな」
食事の時には、ごはんを食べずにそんなふうにねだったりもできた。しかも自分のこの希望は却下される確率が高いと分かってもいたようで、クロナギに「ごはんの時はきちんとごはんを召し上がってください」と言われると、
「ざんねん」
と物分りよく言いながら、ごはんを食べさせてもらうために大人しく口を開けるのだ。
歩いたり走ったりできるようになっても、お喋りができるようになっても、まだ箸は上手く操れないハルなのだった。