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気が視えた俺と、守りたがりな彼女と、戻らない何か  作者: 白川


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1-6 師匠と呼ぶ日

 ――翌朝。

 目覚ましの音が現実へと俺を引き戻した。まぶたの裏に焼き付いた白い閃光と記憶にある痛みだけが、昨晩の惨劇を証明している。

 ゆっくりと身体を起こし、机の上へ視線を向けた。机の上に置いた古びた武術書が、昨夜よりも僅かに光沢を帯びている気がした。紙の質感は変わらないはずなのに、朝の光を受けて淡く輝いて見える。


「……気のせいか?」


 胸の奥がざわついたまま、制服に袖を通す。

 冬の空気が容赦なく肌を刺した。見慣れた通学路。だが昨日までと違って見える。

 電柱の影が妙に長く伸び、道端の雑草がざわめき、まるで世界が息を潜めて俺を観察しているかのようだった。

 校門をくぐっても、違和感は消えない。クラスの喧騒は、薄い膜の向こうから聞こえる幻のようだった。


「おい翔太!昨日の配信、最後まで観たか?あのラスボスさ…」


 クラスメイトの青木大地がいつもの調子で肩を突いてくる。

 その軽さに少しだけ救われる。


「いや……ごめん。昨日は」

「またかよ。最近のお前、ずっと上の空っていうか……大丈夫か?」

「……眠れなくて。ちょっと変な夢ばっかり」

「夢?どんな?」

「説明しづらいけど。誰かに呼ばれてる感じの、悪夢なのかな?」

「ふーん。そういうの、ストレスのサインだったりするらしいぞ?」


 一瞬、胸が軽くなる。心配されることも、寄りかかれる相手がいることも、最近忘れていた気がした。適当についた嘘に少し胸が痛んだ。

 大地はいつもの軽いノリに戻り、翔太の肩をポンと叩く。


「早退とかしたいときは言えよ?先生には俺がうまく言っとくから。な?」

「ありがとう。でも大丈夫」

「なら良かった。放課後サッカー、枠空いてるんだ。来れたら来いよ」

「ああ。ありがとう、わかった。」


 放課後、昇降口。帰り支度をしているとスマホが震えた。画面には『藤堂紗季』の文字。


 紗季: 今日、少し話せない? おじいちゃんとじゃなくて、私と。心配してるの。

 翔太: 悪い。用事がある。

 紗季: 何か隠してるよね。一人で抱え込んでない?無茶だけはしないでよ。


 紗季が俺を気にかけているのは分かっている。昔から周囲の変化に気付いてしまう人だった。だから余計に距離を置いてしまう。

 その優しさに頼れば、どんどん楽な方に流されて、自力で立つ意地を失ってしまう気がした。「大丈夫」と口に出してスマホの画面を伏せる。


 商店街を抜け家に着く。

 夕飯時、父や母の心配そうな視線を感じたが「疲れた」の一言で押し通す。

 家族の「どうした?」という視線から逃げるように階段を上がった。

 部屋に戻ると武術書が静かに俺を待っていた。夜の闇の中その存在感だけが異様に濃い。


「やるなら今だ」


 恐怖はないと言えば嘘になる。昨夜のあの身体を引き裂かれるような痛みは、今思い出しても冷や汗が噴き出す。だが、恐怖よりも力の可能性への期待が勝っていた。

 布団に潜り意識を沈める。武術書の呼吸法。吸う、吐く。そのリズムと共に、肉体から意識が離れていく気がした。暗闇が近づき、現実の部屋と夢の境界線が静かに溶けていった。


 ――目を開けると、再びあの夢の家屋の部屋に立っていた。今夜は昨日よりも感覚が鋭敏だ。畳の冷たさ、古い木の匂い、そして周囲の空間を満たす濃密な「気」の圧力。全身の細胞がそれを感じ取っている。


「姿勢が悪い。背を真っすぐに」


 背後から澄んだ声がした。振り返ると、彼女――武術書に記載された流派の開祖を名乗る女が立っていた。銀色がかった長い髪が、行灯の柔らかな灯りに照らされて淡く揺れる。今日もまた、古風な着流し姿だ。その立ち姿には、昨日にはなかった重厚な威圧感があった。彼女は片手で着物の裾を軽く払うと、まっすぐにこちらへ歩み寄る。


「来たね。よくぞ、生きて目を覚ました」

「……当たり前だ。死んでたまるか」


 精一杯の虚勢を張る。

 彼女はふふ、と笑い、俺の襟元についた埃を指先で払った。


「そうかい。その意地は気に入ってるよ。さあ外に行くよ。今日から本格的な稽古だ」


 彼女は袖を翻し縁側へ向かう。俺も後に続いた。小さな中庭。苔むした石畳に月光が差し込み影を濃く落としている。風は凪いでいるが妙に肌寒い。


「わが流派は名を天衝流てんしょうりゅうと言う。その名が示す通り、天を突き、理不尽を打ち破るための術だ」


 彼女は庭の中央に立つと静かに目を閉じた。その瞬間、周囲の空気が一変する。竹林がざわつき、庭の草木が彼女を中心に震え始めた。ただ立っているだけなのに、彼女の周囲の空間だけがまるでブラックホールのように周囲の空気を吸い込んでいるように見える。


「気の、集中……?」

「そうだ。あんたが武術書で学んだ呼吸法は、その気の源を開く鍵にすぎない。ここからはその『気』を意志の力で形にし、操る術を学ぶ」


 彼女の体が陽炎のようにゆらゆらと揺れる。高密度のエネルギーが体表を這っているのだろうか。その圧に俺の肌がピリピリと痛み出す。


「第一の技、『裂刃れつじん』を教える。気を一点に集め、放ち、切り裂く技だ」


 彼女はゆっくりと、まるで演舞のように優雅に手刀を振るう。次の瞬間、庭に鎮座していた人の背丈ほどの石灯籠が、何の音もなく斜めに削り取られた。

 まるで熱したバターをナイフで切ったようだ。切り口は鏡のように滑らかで、その奇妙な切断面は月光を反射して青白く光っている。


「……ッッ!!」


 言葉が、乾いた喉に張り付いて出てこない。次元が違う力だ。これが天衝流の極意の一端。


「どうだい、これが入門技にして極意の一端さ。この技の理は簡単。気とは意志の延長だ。硬い石を切り裂きたいと強く願えば、その形を刃となる。だがあんたはまだ、その意志を指先まで通す回路ができていない」


 彼女は涼しい顔で振り返り、木刀を取り出すと一つを俺へ放った。慌てて受け止める。冷たい木の感触が手に伝わる。


「さあ、かかっておいで」


 挑発的な笑み。負けるとわかっているがその力を見せつけられた今、逃げることなどできない。この力を俺は手に入れてやるんだ。


「行くぞ……!」


 地面を蹴り全力で踏み込む。木刀を両手で握りしめ、頭上から叩きつけた瞬間――。


「遅い」


 声と、衝撃が、同時に襲ってきた。視界が揺れた。木刀は手から離れ、宙を舞う。

 俺は土の上に叩きつけるように転がっていた。全身が痺れている。


「くっ……何が、起きた……」

「何って、あんたが倒されただけさ」


 彼女は呆れたように笑う。彼女は微動だにせず、ただ、その場に立っているだけだったのに。


「手首の力に頼ってる。肩も余分な力が入ってる。腰も入っていない。」


 屈辱。平均以上の体力があると自負していた。だが彼女の前に立つと、まるで三歳の子供が立ち向かっているようだ。


「ほら、構え直して」


 俺は立ち上がった。泥と砂埃を払い、木刀を拾い上げる。

 何度も打ち込み、何度も倒された。木刀を持つ手は皮が破れ血が滲んでいる。息は荒れ汗が視界を遮る。

 何合目の打ち合いだっただろうか。彼女の木刀の先がぴたりと俺の喉元を捉える。


「なあ……才能あるって、言ったよな」


 息切れの中、弱々しい声が出た。


「言ったさ。だから鍛えてるんだろう?」

「これが……才能か? まるで、歯が立たないじゃないか」

「才能がある奴ほど、最初に挫けるか、自惚れて努力を怠るんだ。あんたは前者さ」


 俺の目を真っ直ぐに見つめると、彼女は一歩踏み出し、俺の胸に指先を当てる。


「強者と対峙した時、自分が弱いことを知ってしまうから諦める。自分に見切りをつけるんだ。だが、いいかい、翔太」

「……」

「弱さを知る者しか本当の強さには辿り着けない。そういうもんだよ。あんたが今感じている絶望こそが才能の証明だ」


 彼女の声は冷たかったが、その指先から伝わる温もりは優しかった。

 悔しさ、絶望、そして期待。その三つの感情が渦となって胸の奥で暴れ回る。


「……もう一度だ!」


 俺は顔を上げ、泥に塗れた笑顔を浮かべる。その言葉に彼女は満足気に頷いた。

 その晩、俺は何百回と打ち込みを続けた。

 最後の一撃。全身の力を木刀に乗せ振り抜いた。紙一重のところで俺の木刀が彼女の着物の袖を僅かにかすった。


「よし」


 彼女が満足そうに初めてそう言った。

 俺の木刀が彼女に触れたのはこれ一回きり。全身の筋肉は限界を超え、木刀を持つ手は意思とは関係なくガタガタと震えている。


「今日はここまで」

 彼女は空を見上げた。現実よりも大きく、近く、満月が浮かんでいた。


「次からは、いよいよ『気』の流れを教えてやる。今のあんたの体は、蛇口が詰まっているようなものだ。いくら水を送っても、肝心なところに届かない」


 まだ息が荒いままの俺をちらりと見て、彼女は口元を緩めた。


「で、なんで最初からそれを教えないのかって顔だね」

「……まあ、少しは」

「身体に無駄な力が入ってると気は素直に流れない。細い道を岩で塞ぐみたいになる。

 まずは余計な力を追い出す。筋肉で踏ん張らないで骨で立つ。そういう身体の使い方を知らないと、気は通れない道を無理に通ろうとして暴れるんだ」


 彼女は縁側へ腰を下ろし隣を軽く叩く。促されるまま隣に座る。


「それでも質問するんだろう?“気は本当に見えるのか”って」


 図星を刺され言葉に詰まる。

 彼女は面白そうに笑う。


「さっきまで散々打ち倒したのはね、気の流れを整えるため――だけじゃない。どれだけしぶといか。どこで諦めるか。身体の使い方、呼吸、反応……踏み込みの角度、視線の揺れなんかをね。

 あんたにはちゃんと“光るモノ”がある」


「……評価してくれてんの?」

「当たり前だろう?鍛える価値のない奴に、私が時間を使うわけない」

 だから今日は、あんたの腕前を確かめた。――結果は合格。気を教える準備が整ったってわけだ」


 その声には揺るぎない確信が宿っていた。

 彼女は浅く頷くと、そっと俺の手を握った。冷たい掌だ。


「見えるようになるさ。感じるじゃなく──視る。世界を満たすエネルギー。それが視えた時あんたの世界は別物になる」


 次の瞬間、氷と炎が同時に走るような感覚。指先から腕、胸、喉、目の奥へ――電撃じみた奔流が突き抜け呼吸が止まる。


「っ……!」


 思わず息を呑む。視界の中で細い青白い線が走った。空間そのものに回路が浮き上がったように。少しして消える。だが――確かにあった。


「今のが気。わかった?」

「あ……ああ……」

「あんたにも出来る。今はただ眠ってるだけだ」


 彼女はそう言い切って、俺の手を離した。

 その瞳は満月の光を映しながら、凛と俺を射抜いていた。


「すぐにできるようになる。回路は開いた。あとは自分の意識で気を流し続けるだけだ。

 ……今日は終わり。身体はもう限界。不眠不休で修行続けられると思ってるなら、考え直しな」


 立ち去ろうとする彼女を、俺は慌てて呼び止めた。


「あの、綾乃……あんた……いや、綾乃さん」


 自分でも気付かぬうちに、言い直していた。

 俺は、膝をつき、頭を下げた。自然とそうしたくなった。


「師匠……今日の稽古、ありがとうございました」


 口に出すと胸の奥に熱が灯る気がした。

 綾乃は一瞬ぽかんとした顔をした後、小さな子供のように吹き出した。


「へぇ……礼なんて言えるんだ。意外と可愛い――礼儀正しいじゃないか」

「普通だって。俺、これでも育ちいいからな」


 俺は疲労困憊の体で、精一杯の強がりを言った。


「素直な子は好きだよ」


 綾乃の瞳が、少しだけ優しくなる。その目に救われた気がした。


「じゃあ次も頼むよ。あんたが本当に強くなるまで手は抜かないからね」


 俺は小さく頷いた。綾乃が目の前まで来る。そして悪戯っぽく笑い、人差し指で俺の額を軽く弾いた。


「っ……!」


 痛みよりも、不思議な温もりが額から広がり、同時に体は急速に重くなり、意識が沈んでいく。遠くで綾乃が支えてくれるのを感じた。


「おやすみ。いい夢を」


 最後に見えたのは、綾乃の勝利を確信したかのようないたずらっぽい笑顔だった。

 闇が押し寄せ、眠りがすべてを包み込んだ。

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