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気が視えた俺と、守りたがりな彼女と、戻らない何か  作者: 白川


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1-7 無為より生まれる刃

 けたたましい目覚ましの音が現実へと俺を引き戻した。まぶたの裏には月の光の下で揺れる銀色の髪と、青白い電気が走ったような光景。それに全身の奥から感じる痛み。あれは夢なんかじゃない。


(回路が開いた証拠……成長痛、ってことか?)


 俺はゆっくりと身体を起こし、制服に袖を通す。

 通学路は昨日と変わらず見慣れた風景だが、今日はいつもと違って見える。

 足を踏み出すたびに地面がわずかに沈むような感覚が、風は吹いていないのに耳鳴りが、遠くの人の声が妙に遅れて届く……。

 見慣れた景色が「現実」ではなく、舞台の書き割りのように薄っぺらく感じられる。


(昨日、気を“視た”から?……いや、それだけじゃない。俺の世界そのものが変わり始めている?)


 教室に入ると、クラスメイトの笑い声が波のように押し寄せてきた。だがその音はどこか水中で響いているように曇っていた。 昨日までと同じ日常のはずなのに。胸の奥がざわつき足取りは落ち着かない。 学校が終わると足早に帰宅した。そして夜、意識は現実から解き放たれ、再びあの古い家屋の畳の上に立つと、昨晩の過酷な稽古の記憶が、全身の筋肉の奥に熱い残滓のように燻っていた。


「やあ、お目覚めかい。随分と気合が入った顔だね」


 声の主は既に縁側に腰を下ろしていた。綾乃だ。銀色の髪を夜風に揺らし庭を静かに見つめている。その姿はまるで悠久の時を生きる神仙のようで、背中から漂う気配に思わず息を呑んだ。


「現実に戻ると世界が少し歪んで見えたんだ。人の声も遠く感じる。……これって大丈夫なのか?」

「どちらも本当さ。あんたの目は普通の人には見えない“裏側”が透けて見えるようになったんだよ」

「裏側……」


 俺は思わず呟いた。 綾乃は振り返り黒い瞳でまっすぐ射抜く。


「日常が薄く見えるのは、世界に満ちる気を拾って認識している証拠だ。怖がる必要はない。むしろ、それを感じられることが生き残る鍵になる」


 胸の奥がざわついた。現実での違和感はただの疲労や幻覚じゃなかった。俺が“視えてしまった”からこそ世界が二重に見えるのだ。


「つまり……俺はもう、普通の生活には戻れないってことか」

「戻るかどうかはあんた次第だよ。ただし、視えてしまった者は選ばざるを得ない。見えないふりをして生きるか、見える世界を受け入れて戦うか。どちらも痛みを伴う選択だ」


 綾乃の声は冷たくも優しかった。 俺は拳を握りしめる。恐怖はある。だが、それ以上に胸の奥で燃えるものがあった。


「……俺は、戦う方を選ぶ」


 綾乃はふっと笑みを浮かべ、銀髪を夜風に揺らした。


「いい答えだ。なら今日からは“気を流す”稽古に入ろう。昨日は回路を開いた。今日はその回路にあんた自身の意志で気を通す。世界の裏側を歩く者としての第一歩だ」

「俺の、意志で」

「そうだ。自分自身が強くなければ生き残ることはできない。本人の切実な意思こそが『気』を強くする」


 綾乃は一歩踏み出し、庭を静かに見つめた。


「さて。まずは、『無為の構え』を完成させよう」

「無為の構え……?」

「そうだ。気を使うために最も効率の良い立ち方。体勢を骨と重力に預けるんだ」


 綾乃は俺の背に手を添え、姿勢を正すように軽く押した。 その瞬間、布越しに伝わる指先の感触に心臓が跳ねる。耳元で囁かれる声が近すぎて稽古だと分かっていても頬が熱くなる。


「力を抜いて。骨に預けるんだ」


 銀髪が夜風に揺れ頬にかかるほど近い距離。思わず視線を逸らす。


(近い……近すぎる……!集中しろ。ここで意識を逸らしたら、何も掴めない)

「どうだい。気を感じやすくなっただろう?」


 稽古の場なのに、女性に触れられているという事実に呼吸が乱れる。至近距離で浮かぶ笑顔に涼やかな瞳。胸の奥がざわついた。


(……これは稽古だ。集中しろ。ここで意識を逸らしたら、何も掴めない)


 自分を叱咤すると、深く息を吸い、全身の力を抜く。膝が抜け支えは骨と重力だけ。ふっと身体が軽くなると――庭の景色が揺らぎ、光の粒が舞い始めた。竹は緑の脈を打ち、石灯籠からは赤い焔のような気が立ち昇る。


「……これが……」


 そうして綾乃を見ると、彼女から淀みなく流れる青白い気流が見える。その完璧な流れに見惚れていると――綾乃は「視えたようだね」と頷き、俺の右手を取った。


「さあ。誰にも負けない刃を。指先に意志を、細く尖らせて」


「……はい」


 目を閉じ、意識を丹田から指先へと送り込む。

 しかし――


(……くそ、立ってるだけで精一杯だ……!)


 尖らせようにも、姿勢が崩れれば、視界は濁り光は霧散する。姿勢を維持するだけで精一杯で、指先に集めた気を自分で振り下ろす力は残っていなかった。腕は震え意識が散りそうになる。


「まだ一人では難しいね。呼吸を合わせて。私が導く」


 綾乃は身体を支えながらゆっくりと導いた。まるで幼い子供が包丁の使い方を親に教わるように、彼女は俺の腕に手を添えて動かす。俺の右腕がやさしく導かれる。

 彼女の体温が近く吐息が頬に触れるほどの距離。集中しているはずなのに、ふとその近さに気づいた瞬間、胸が大きく跳ねた。焦りと恥ずかしさが一瞬意識を乱す。

 しかし意識を散らしてしまった事実は敗北感となり俺を襲った。それは恥ずかしさを上回り、再び集中し、気を指先へと流す。

 白い光がふわりと伸び、彼女に導かれた手が畳をなぞるように振り下ろすと、針先ほどの焦げ跡が残った。漂う煙はまだ頼りない。


「まだ線香花火。でも最初にしては上出来だ」

「……今の、俺が?」

「そう。私は気を導いただけ。あんたが自分自身の力で気を刃に変えたんだ。大丈夫。慣れれば一人で振るえる」


 綾乃は満足げに微笑む。その表情が――秒針の音より鮮明に胸を打つ。

 支えてくれていた手が離れた瞬間、急に冷え込んだ気がして肌寒さを覚えた。俺の心臓だけがまだ熱い。

 確かに、全身を流れる何かが鮮明になった。だが同時に俺は眉をひそめる。


「……でも、これじゃまるで瞑想だ。戦うどころか立っているだけで隙だらけじゃないか」

「いい疑問だね。翔太。それこそがあんたが抱えている矛盾を解決する鍵なんだ。天衝流の技は無為から有為へ至る術。今あんたがやった『無為の構え』はゼロの状態。ここからプラスを生み出すのが基礎であり、同時に奥義でもある」


 彼女は庭の石灯籠に視線を移し、指先で夜気を掬うように動かした。


「力みは気の流れを阻害する。だが回路が太く、頑強であれば、外に散らず留めることができる。……その様は、川の流れを堰き止める岩に似ている。塞がれていた川の口が開けば、溜め込まれた水は怒涛のように流れ落ちる。気も同じだ。抑え込まれた力が解放される瞬間、最も鋭い刃となる」


 俺はその言葉に息を呑んだ。瞑想のように見えた構えが、実は「力を溜めるためのゼロ地点」だと理解した瞬間胸の奥で熱が広がった。


「その抑え込んだ力を解き放つ一瞬。それを、天衝流では『全衝ぜんしょう』と呼ぶ」


 綾乃はそう言い切ると、「見てな」とだけ告げた。

 彼女は再び完璧な無為の構えをとる。その姿はまるで風に揺らぐ葦のようだが、その内側には、見えない青白い気が渦巻いているのが視えた。

 綾乃は自然体のまま庭へと足を進める。そして、刹那。一歩踏み込み、手刀を振るった。その瞬間、彼女の身体から青白い光の渦が爆発的に噴出し、手刀の先端に収束する。庭に鎮座していた石灯籠の影に、一筋の光の線が走った。石灯籠の上部が、何の抵抗もなく滑らかに滑り落ち、鈍い音を立てて転がった。その切り口は磨かれた鏡のようであった。


「ッ……これが、全衝……」


 綾乃は再び、何も力んでいない無為の構えに戻っていた。呼吸すら乱れていない。


「回路に澱みがないからこそ、瞬間的な圧縮が気の速度を極限まで高める。だが全衝は諸刃の剣だ。回路が十分に育っていなければ、溜めた気は堰を突き破り溢れる。氾濫した気の奔流はあんた自身を焼き尽くす。その痛みは精神を狂わせるだろう」

「……はい」


 俺は冷たい汗をかいた。


「それって、つまり力の込め方をミスしたら、堰が決壊して俺自身を傷つけるってことですか?」

「その通り。それが『気の暴走』だ。

 無為で回路を育て全衝で爆発させる。この二律背反を極めるのが天衝流の理だ」


 俺は、恐怖と力の可能性への興奮を同時に感じていた。

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