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ティノジア  作者: 野良丸
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魔王


 以前と変わらない暗い空、赤い月、枯れた大地、そして悪魔の一体もいない魔界を進んできた人間軍二十四名の前に、黒壁の城が見えてきた。周辺の地面に残されたフェリシタとの戦いの痕を横目に見ながら城門を前にした時、

『いらっしゃい、人間軍の皆さん』

 空に響いた声に、隊員達は素早く反応して戦闘態勢に入る。

 だが、魔王は「あはは」と笑い声を上げると、

『大丈夫。そこで戦う気はないよ。迎えをよこしたから、僕のところまでおいで。そこで戦おう。……一人欠けてるのは少し残念だけど。今の時代の大司祭様はお優しいんだね』

 茶化すように言ってから、『それじゃ、また後で』と、声が止んだ。それと同時に、十メートルはありそうなほど巨大な門が地響きと砂埃とともに外へと両側に開く。

 砂埃の向こうに小さな影が見えた瞬間、隊員達の武器を握る手に力が籠もるが、

「……子供?」

 先頭に立っているガイアが大剣を身体の前に構えたまま眉間に皺を寄せて小さく呟いた言葉に、少なからず困惑の表情を浮かべる。

 彼女の言葉通り、そこに立っていたのは四、五歳ほどの子供だった。外見だけでは性別が分からない中性的な顔立ちは、フェリシタを連想させる。

 子供は人間軍を見て無邪気な笑みを浮かべると、右手を前に出して手招きをした。

 人間軍が戸惑う中、ティアが無表情のまま口を開く。

「あの子供、天命がありません」

 その言葉に、周囲にいた者は驚いた表情をティアに向ける。

「ですので、少なくともティノジア人ではないことは確定ですが……」

 そもそも人なのか。という言葉を飲み込む。笑顔のままずっと手招きを繰り返す子供の姿は、普通の人間とはどこか違って見えた。

 罠がある可能性は高い。だが、それは元より覚悟の上だ。

 ガイアはコウタと顔を見合わせ互いに頷くと、ゆっくりと進軍を始める。

 それを見て、前に出していた手を下ろし、後ろ手を組んで身体を左右に揺らしながら人間軍を待っていた子供は、先頭のガイアとコウタが城に入ると、手を前に回して勢いよく頭を下げた。

 いらっしゃいませ、という声が聞こえそうなほど元気な笑みを浮かべて顔を上げた子供は、踵を返すと、一度振り向いてから歩き出した。

 城内は外壁同様、黒を基調とした内装になっている。外が薄暗いため、灯りも点っていない城内は暗闇に包まれているように思えるが、実際は外と変わらない程度の薄暗さだ。

 時折振り返りながら、広い階段、廊下を進んでいく子供の背中に付いていく途中、数名の人間とすれ違う。私服姿の男性もいれば鎧を身に着けている女性、ローブを羽織っている少女などがいる。中には、背筋をピンと伸ばして紅茶のポットとカップが乗ったトレイを運ぶ女中もいた。

 隊員達に向かって頭を深々と下げる女中を見ながら、今回も同行している三人の神官のうち一人が、ティアの耳元で呟く。

「大司祭様、この方達は……」

「はい。あの子と同じで天命が見えません」

「魔王によって蘇った者達なのでしょうか」

「違うと思います。フェリシタの天命は確認出来ましたので」

 ティアは首を横に振って言いながら、隊員の隙間から子供に目を向ける。

その後ろ姿を何度見ても、天命が浮かんでくることはない。悪魔と化したフェリシタや、あの魔王ですらうっすらと天命は残っていたというのに。

 そんなティアの目とは別に、子供の後頭部に注がれる視線の中にはコウタのものもあった。

 髪色こそ違うものの、フェリシタと同じ癖っ毛の短髪を見ると、ふと、旋毛の左右が部分的に盛り上がっていることに気付く。

 たんこぶ……じゃあないよな。なんだろう? と不思議に思い、まじまじと眺めていると、隣から視線を感じた。そちらに顔を向けると、ガイアが若干引き気味の表情でコウタを見ている。

「……もしかしてコウタってロリコ――」

「違うよ」

「だって、地球にいる彼女も小さくて可愛い人なんでしょ?」

「シアさんから聞いたの? まぁ確かに間違ってはないけど……一応向こうが年上だしさ」

「あぁ、そういえば、ヨウが合法ロリだのどうだの……」

「それはヨウに聞いたのが間違いだったね」

 人の彼女を合法ロリ呼ばわりした罰として地球に帰ったらヨウには何か奢ってもらおう、と心に決めながら、コウタは子供の後頭部をそっと指差す。

 それだけで言いたいことが分かったらしく、ガイアは首を傾げると、

「なにこれ? どこかぶつけたの?」

 と、手を伸ばして頭に触れた瞬間、子供は肩を跳ね上げると、両手で突起部分を隠して二人を振り返った。

 過剰ともいえる反応に、二人が目を丸くして驚くと、子供は頭を隠したまま一歩下がって不安そうな表情を浮かべる。

 そんな様子を見たガイアが、

「えっと、ごめん」と謝ると、子供は首を横に振り、両手を頭からそっと離して歩き出した。

 悪いことしたかしら、とガイアは指先で頬を掻く。頭や髪は人に触られたくない場所ではあるし。

 長い廊下を進み、更に階段を上がると、隊員達の前に巨大な扉が現る。木製のようだが、それでも子供には重いだろう、とガイアが一歩前に出た時、門同様、扉がひとりでに開いた。隊員達は息を呑み、それぞれが緊張の面持ちで、ゆっくりと開く扉を見ている。

 廊下はもちろん、玄関フロアよりも広い空間がそこには広がっていた。黒く光沢のある壁には等間隔でランプが掛けられており、その内部では白い炎が揺らぐことなく辺りを照らしている。

「お疲れ、エイミ」

 その奥、小さな木の丸椅子に座っていた白衣姿の魔王が、駆け寄ってきた子供、エイミに反応して笑顔を向けた。

「案内ありがとう」

 頭を撫でられてエイミはくすぐったそうに笑うと、照れた様子で頷いた。

「じゃあエイミ、これを部屋の外に運んどいてくれるかい? それが終わったらユニナのところに戻っていいよ」

 椅子を指差す魔王にエイミは頷くと、両手で椅子を頭の上に持ち上げると、そのまま駆け足で部屋を出て行った。

 遠ざかるエイミの足音と扉の閉まる音を背中で聞きながら、隊員達は魔王を睨みつける。

「……玉座にでも座ってるものかと思ってたわ」

 ガイアの言葉に、魔王は小さく笑った。

「僕は王様になりたいわけじゃないからね。ここだって、千年前にたくさんの悪魔が暮らせるように作ったらお城みたいになっちゃっただけだしさ」

「……今は悪魔じゃなくて人と暮らしてるようだけど、どういうこと? 人を滅ぼすのが、あんたの目的でしょ?」

 その問いに、魔王は「んん?」と片眉を上げてから、「あぁ」と納得するような表情をした。

「記録じゃあ、そういうことになってるのか」

「……違うっての?」

「いや、まぁそうだね。人を滅ぼすことが目的じゃないけど、目的を達するために人を滅ぼす必要はあるし」

 思わせぶりな言葉にガイアが眉間に皺を寄せると、魔王は喉を鳴らして笑う。

「別に焦らしてるつもりはないよ。ただ、話しても無駄だから話さないだけさ。目的がなんであれ、僕が人を滅ぼすというのなら君達は止めるだろう?」

 薄く笑いながら言う魔王に、隊員達の間に緊張が高まる。戦いが始まる空気を、誰もが感じ取っていた。

「さぁ始めようか。君達が勝てば、ティノジア、地球の民は助かる。僕が勝てば、二つの星の生物は滅びる」

 魔王が両腕を広げると、その手にはそれぞれ赤と青の炎が揺らめいていた。

 豪炎と氷炎、とティアが気付き、口にする前に、魔王の声が響いた。

「それじゃあスタートだ」

 言葉と同時に振るわれた両腕から、豪炎と氷炎が龍のようにうねりながら隊員達に襲いかかる。

 先頭に立っていた前衛達が跳んで避けると同時に、魔法使い達が一斉に障壁を展開した。淡く虹色に光る障壁により、二色の炎が防がれ、辺りに弾け飛んだのを見て、魔王は口元に笑みを浮かべる。

「やっぱりここらヘんの対策は万全かぁ」

 呟きながら斜め上に顔を向けて、四方から飛びかかってくる四名を確認し、身体を包むように展開した障壁により、それぞれの攻撃を完全に防いだ。

 すぐさま飛び退いた四名に代わるかたちで更なる攻撃が迫る。コウタ、ガイア、ニコール、ダズバールを見て、魔王は苦笑を浮かべた。

「流石に障壁だけじゃ無理かな」

 その言葉を言い終えるが早いか、ガイアの振り下ろしが障壁にヒビを入れ、巨大化した魔剣がそれを砕いた。

 更にハンマーを横に構えたダズバールを見て、魔王は「うわ」と嫌そうな顔をする。

 今から障壁を張り直したところで、あの武器相手では容易く砕かれるだけだろう。そして、そこを双剣士達が素早く攻めるというわけか。普通の悪魔じゃあ対応しきれないだろうなぁ。

 魔王は愉快げに笑うと、握り締めた右拳に視認できるほどの魔力を集中させて、ダズバールのハンマーを迎撃するように振りかぶって突き出した。

 鋼鉄製の鎚と素手の激突。それによって、ダズバールの後方にハンマーは吹き飛んだ。

 目を見開き、一瞬動きを止めたのはダズバールのみ。魔王は当然というように、ニコール、コウタ、ガイアの三人も、予想はしていたのか動揺することなく追撃に移っている。

 ニコールの目にも止まらぬ連撃を全て紙一重で避ける魔王の右手に青い炎が灯った時、ガイアが横から切りかかった。

 魔王はそれを大きく横に跳んで避け、宙に浮いたまま二人に向けて右手を開く。

 掌から氷炎が出現すると同時に、魔王の背後にティアが現れた。彼女の右手には、人の頭ほど大きな黄色い球体が浮いている。

 バチバチと何かが弾けるような音に振り返った魔王は、球体を胸の前に持ってきたティアを見て顔をひきつらせる。

「……最初から全力――」

 言葉を待つこともせず、球体から数本の巨大な雷が姿を現し、上下左右から魔王に襲いかかる。魔王は宙を蹴ると、更に上へと避けるが、数本の雷はそれを追うように進路を変えた。

「しかも追尾か」

 障壁を展開しながら呟いた魔王の目が大きく見開く。複数の雷の向こうに、赤、青、黄、緑の魔法球体を身体の周りに浮かせたティアの姿が見えたためだ。

 ……ここまで本気でこられると、人間のままじゃ辛いな。

 表情から笑みが無くなった瞬間、背後から風を切る音が聞こえて魔王は反射的に振り返る。そこにいたのは、ハンマーを横に構えたダズバールと、その背中に掴まっているノゾミだった。

 前方からは大槌、背後からは雷。全方向に障壁を展開したところで、前後からの攻撃によって破壊されたところをティアに狙われるだけだろう。

 魔王は小さく舌打ちをすると、鎚を寸でまで引き付けたところで転移魔法を使った。移動先は、雷の向こうにいるティアの更に背後。雷の追尾性能を考えると、真後ろに移動するしかない。

 転移を終えると同時に、魔王の表情に緊張が走った。前方にあるはずの、ティアの背中がない。

 誘われた。そう気付いた魔王の背後で、四色の球体が眩い光を発した。




「ヨウ」

 その声に陽は振り返ると、久し振りに見る快活な笑みがそこにはあった。

「……アカネ」

 制服姿のアカネが笑みを深める。いつの間にか片桐家の居間に詩亜や親戚の姿はなくなっており、そして、陽の服装も学生服ではなく黒いローブに変わっていた。

「ってことは、これ夢か」

「あはは。ヨウはこんな時まで現実的だねー。『夢の中で会いに来てくれたのか』なんて反応を期待したのに」

 可笑しそうに笑うアカネに、ヨウも笑い返す。

「俺がそんなこと言うわけねーだろ。ま、何にせよ会えたのは嬉しいけどさ」

 その言葉に、アカネはキョトンと目を丸くしてから、照れを隠すように笑う。

「今日は素直だねー」

「まぁ、夢の中だからな」

「そっか」

 アカネは指先で頬を掻きながら言うと、片桐家をゆっくりと見回した。

 先程までの出来事を見られていたのだろうか、と考えるヨウに、アカネは優しい笑みを向ける。

「ここは確かに夢の中だけど、さっきまでのことはヨウの記憶なんだよね?」

「……あぁ」とヨウが頷くと、アカネも少し間を置いてから頷き返した。

「なら、やっぱりヨウは目を覚まさないと」

 そう言って距離を詰めると、両手を伸ばしてヨウの頬を包むように触れた。

 ヨウは一瞬怯む様子を見せながらも身体から力を抜くように動きを止める。

「……手、冷たいかと思った」

「暖かいでしょ。私血行良いから」

 歯を見せて笑うアカネだったが、左手にヨウの右手が重なると、「わ」と言葉を漏らして微かに頬を紅潮させた。

 驚いた様子で二度ほど瞼を開閉させるアカネに対して、ヨウは俯き気味に口を開く。

「お前、本当に死んだのか?」

 その問いに、アカネは一瞬だけ目を大きく開いてから、無言のまま優しく笑い、ヨウもまた、顔を上げると少し無理のある笑みを作った。

「あんな終わり方だったから、たまに考えちまうんだ。もしかしたら地球に戻っただけかもしれない、とか、次の勇者が生まれたら、とか」

 吐き出すような言葉に、アカネは黙ったまま頷き、相槌を打つ。何も言わないのは、ヨウの中で答えが出ていることに気付いているからだろう。そして、それは当然、ヨウ自身も分かっていることだ。

「……今のナシな」

 小さく呟いたヨウに、アカネは微笑んだまま頷く。

 ヨウは俯き小さく息を吐くと、顔を上げてアカネを真っ直ぐに見た。

「笑えないのが辛いってアカネは言ってたよな。じゃあ、何をしても笑えない結果になりそうな時はどうする?」

 アカネは目を丸くしてから「ふふっ」と笑うと、ヨウの頬を軽く摘んで小さな円を描くように動かした。

「ヨウの戦う理由は私とは違うでしょ」

 そう言って、ヨウの肩越しに、先程まで詩亜がいた場所を見る。

「ちゃんと守ってあげてね」


 ヨウが瞼を開くと、高い天井と見覚えのある空間が視界に広がった。靄が掛かったようにぼやけた頭に手を当てながら上半身を起こす。

 その瞬間、三面の透明な壁が床に描かれた線上に形成され、ヨウを大きく囲んだ。

「……どういう状況だよ?」

 ヨウは頭に当てた手を止めたまま辺りを見回し、両手を結界に向けたままのルキナ、ロキナ、ラキナを順に見る。

 状況が飲み込めないヨウに対して、ラキナとルキナはそれぞれ微かながら驚きを浮かべた。ロキナなど、見るからに驚き、狼狽した目を姉二人に向けている。

 その様子を見た瞬間、ヨウの目が大きく見開かれ、焦燥を隠さず、その場に立ち上がった。

「ヨウ様」

 その声にヨウは振り返る。三姉妹のうち、一番初めに冷静さを取り戻したのはラキナだった。

「私共はあなたを戦闘に参加させないよう命を受けています。どうか、抵抗なさらないでください」

 淡々とした言葉に、ヨウは歯を食いしばる。

「やっぱりそういうことか……! 命令ってことはティアの奴が言ったんだな」

「私共にこれを命じたのは確かに大司祭様ですが、人間軍の皆様も承知しています」

 顔を歪めて何かを、十中八九抗議をしようとしたヨウに先んじて、ラキナは口を開く。

「あなたが魔王に掛けられた魔物化は完全に消えていません。身体の中に封印されただけで、その封印もまた、何がきっかけで解けるか分からないほどのものです」

「自分の身体のことだ。そんなこと、とっくに分かってる」

 その言葉に、ラキナの眉が微かに動く。それは驚きとも、若干の苛立ちとも取れる反応だった。

「それでも魔界へ行くと仰られるのですか。最悪の事態が想像出来ないわけではないでしょう」

「このままアイツらが死ぬより最悪な事態なんてあるかよ」

 ヨウが右手を横に上げて空間から西洋剣を取り出したのを見て、ラキナの表情に険しさが増す。

「お前らが止めないなら力尽くで通るぞ」

「……ただの斬撃で、この結界は割れませんよ。切れたとしても、瞬く間に修復しますので。いくら大司祭様が目にかけている貴方でも、三人分の魔力を破ることなど不可能です」

 床に描かれた線を見れば分かるように、この部屋自体が結界を作るのに適した環境となっているのだ。

 ヨウは結界の前まで歩くと、西洋剣を振りかぶり、全力で叩き付けた。

 西洋剣は、岩を叩いたような音を響かせながらも結界を三十センチほど切り裂く。だが、もう一撃を加えようと剣を構えた頃には修復が完了していた。

 一瞬で結界が再形成されるわけではなく端から修復していくことから、その間に結界を抜けることは確かに可能だろう。しかし、追撃を待たないほどの修復速度を考えると、中途半端な穴を空けたところで人一人は通れない。だが、それほど巨大な穴を空けるには、威力と範囲を兼ね揃えた魔法攻撃が必要だろう。それこそ、アデルやティアほどの。

 ヨウは思考を巡らせるように剣をじっと見てから顔を上げると、ロキナの前まで歩を進めた。

 口を噤んだまま結界越しにヨウを見上げるロキナに対して、ヨウは彼女の足下に目を落としている。

「……そこから動いたら結界に魔力を送り込めなくなるのか」

 独り言なのか問いなのかは分からないが、ヨウはそう呟き、そしてそれは的を射ていた。この結界は、結界魔法に秀でたロキナ達三姉妹と、この場所があって初めて成り立つものだ。

 怒っているだろうか。そう思いながらも、ロキナは口を強く噤んだまま何も答えない。それが、この命を受ける際に姉二人から提示された条件だった。

 その時のことを思い出してか、ロキナがヨウから目を離してラキナに向けた瞬間、彼女の眼前数センチの虚空を何かが縦に切った。

 表情を硬直させたまま前に向き直ると、剣を振り上げたヨウと、ちょうど修復が完了した結界が目に映る。

 何をされたのかすぐに分かったが、それを認められず、強張った表情でヨウを見上げたロキナに剣が突き付けられ、感情の籠もっていない声が飛ぶ。

「次は当てる。怪我したくないなら退け」

 部屋に響いた言葉に、ラキナが唇を軽く噛み、ルキナが狼狽を顔に出す中、ロキナはただ呆然とした表情を浮かべていた。

 入り口付近にいた神官がざわめき、一人が部屋を出て行った。万が一に備えて応援でも呼びに行ったか、とヨウは横目に見ながら考える。そうだとすると、あまりちんたらしていられない。

「退く気はないんだな」

 前に向き直り問うと、ロキナの瞳に涙が溜まり、頷いた。

「こんな守り方は駄目だと私に言ったのは貴方です」

 突き付けられた剣先が僅かに揺らぐ。

「魔王を倒したとしても、コウタ様もシア様も貴方がいなければ後悔が残るでしょう。ここでヨウ様が魔界へ行くのは、ただの我儘です」

 ヨウは無表情のままロキナと目を合わせてから、そっと口を開いた。

「悪いけど、今の俺にはこんなやり方しかないんだ」

「……ただ待つだけじゃ駄目なんですか」

「あぁ。魔王は俺が倒さなきゃいけない」

 表情が和らいだヨウを見て、ロキナは少し肩の力を抜く。

「……どうしてですか」

 そして、その問いにヨウは柔らかい笑みを浮かべた。

「俺が――――」




 四色の爆発による風と煙が、部屋の隅にいるシア達、治癒部隊にまで届き、それぞれが自身の前に薄い障壁を張った。ほとんど間を置かず突然吹き上がった風が、視界を遮っていた煙を天井付近まで飛ばす。

 ティアはいつの間にか前衛の後ろまで後退しており、先程まで魔王がいた空中を睨んでいた。

 そこに浮いているのは、幅二メートルほどの黒い球体。その存在に気付いた隊員達が顔を向けると、球面にいくつもの細かい亀裂がはしった。

 粉々に砕けた球体から姿を現した魔王の姿は先程までとは一変している。白衣が足首まで隠すほど丈の長い黒衣へ変わっただけでなく、前頭部からは山羊のような角を二本生やし、白い髪も肩にかかるほどまで伸びていた。そして、ゆっくりと開かれた瞳は、白目が赤く染まり、黒目は黄金に変色して怪しく輝いている。その姿を見て隊員達は武器を握る手に力を込め表情を引き締めた。驚愕を浮かべる者は一人としていない。千年前、死闘を繰り広げた末に封印するしかないほどの勇者達を追い詰めた魔王キルバライガ。この姿こそ、彼等が知る魔王だった。

「もうちょっと様子見を楽しみたかったんだけどなぁ」

 そう呟きながら、魔王はコウタ達前衛部隊と、その後ろに目を向ける。目線が合った瞬間、ティアは冷気を感じて目を見開いた。

 魔王の周りに冷気が満ち、凍った水溜まりが割れるような音と共に、三十本に及ぶ氷の杭が現れる。

 前衛達が一斉に散開し、ティアが両手に炎を灯すと同時に氷の杭が一斉に飛び出した。

 両手の炎を合わせるティアに、魔王は目を細めて笑う。

「ただの炎で防げるかな?」

 両手を前に出し、部屋を分断するほど巨大な炎の壁を目前に展開させたティアが、その言葉の意味に気付き目を見開く。だが、今からでは到底間に合わない。

「障壁展開!」

 振り返り叫ぶと同時に、十本ほどの氷の杭が炎の壁に穴を空けて突き破った。

 ティアの声に反応して障壁を展開した魔法使いも少数いたが、氷の杭はその障壁を容易く破り、魔法部隊に降り注いだ。

『ただの氷ではなく氷炎の杭だ! 掠っただけで致命傷になるぞ!』

 魔法部隊の更に後方にいるユタカの声が頭に響き、追尾してくる氷の杭をなんとか凌いでいた前衛部隊の表情が険しくなる。

 氷炎。触れたものを溶かし、腐らせる魔王特有の炎魔法だ。ユタカが言ったように掠ることはおろか、迂闊に武器で叩き落とすことさえ許されない。そんな中、真っ先に氷の杭を振り切ったニコールと、小型の盾を犠牲に杭を止めたコウタが魔王に向けて地面を蹴った。

 魔王の興味はティアに向かっており、背後から襲い掛かるコウタ達には目もくれない。だが、不意に右掌を後ろに向けたかと思うと、そこから風の刃がニコールとコウタへ寸分狂わず放たれた。ニコールは宙で身体を動かして避けたが、刃を弾こうと魔剣を薙いだコウタの表情が険しいものになる。

 風の刃は切れ味こそ鋭いものの、通常の武器と違って衝撃も重みもない。

 だが、魔王が片手間に放った風の刃には、確かな重みがあった。それこそ、コウタが武器を手放しそうになるほどの。

 魔剣に魔力を流し込み、風の刃をなんとか裂いたコウタに、ようやく振り返った魔王は薄く笑う。

「何を驚いているんだい? 天命なんて曖昧なものとはいえ、僕は一応、魔の王を名乗ってるんだよ? このくらいで驚かれるのは心外だなぁ」

 言い終えると同時に襲いかかってきたニコールの初撃を、魔王は後ろへ揺れるように避けながら横に右手を伸ばすと、冷気が集まり、次の瞬間には氷で出来た杖が握られていた。鋭利な杖先を見て、ニコールは眉間に皺を寄せながらも攻撃の手を弛めない。

 首元を狙った短剣が、身体の横に構えられた氷の杖によって止められる。すぐさま、残る右手の短剣を振りながら横目に左手を見ると、刃の先端数センチがなくなっていた。断面は溶けて固まっている。

 やはりあれも氷炎の武器か、とニコールが僅かに顔をしかめた時、目の前に風の刃が現れた。咄嗟に右手の短剣で受け止めるが、魔剣でも容易に弾けないほどの重みに加えて、薄い障壁という足場では踏ん張りも効かず、そのまま押されるかたちで吹き飛ばされる。

 ニコールを追撃する五発の風刃を、間に割り込んできたキョウカが盾で防ぐと同時、魔王の後左右から複数の隊員達が、そして前方からは体勢を立て直したコウタが一斉に飛びかかった。

「あれ。杭じゃあ一人しかやれなかったか」

 魔王は周囲を見ながら笑みを浮かべたまま杖を振る。その直後、魔王を囲むように氷炎が噴き上がる。前衛部隊が思わず動きを止めた瞬間、氷炎の壁が僅かに揺らいだかと思うと爆発するように分散し、鋭く尖った破片が隊員達に襲いかかった。地面から足が離れていた大多数の隊員はまともに身動きが取れず、手にしていた武器を犠牲に氷炎を防ぐ。だが、反応が遅れた者、小型武器や氷炎との相性の悪さで防ぎきれなかった者が少数だが存在し、その内の一人であるギルは、着地と同時に、刃がほぼ溶けきり棒と化した槍を地面に刺し、左膝を着いた。左足の側面は服が溶け、そしてそれは肉体にまで進行し、肉が焼け、腐っていく音と臭いを周囲に漂わせる。

 掠っただけでこれか、とギルは左手で患部を抑えながら痛みに歯を食いしばる。炎のような熱も、氷のような冷たさもない分、全身から汗が吹き出るほどの激痛が襲う。それが氷炎の特徴の一つだ。そして、氷炎による腐食は、炎が消えてもなお進行する。

 一旦引くしかない、と顔を横に向けて後方の治癒部隊を気にしたギルの目に飛び込んできたのは、横一列に展開し、今まさに魔法を放とうとしている魔法部隊だった。それぞれの得意な魔法、ではない。魔法使い全員が溜めた魔力が彼らの頭上で黄金の光を放っている。

 駆け寄ってきたラサンが、ギルの身体を担いでその場を離れた瞬間、魔法使い達は電撃魔法を発動した。その大きさは大小様々だが、同時に放たれたそれは同系統の魔法同士混ざり合い、極大な電撃となって轟音とともに魔王を飲み込んだ。

「そんなのが当たると思った?」

 その轟音が鳴り止まぬ内に背後から声が聞こえ、魔法使い達が振り返った時には、魔王の両手に氷炎と黒炎が燃え盛っていた。

 咄嗟に両手を前に出す魔法使い達を見て、魔王は薄く笑う。

 それは反応の遅さを馬鹿にしたわけでも、障壁を張るという無駄な行為を嘲笑したわけでもない。

 ただ、その迫真の演技に、つい笑みがこぼれただけだった。

「当たると思うわけ無いよねぇ」

 そう言って振り返り、両手を前に出す。

「君がいるのにさ」

 そこには、複数の魔法球体を周囲に浮かせた状態で魔王に接近するティアがいた。

 ティアは「くっ」と顔を歪めると足を止め、うねりをあげて迫り来る二種類の炎に両手を向ける。周囲の魔法球体が弾け、虹色の魔法障壁が展開される。

 あれは貫けないだろうけど足止めには十分だね、と魔王が魔法使い達に向き直ろうとした時、不意に身体の自由が奪われて、魔王は「ん?」と言葉をこぼす。

 地面から植物のように生えてきた淡く光る紐は、両手両足に続き首と胴体にまで巻き付く。

「……巫女の子か」

 千年に渡ってシジンを押さえ込んでいただけのことはあるね。ただの魔物なら、このまま身体を引き千切れそうなほど力強い。魔力を封じる働きもあるのか? いつもより魔力が感じられない。

 魔王は愉快そうに笑ってから全身に力を込める。

 魔法使い達の背後に隠れて地面に両手を着いているコハルの表情が苦しげに歪んだ。魔王はまだ身体を動かそうとしていない。魔力を込めただけだ。だが、この時点でコハルは察した。魔王が本気を出した場合、自分が足止め出来る時間は一秒にも満たないと。

 だが、今はそれで十分だ。

 両手両足、首の紐が弾け飛び、振り返った魔王が目にしたのは、眼が焼けそうなほどの光だった。

 アデルの胸の前、向かい合わせた両手の間に浮かぶそれを、魔王は眼を細めて見つめる。

「千年前の炎使いは雑魚ばっかりだったけど……」

 アデルは両手で球体を優しく包み、放つように前へ突きだした。それに合わせ、魔王とアデルを囲むように巨大な半球形の障壁が展開される。

「ここまでいくと、炎というより太陽だね」

 障壁に挟まれた空間で、眩い光と爆発が巻き起こる。虹色の障壁にヒビが入り、そこから流れ込んだ肌を焦がすほどの熱気に、魔法使い達は思わず後ずさった。

 前衛部隊は負傷者を治癒部隊へ運び、残りの者は武器を構えたまま魔法部隊の前へ出る。

 ティアは障壁を維持するため、両手を前に出したまま、煤けた顔で小さく息を吐いた。神官が駆け寄ってくるのを横目に見ながら左手を下ろすと、その掌に小さな青い球体を作る。障壁を消した際、内から流れ出してくる熱気だけでも危険だ。反対側の魔法使いも同様のことをしていた。

 爆発から五秒。それが、この連携を考えた際にアデルが言ったことだった。それ以上早く障壁を消した場合、熱気が抑えきれない可能性が高いため、とのことだったが、ティアは別の理由にも気が付いていた。この魔法は一撃必殺の威力がある代わりに、カウンターを受けやすいのだ。たった今障壁内に溜まっている煙はこの広い部屋に充満するほどのものだろう。もし、これで魔王が生きていた場合、この煙の中、魔法を使われればどうしても察知が遅れる。味方の位置も敵の位置も分からない以上、こちらはろくに魔法も使えないという状況に陥る。

 五秒あれば、熱気に加え、それもどうにか出来るのだろう。そして魔王が生きていた場合、命を落とすのは一人だけで済む。

 会議の場でそれに気付いた者は、ティアの他に何名いたのだろうか。

 五秒が経ち、ティアがそっと右手を下ろしたのに合わせて、魔法部隊の者も障壁を消し、一人は煙を飛ばすための風魔法を、別の者は熱を冷ますため周囲に冷気を漂わせる。

 二種の魔法が合わさり、冷たい風によって煙が飛ばされると、そこには地面にうつ伏せで横たわるアデルと、立ったままそれを見下ろす魔王の姿があった。

 焼け焦げ、幾分か丈の短くなった黒衣を身に纏ったままアデルを見下ろす魔王に表情はなく、ダメージの程を察することは出来ない。だが、先程まで手にしていた氷炎の杖を持っていないことから、それなりに追い込んだと見ていいだろう。

 ……それなり、ね。とティアはそっと眉間に皺を寄せる。今のでそれなりの効果しかないというのなら、魔王の力は予想以上だ。ティアに残っている魔力を使っても、先程と同等の威力を持つ魔法は二発撃てるか撃てないかといったところだろう。

 その時、不意に魔王が右手を前に出すと、冷気が集まり、その手に氷炎の杖が握られた。

 魔王がゆっくりと杖を上げた瞬間、前衛部隊の一角から赤い影が飛び出し、振り下ろされた杖を大剣の腹で弾き飛ばした。

 その時、アデルを助けようと動いたのはガイアのみ。何故か。

 今からでは間に合わないという者もいる。だが、大半は罠であることが明白だったためだ。そのうえ、アデルの生死すら定かでない状況。それを理解してなお飛び出したのがガイア一人だったというだけだ。

 杖を弾かれ、目を丸くしていた魔王が、堪えきれないように笑みを浮かべる。その左手には、赤い球体が浮かんでいた。

 アデルを担いで離脱など、そんな時間はない。大剣で防ぐ。いや、氷炎の杖に触れたことにより刃先から腐敗が始まっていて、魔王の魔法に耐えられるほどの耐久性は残されていないだろう。新たな武器や盾を取り出す時間すら残されていない。ガイアを追って飛び出したコウタさえ間に合わない。だが、そんな考えは元よりガイアにはなかった。そもそも、何かを考えて飛び出したわけでもない。故に、こんな状況にあっても身体は自然と動いた。腐りかけた剣を盾にして、アデルの前に立つ。球体を眼前に突きつけられてなお、恐怖も迷いも感じさせない強い眼差し。その意志に呼応するように、赤い戦闘魔力が炎のように揺らめいた。

「ガイア!!」

 コウタの叫び声。

 それに続いて、小さな破裂音が広い部屋に響いた。

「いいね、君」

 そう言って魔王は笑みを浮かべる。球体を握り潰して煙が漏れ出している左手を気にする様子はない。

 そこに飛んできたコウタの攻撃を魔王は誰もいない方向へ大きく後退して避けると、アデルの様子を見ているガイアに再度目を向ける。

「僕は何もしてないから魔力の使い過ぎで気絶してるだけなんじゃない?」

 どうでもよさそうな魔王の言葉通り、アデルの身体に大きな傷はなく、静かに呼吸を繰り返していた。

 二人に追いついた前衛部隊のうちの一人にアデルを任せると、ガイアは立ち上がり、コウタの横に立って魔王を睨む。だが、魔王は可笑しそうに「くく……」と笑った。

「さっきより迫力半減してるよ。やっぱり殺した方がやる気出たかな。僕としてはどっちでもよかったんだけど、どうせ殺すなら全員の目の前で、なおかつ助けようと思えば助けられるくらいのタイミングで殺してあげようと思ってね。君達が炎使いを見殺しにしたら僕の勝ち、助けに来たら君達の勝ちっていうルールを勝手に作らせてもらったよ。まさか助けに来るとは思わなかったけど……」

 魔王はガイアに邪気のない笑みを向ける。

「君のことは気に入ったよ、狂戦士。僕の仲間になる気ない?」

「嫌よ」

 かぶせ気味の即答に、魔王は苦笑する。

「そこの炎使いも一緒でもいいけど?」

「死んでも嫌」

 魔王は肩をすくめて、

「その言葉には納得出来ないな。死んだら終わりだよ。生きるためなら悪魔にでも魂を売るべきだし、他人だって殺すべきだ。ここにいる地球人のように、地球のため、ティノジアのためと命を危険に晒すなんて最も馬鹿げた行為だと僕は思うよ」

 その言葉に数名の表情が険しくなるが、魔王は気に介さずに言葉を続ける。

「だってそうだろう? ティノジアに連れてこられた一万人は、『ティノジアと命の繋がりがない』者達だ。ティノジアが滅び、地球の生命がほぼ無くなっても君達は生き残る。それなのに戦う理由があるのかい? 家族のため? 友人のため? 恋人のため? まさか世界のため? くだらないね。結局、自分以外は他人だろう。ティノジアで一万人全員が死ぬより地球に帰ってまた人類を復興でもさせればいい。望むなら僕が帰してあげてもいい」

 険しい表情を変える者はいない。しかし、数名の心に迷いが生まれたのは確実だった。地球人なら同じことを思わなかった者はいないだろう。だが、魔王を倒さねば地球には戻れない。だからこそ命を懸けてここまで来た者もいる。そんなところに先程の言葉を受けて迷わない者はいない。この場で立場を変えるとは誰も思っていない。だが、考えてしまう。魔王の力により地球に帰った場合のことを。

『雰囲気に飲まれるな』

 ユタカの声が響き、隊員達は我に返る。

『戦う理由にくだらないもクソもない。僕達がここにいるのは、戦う意志を見せたからだ』

「なるほど」

 魔王が口角を上げて笑みを作る。仲間へ向けた通信魔法を傍受され、ユタカは思わず息を詰まらせ口を噤む。

「なら、その戦う意志を壊せば僕の勝ちなわけだ」

 魔王は怪しげに笑いながらティアを横目に見た。

「とっておきのネタがあるよ。ねぇ? 大司祭様」

 その瞬間、ティアの姿が消えたかと思うと、魔王の背後に現れる。その両手には黄金に輝く球体があり、それを合わせると、巨大な雷の剣となった。

 振り下ろしの一撃を後ろに飛んで交わした魔王の背後に、コウタが回り込んで魔剣を斜めに振り下ろす。背後に障壁を展開させ、その一撃を防いだ魔王の元に、地面を蹴ったティアが一瞬で追いつく。

 その予想外の速さに魔王は眼を見開き、咄嗟に障壁を展開した。

 眼前で止まった雷を宿した剣に、魔王は冷や汗を掻きながら引きつった笑みを作る。

「おかしいね。どうして大司祭様が――!」

 その言葉は、雷の弾ける音と障壁にヒビが入る音によって遮られた。対処する隙もなく、魔王の身体に雷の剣が食い込み、袈裟斬りに振り下ろされた。傷口から赤い血が噴き出し、返しの一振りで首を狙うティアの肌と服を汚す。

 魔王が何を驚いていたのか、ティアには分かっていた。大司祭は魔法使いの最上位的な天明に該当し、本来であれば近接戦闘は不得手だ。千年前の大司祭もそうであり、そして、前代の大司祭もそうであった。

 例外は、ティアのみ。それが親によるものなのか、大司祭として力を引き継いできたことによる産物なのかは分からないが、ティアはこのことを隠し続けていた。万が一にも魔王の耳に入らないように。確実に、隙を突けるように。

 雷剣の一撃で魔王を囲んでいた障壁は割れ、コウタは胴体に向けて剣を薙ぐ。その一撃は魔王の胴体と手を切断し、そしてティアの雷剣が首を跳ね飛ばした。

 コウタによって切られた両手に残された魔法球体の光が徐々に弱くなり、首や胴体が地面に落ちると同時に完全に消滅する。

 武器を武器を振り切ったまま動きを止めていたティアとコウタが両手をそっと降ろして小さく息を吐いた瞬間、背後で歓声が湧き上がった。コウタは、その声に振り返り、仲間達を見て笑みを浮かべる。

「……最後の最後で助けられたわね」

 ティアに見上げられて、コウタは前を向いてから「いえ」と首を横に振る。

「僕は補助をしただけで、魔王を倒せたのは大司祭様ですから。助けられたのは僕の方です」

 駆け寄ってくる隊員達を見ながら笑うコウタに、ティアは頷き、三分になった魔王の身体を見下ろす。そこには魔王の赤い血が地面に広がっており、避けるように数歩下がってから顔を上げた。

「そうね。魔王にトドメを刺したのは私よ」

 少しらしくない言葉に、コウタが内心首を傾げた時だった。

「やっぱり優しいね、この時代の大司祭様は」

 ティアとコウタだけでなく、駆け寄ってきた隊員達も、その声に動きを止める。

 誰もが魔王の身体を見る中、ティアだけは足元の床を、いや、床に広がる魔王の血に目を向けた。

 そして、血が黒く変色していくのを目にした瞬間、ティアは両手を合わせて範囲を指定した転移魔法を発動した。その対象は近くにいた自分とコウタ、そして近くまで来ていた十数名の隊員。

 部屋の隅、治癒部隊の傍まで転移された彼等が目にしたのは、魔王の身体を中心に、爆発するように周囲へ無数に突き出された長く鋭利な黒い杭だった。あの場にいれば、杭により串刺しになっていた。ティアやコウタなど、体中を貫かれていたかもしれない。

「だ、大司祭様、あれは――」

 隊員の一人が振り返りながら問うと、ティアは肩を押さえたコウタの傍らにしゃがんでいた。

「……ごめんなさい。少し間に合わなかったみたいね」

「ティアさん! コウタさん!」

 シアとキョウカ、ガイアが駆け寄ってきたのを見て、ティアはそっと立ち上がった。その左頬は薄く切れていて、幕のように血が流れ出している。

「肩を貫かれているわ。治療をお願い」

 その言葉にシアは頷くと、コウタの横にしゃがみ、左肩に手をかざす。

 ティアはそれを横目に見てから、隊員達を、そして、部屋の中央にある杭の山へ目を向けた。

「……武器を構えなさい」

 雷剣を作り出しながら言うティアに、隊員達はそれぞれ武器を構える。

 その時、不意に杭の山が溶けて黒い液体になったかと思うと、魔王の身体へと収束したのを見て隊員達は目を見開いた。

 血の動きではない。魔王の身体、コウタとティアにより三分された筈のそれは、いつの間にか二分になっていた。

 そして、血の池で、首のない身体がゆっくりと立ち上がる。その不気味な光景に隊員達は顔を引きつらせた。

 緩慢な動きで足を進め、あるところで膝を曲げてしゃがんで立ち上がった魔王の両手にはティアによって切り落とされた首が抱えられていた。それをゆっくりと掲げ、断面を合わせるように首へ乗せると、そっと手を離した。

 閉じられていた目がそっと開き、魔王は「ふー」と大きく息を吐いた。

「首を落とされたのは初めてだったから、ちょっとドキドキしたよ。悪魔化が間に合うかも微妙だったし」

 軽い口調の魔王に対し、隊員達の表情は険しい。悪魔化という言葉、体力だけの問題ではなく、一度緊張の糸が切れたことによる精神的な負担も大きい。

 一歩前に出たティアとガイアに顔を向けると魔王は笑みを浮かべた。

「その身体でやるつもりなの?」

 ティアへ投げ掛けられた問い。隊員達の視線を気にする様子もなくティアは頬の血を拭う。

「あなたは私が倒すわ」

 魔王は小さく笑い、「やっぱり優しいね」と言ってから、隊員達を見渡した。

「君達にいいものを見せてあげるよ」

 魔王がそう言って掌を床に向けた右手を横に上げた瞬間、ティアが地面を蹴り、間合いを詰めて切りかかった。しかし、その動きは先程と比べると隊員達から見ても分かるほどに遅い。すぐさま残りの隊員も援護に走る。ティアの攻撃は止められるだろう。最悪、反撃を食らってしまう。その前に追いつかなければならない。

 魔王は左手を前に出すと黒色の障壁を展開し、雷剣を防ぐと、左手を胸の前に出して掌を天井に向け、指を軽く曲げた。それによってティアを襲ったのは、足元の血だまりから突き出した一本の太い杭。脇腹に突き刺さり、痛みに歪んだティアの顔に左掌が突きつけられる。そこに緑色の球体が揺らめいているのに気付いた瞬間、豪風がティアを壁まで吹き飛ばした。

 壁に叩きつけられたティアに目もくれず、魔王は接近してくる前衛部隊に向き直ると、自身を囲むように透明な障壁を作り出す。

「ちょっと待ってなよ。さっきも言った通り、いいもの見せてあげるから」

 魔王は言うと、ティアとの攻防の間も動かさなかった右手に目を向ける。

 すると、床に広がっていた血が宙に浮き、何かを形作るかのように右手の下に集まっていく。

「…………え?」

 コウタに治癒魔法を掛けていたシアの表情が固まる。コウタもまた、痛みすら忘れたように呆然とした表情で成り行きを見ていた。

 魔王の右手に握られたのは一振りの刀だった。黒い、血の刀。

「君達も知ってるだろう? 自身の血を自在に操る……って彼はそこまで出来ないのかな。武器に変える特殊な魔法」

 それと、と左手を胸の高さまで上げて、三十センチほどの四角い障壁を作る。

「黒の障壁。さぁ、君達は誰を思い浮かべた? 何故、僕が彼と同じ魔法を使えると思う?」

 いや、と魔王は愉快そうに笑う。

「何故、彼は僕と同じ魔法を使えるのか、と言った方が正しいかな」

 その言葉に数名の隊員の表情が変わったのを見て、魔王は更に楽しそうな笑みを浮かべる。

「正解は、彼が僕の子孫だからだよ。魔王の子孫。それが、ヨウの本当の天命だ」

 静まり返った室内に、魔王の笑いをかみ殺す声だけが響く。

 透明な障壁が消えても戦いを再開出来ずにいる彼等を見て、魔王は両手を広げて演技がかった口調で言葉を飛ばす。

「さぁ、見せておくれよ。君達の戦う意志とやらを。僕を殺して、そしてヨウも殺して世界を救うがいい!」

 言い終えると同時に、魔王はその場から消えて前衛部隊の中心に姿を現す。

 黒血の剣をなんとか凌いでいるが、見るからに動きがぎこちない前衛部隊を見ていたノゾミは、ティアに治癒魔法を掛けながら震える声で問う。

「……大司祭様、さっきの話は……」

 大量の汗を流しながら壁にもたれているティアは荒い息を繰り返すだけで何も答えない。だがそれは何よりも肯定を表していて、思わずノゾミは少し離れたところにいるシアに顔を向けた。

 治癒魔法こそ止めていないものの、シアの呆然とした表情には絶望が色濃く浮かんでいる。

『……気にするな』

 絞り出すような声が頭に響いたのは、その時だった。

『所詮は敵の言葉だ。真に受ける必要はない』

 ユタカの言葉が聞こえているのか、魔王は剣を振り、血を操りながら大声で笑う。

「流石指揮官様だ! 隊員を駒として見るのが上手い! でも僕は嘘など吐いていない! 君達はヨウか世界か選ばなければならない! さぁどうする!? どっちを救い、どっちを殺す!?」

 熾烈さが増していく攻撃に、その言葉に、隊員達は顔を歪める。

『敵の言葉に惑わされるな! 戦えないなら僕が強制魔法を掛けてやる!』

 そう叫びながらも、ユタカの頭の中では魔王の言葉は真実味を増していた。

 理由を明かさずに軍を辞めたこともそうだが、何よりも人型魔物を一人で倒したという話。確かにヨウは軍にいた頃と今とでは強さは桁違いだが、それでも人型魔物と一対一で勝てるほどの力量はないはず。剣技だけなら、ガイアやコウタにも届かないほどだ。しかし、本当に魔王の子孫なのだとしたら、その力量差を覆す術も持っていることになる。

 ユタカは思考を振り払い、目の前の戦いに集中する。ティアが一時的に離脱している今、魔法部隊への指示もユタカの役割だ。前衛部隊の動きは守りこそまともになってきたが、なかなか攻撃に転じないのは魔王の隙がないからか、それとも――。

 とにかく、攻撃に転じられなければ万が一にも勝ち目はない。

『魔法部隊AとBは攻撃用意、Cは敵の攻撃に備えてくれ』

 それぞれの小隊長から了解の返事を聞き、ユタカは隣にいるコハルに目を向ける。

「……コハル、敵を捕縛することは可能か?」

 その問いにコハルは、

「血が厄介ですが、やってみます」と力強く頷いた。

 彼女とて、魔王の言葉を気にしていないわけではない。ただ、本当だとしても、自分には何もいう権利はないと思っていた。ヨウに救われなければ、コハルもまた、歴代の巫女と同じように、その身を犠牲に里を救うことに納得していたのだから。

 何も言えない。言う権利がない。ここで自分の気持ちを優先して戦いを止める権利さえない。だから、彼女は涙で滲む瞳を巫女服の袖で拭い、戦いに目を向ける。

 そして、部屋の隅で治癒を終えたコウタもまた、魔剣を手にゆっくりと立ち上がった。

「……コウタさん」

 引きつった表情で見上げるシアに、コウタは力の無い笑みを向ける。

「大丈夫。ユタカの言うとおり、嘘の可能性だってある」

 それが、どれだけ意味のない言葉か分かっていながらも言わずにはいられなかった。シアのためというよりは自分のためにも。そう思わなければ、戦うことなど出来ない気がした。


 コウタが、そして少し遅れてティアが戦いへ戻ったことにより士気が上がった人間軍だったが、魔王の力はそれを上回るものだった。氷炎や高位の魔法に加え、黒血が自在に姿形を変えて襲いかかる。それらの攻撃をなんとかかいくぐり懐に飛び込んでも、黒の障壁がどんな攻撃も無力化した。

 更に、隊員達、特に前衛は攻め倦ねている。人によってはヨウのこともあるだろうが、それだけではなく、『首を落としても魔王は死なない』という事実から来る疑念。魔王は不死なのではないか。だから、千年前、勇者達は封印という手段をとったのではないか。迷いは動きにも表れ、魔王の攻撃により徐々に隊員が倒れていく。その分、残された前衛一人一人の負担は大きくなり、そして、本来ならば好機が来るまで温存しておきたい魔法部隊が出張るしかない状況になる。

 負傷者の治癒が追い付かないほどの攻撃に前衛部隊は防戦一方となり、時を同じくして魔法部隊でも魔力切れを起こす者が現れ始めた。

 完全なジリ貧状態に、ユタカは歯を食いしばり、顔を歪める。

 逆転する術があるとすればコハルの捕縛だが、隙のない状態で試みても黒血に遮られるだけだった。コハルの魔力を考えても無駄撃ちは出来ない。

 しかし、この状況で隙を待つのは得策ではないだろう。隙を作る前に、現状で残っている主力達まで負傷してしまう。治癒部隊の魔力残量も危うい中、そうなれば巻き返すことは不可能に近くなる。

 一か八か。賭けに出なければならないところまで、人間軍は追い詰められていた。

「……コハル」

 賭けに出ることを決めたユタカが、隣のコハルに声を掛けた瞬間、魔王が突然魔法部隊に顔を向けたかと思うと、両腕を前に突き出した。

 ユタカは息を飲み、障壁の指示を出す。即座に応えた魔法部隊は障壁を作り出す。頭数は減ったとはいえ、全属性に対応している虹色の障壁は対魔法障壁としては鉄壁を誇っていた――筈だった。

 魔王の両手の前に現れた黒い球体から放出されたのは、炎でも氷でも雷でも風でも地でも光でも闇でもなく、ただの黒だった。それは虹色の障壁をいとも容易く砕き魔法部隊を飲み込むと、遥か後方の壁に亀裂を入れて消滅した。

「滅魔法。君達が使える魔法の、更に上位の魔法だよ。ま、聞こえてないと思うけど」

 壁際まで吹き飛ばされ、地面に倒れている魔法部隊に背を向けた魔王は、残りの四人、コウタ、ガイア、ニコール、ティアに向き直る。

「さぁ、どうする? こんな絶望的状況になっても、まだ世界を救うために戦うかい?」

 身体中の細かい傷から服に血が滲み、肩で呼吸する四人は、誰から見ても心身ともに満身創痍だった。ガイアが纏う赤い戦闘魔力、ティアの雷剣からは本来の輝きが薄れ、どちらも弱々しく揺らめいている。

「最後のチャンスをあげるよ」

 新たな黒い剣を作り出しながら魔王は口を開く。

「このまま負けてティノジアもろとも滅びるか、僕の力で地球に帰るか。さぁ、どっちにする?」

 言い終えると同時に魔王の姿が消え、四人の中心に姿を現した。

 コウタとガイアが振り向きざまに薙いだ剣を、振り下ろしの一太刀で叩き斬る。驚きに目を見開く二人に背を向けると、黒剣を逆袈裟に切り上げ、ニコールの短剣を折り、ティアの雷剣をも切り裂いた。

「滅の剣……!」

 ティアが裂かれた雷剣を見ながら呻くように言うと、魔王は律儀に「あぁ」と答え、

「黒滅剣。なかなか良い切れ味だろう?」

 ティアとニコールに、黒い球体の浮いた左手を向ける。二人を飲み込んだ滅魔法は、そのまま背後にいた負傷者をも巻き込む。

 コウタとガイアは険しい表情をしながらも後退し、空間に手を入れた。コウタは標準サイズの西洋剣を、ガイアは替えの大剣を取り出し構えると、それを待っていたかのように魔王が地面を蹴った。

 転移と言ってもいいであろう速度から繰り出される高速の斬撃を二人は細かい傷を負いながらもかわし続ける。黒滅剣相手に、武器で防ぐことは適わない。いなすことさえ危ういだろう。

 二人で適う相手ではないことは百も承知だ。なんとか、治癒が終わり、援軍が来るまで時間を稼がねばならない。

 なんとか――――。

 コウタに向けて横に振られた黒滅剣が、途中で止まる。突き付けられた剣先に小さな球体が出来ていることに気付いた時には遅かった。

 先程のものよりは小規模だが、剣先から放たれた滅の魔法は、コウタが盾代わりに身体の前に出した西洋剣を砕き、身体を数メートル吹き飛ばす。

 歯を食いしばったガイアの赤い戦闘魔力が輝きを取り戻し、魔王に向けて大剣を振るが、その一撃は、後から振られた魔王の黒滅剣により容易く防がれる。

 そして、ゆっくりと眼前に左手が、黒い球体が突き付けられ、次の瞬間にはガイアの意識は途切れた。

 吹き飛ばされ、地面を跳ねて動かなくなったガイア。魔力の枯渇を感じながらもキョウカに治癒を掛け続けていたシアも、その光景から目を離せなくなっていたが、

「君に訊こう」

 その声に顔を向けた瞬間、目の前に魔王が現れた。

 キョウカは即座に立ち上がり腰に差した刀を抜こうとするが、それより早く魔王に黒滅剣を向けられ、動きを止める。

 周囲の負傷した隊員達が武器を構えたのを見て嘲るような、どこか呆れたように口角を上げ、払うように左腕を振ると、魔王とシア、キョウカを囲むように氷炎が高く燃え上がった。

 氷炎に青く照らされながら、魔王はシアを見下ろす。

「このまま皆殺しにされるか、地球人だけでも助かるか」

 シアは引きつった表情のまま魔王を見上げる。

「第三の選択として『僕を殺す』を追加してもいいけど、どちらにせよ彼は死ぬよ。……迷う必要はないだろう?」

 キョウカは眉間に皺を寄せると、刀を持つ手に力を込めてシアに振り返る。

「シア、真に受けるな! そんなことをする理由が敵にはない」

「あはは。それを言ったら、僕がわざわざこんなことを提案する必要もないけどね。さっさと君達を殺せば終わりなわけだし」

 魔王は笑うと、キョウカとシアを順に見る。

「僕は、別に地球が嫌いなわけじゃない。ティノジアと比べたら理想の世界と言っても良いくらいだ。でも、ティノジアを滅ぼすと決めた以上、地球を巻き込むことに罪悪を感じたりはしない。ただ、さっきも言ったように、君達は本来、生き残るべき者達だった。それなのにティノジアのためにここまで戦ってきたんだ。八千以上の魂を地球に送るのは一苦労だけど、御褒美にそれくらいの手間は買ってあげるよ」

 さぁ、と答えを促すように、魔王は剣先を僅かに上げる。

「ここで死ぬか、地球に戻るか。後悔しない方を選べばいい」

 後悔、という言葉が頭の中に広がり、シアは短く息を飲んだ。

 魔王を倒せばどうなるか、ヨウが知らなかったはずはない。だから自分達から離れて、それでも戻ってきた。それは、後悔しない選択をしたのではない。後悔に立ち向かって出した結論だ。

 なら、とシアは目に光を宿して魔王と視線を合わせる。

 自分では到底歯が立たない敵も、後悔も、死ぬことすら怖くなかった。ただ、大切な人を失うことだけが少し怖い。

「私は――――!」

 シアが口を開いた時、どこからか緩やかな風が吹き、髪と服、三人を囲む氷炎を揺らした。

「……風?」

 魔王は怪訝そうに髪を抑える。この部屋に窓はなく、唯一ある扉も悪魔にしか開けられない魔法が掛けてある。魔王が生きている以上、人が開けることは不可能だ。

 しかし、揺れる氷炎の向こうでは静かに扉が開こうとしていた。

「案内ありがとな」

 聞き慣れた声が耳に届き、シアとキョウカは目を見開き、隊員達にざわめきが起こる。

「……はは」

 堪えきれないように小さく笑った魔王は左手を振って氷炎を消すと、部屋の中心に転移して来訪者を待ちかまえるように立った。

 隊員達のざわめきが止み、広い部屋に足音が響く。扉から姿を現したのは、黒いローブを羽織ったヨウだった。

 ヨウは部屋に入ったところで足を止めると、ゆっくりと室内を見回してから魔王と向かい合う。

「やあ。来てくれて嬉しいよ。ちょうど退屈になってきたところだったんだ」

 歓迎するように両腕を広げながら言う魔王に、ヨウは「はっ」と短く笑う。

「悪魔化までしといて何が退屈だよ」

「あはは。確かにね。この身体になるまで楽しかったのは認めるよ」

 魔王は愉快げに笑い、

「君の本当の天命を明かすのも、なかなか楽しめた」

 その言葉に、意識のある隊員達がヨウを見た。地面に倒れ、立つことさえままならないコウタ、ユタカ、ニコール、ティアも顔を上げる。

 ヨウは否定しない。そして、魔王を見たまま、そっと口を開いた。

「『先祖返り』」

 舞い上がるように吹いた風がヨウのローブと髪を揺らす。風が止む頃には、髪色は黒から白へと変わっていた。

「やっぱり、君は昔の僕と似てるね」

 息を飲む隊員達に目もくれず、魔王は軽い笑みを浮かべる。

「でも、それじゃあ僕に勝てないのは分かってるだろう? その姿でもシジンを倒すので精一杯なんだからさ」

「……だろうな」

 ヨウの返事に、魔王は満足げに笑う。

「そうだろう? だから、君にチャンスをあげよう。僕と戦って全員仲良く死ぬか、僕の力で地球人だけでも地球に帰り、生き残るか。地球人は一万人に満たない数になってしまうけど、君の友人や大切な人は死なずに済む。向こうで幸せに暮らせばいいじゃないか」

 唐突に示された生存の道にヨウは眉一つ動かさず、数秒後にそっと口を開いた。

「後者を選んだら、その後お前はどうするんだ?」

 室内が微かにざわめく中、シアはただ黙ってヨウを見つめている。ヨウが自らの命を捨てるような真似をするはずがない。だが、彼が後者を選ぶこと姿が、どうしても想像出来なかった。

「どうする? そりゃあ決まってるよ。ティノジアを滅ぼして――」

「違う」と、ヨウは言葉を遮り、怪訝そうな表情を浮かべる魔王にこう言った。

「もっと後の話だ。天命のない世界を作って何がしたいのかって訊いてんだよ」

 その問いに、魔王は微かに目を見開き、口元に笑みを浮かべる。

「へぇ……。なんで君がそのことを――――」

 言葉を途中で止めて、魔王は呆然とした表情を浮かべ、黙ったままのヨウを見ると、静かに笑い始めた。

「あは……。あははははは!! そうか! そこまで浸食が進んでいるのか!」

「そうみたいだな」

 短く返すヨウに、魔王は笑いを残しながらも息を整えながら言う。

「あはは……。まぁ、その問いにはノーコメントとさせてもらうよ。その理由を知ったところで、君の答えは変わりそうにないし」

 魔王は黒滅剣を持つ手に力を入れながら言う。

「なるほど。君の力は絶望に打ち勝つでも負けるでもなく、受け入れることによって手にしたものだったんだね。残念だよ。君にはまだ、幸せになる道があったのに」

 ヨウはそっと右手を胸に当て、ローブごと力強く握る。

「余計なお世話だ、キルバライガ」

 言葉と同時に、握り締めた右手の下、ヨウの胸から眩い光が発せられる。それが何の光なのか、この場で理解出来ているのは魔王を除けばティアとユタカのみだった。

 強烈な光にヨウの姿が隠れる。

 理不尽で、脆くて、悲しいことだらけの世界。

「俺は、あの世界で幸せにしたいんだよ」

 光の中で、ヨウの影が歪んだ。時に角、時に翼、時に尾の影を見せながら、次々と姿を変えていく。

 そんなヨウを、ユタカは、言うことを聞かない身体で仰向けに倒れたまま見ていた。

 やはり魔物化の封印を解いたのか。

 歯を食いしばるが、手足にはまるで力が入らない。もはや自分に出来ることはなかった。

 強烈な光が徐々に弱くなっていく。隊員達が緊張の面持ちで見守る光の中心には先程までと変わらないヨウの姿があった。

 変わらない。確かに、外見は何も変わっていない。だが、その雰囲気は一変していた。

 普段のような気だるいそうな緩いものでも、闘いの時の引き締まったものでもない。

「へぇ。悪魔化しても身体に変化無しって珍し……あぁ、犬歯が少し尖ってるね」

「マジか。噛んだらかなり痛いな」

 親指で尖った犬歯をつつきながら言うヨウを見て、魔王は可笑しそうに笑う。

「軽口叩いても隠しきれないもんだね」

「あぁ、やっぱりか」

 ヨウは笑みを返すと、右掌を魔王に向けた。

 身体中から垂れ流された殺気が掌に集結するような錯覚を覚えると同時に、右手から放出された黒色の龍が魔王を飲み込まんと襲いかかった。

 魔王は堪えきれないように歯を見せて笑い、その龍の頭を正面から叩き斬る。

 尾の先まで両断された龍が霧散すると同時、魔王の黒滅剣も崩れ、地面に落ちると塵となった。

 魔王は崩れ落ちた刃を見て、恍惚とした表情を浮かべる。

「あは。互角だよ、互角。信じられないな。この時代で、この姿で、こんな楽しい闘いが出来るなんて」

 ヨウと魔王、二人は同時に黒い剣を生成すると地面を蹴った。

 すれ違いざまの斬撃は互いの武器を砕き、更に重なった振り向きざまの滅魔法により、爆発が巻き起こる。部屋の隅まで届く爆風に隊員達は顔を逸らすか手を眼前に出したが、中心にいたはずの二人は爆心地から離れることなく、魔法衝突による爆発を黒の障壁で防ぐと、すぐさま攻撃に移った。

 ヨウが滅魔法の剣を生成させる中、魔王の手には早くも剣が握られていた。ただし、黒滅剣ではなく血から生成した黒血剣だ。威力こそ黒滅剣に劣るが、生成速度は遥かに速い。

 だがヨウは怯むことなく、それどころか向かってくる刃に左手を合わせる。

 黒の障壁は間に合わない筈。そのままいけば、間違いなく左手は切り落とせていただろう。

 だが、魔王は表情を強ばらせると剣を止め、考えるより先に後ろへ跳ぶ。

 その一瞬後、魔王がいた場所の空気が縦に割れた。何の躊躇もなく振り上げられた黒滅剣は、正に肉を切らせて骨を絶つ一撃だ。

 魔王は引きつった表情で「は」と短く笑う。まだ様子見ともいえる段階で、あのような攻撃が来るとは流石に予想していなかった。今のヨウは、早く決着を付けねば不利になる人間とは違う。長期戦もなんなくこなせるほどの体力はあるはずだ。だから、今の一撃は早く決めようとしたわけではない。

 ただ、全力で殺しにきているだけだ。

 魔王の口角が上がり、狂気のこもった笑みが浮かぶ。一対一で命を懸けた闘いなどいつ振りだろうか。もしかしたら、初めてのことかもしれない。

 一足で距離を詰めたヨウの斬撃を防いだ障壁が砕け散ると同時に、生成した黒滅剣をヨウの剣目掛けて振り上げる。黒の障壁を砕いたことにより勢いを失っていたヨウの剣は魔王の攻撃により容易く弾かれ刃の根本から折れた。

 顔を歪めるヨウに対し、魔王は剣の向きを変えると全力で斜めに振り下ろした。黒い魔力が追い付かないほどの速度と、それに比例した威力。黒の障壁でも防ぎきれないと判断したヨウは体勢を崩しながらも背後へ跳んだ。僅かに避けきれなかった剣先が顔を掠め、薄く切れた頬から赤い血が宙を舞う。後退しながらも手を伸ばすと、血は太く鋭利な針に姿を変えた。自身に向かってきた針を、魔王は一振りで砕くと、後退したヨウに身体を向ける。

 ヨウが地面に足を着けて体勢を整えると、互いに剣先を相手に向けて構えた。そして、一呼吸の後、同時に地面を蹴る。

 ぶつかり合う刃。ただし、今度は砕けることはなかった。双方とも足は止めず、しかし互いの間合いの内を保ちながら剣を振るう。その度に刀が欠け、二人の身体に小さな傷が付き、血が滲む。そしてその血を武器に、戦いは更に激化の一途を辿っていった。

 両者の動きはほぼ同等。互角の戦いを繰り広げている。だが、不利なのは確実にヨウだろう。悪魔化した魔王には急所が存在せず、首を跳ねても、心臓を突き刺しても死なない。

しかし、何も無しに身体を再生出来るとは思えない。身体の再生には、ムソウ以上に大きな魔力を消耗しているのだろう。つまり、あと何度再生出来るのかは分からないが、ヨウは数回魔王を殺す必要がある。そしてそれは、この状況では極めて困難なことだった。

 あるいは、とヨウは黒血の刃を砕きながら考える。滅魔法ならば、再生の隙もなく魔王を完全に消滅させられるかもしれない。だが、それもまた困難なことには変わりない。同じ魔法を持つ魔王ならば、その可能性には気付いているだろう。

 隙を作るには、助太刀があれば手っ取り早い。しかし、前衛にせよ後衛にせよ、現状動ける者だけでは数が圧倒的に足りない。治癒魔法使いの魔力切れで、主力の治癒が間に合わなかったことはかなりの痛手だ。

 それに、と思わずヨウの頭にその考えが浮かぶ。

 仮に動けたとして、彼等は共に戦ってくれただろうか。ティアは大丈夫だろう。ガイアやニコール、ユタカは割り切って戦ってくれると思う。だが、コウタは? コハルは? キョウカは? そして、なによりも――

「何を考えているのかな?」

 戦いの最中に訪れた短い静寂に声が響いた一瞬後、魔王の攻撃によりヨウの刀に亀裂が入り、身体ごと引くと同時に真ん中から折れた。更なる追撃を血と障壁を駆使して凌ぐが、滅の剣はおろか、血の剣すら生成を許さない連撃にヨウの表情が苦しげに歪む。

 対して、魔王の動きは更に速く、そして攻撃は重いものになっていた。実際に戦っているヨウにしか分からないほど僅かな違いだが、元々が互角の戦いであるため、その差は顕著に現れ始めていた。

 ここにきての身体能力上昇。だが、魔王は決して余力を残していたわけでも、人間軍との戦いで消耗した体力や魔力が回復したわけでもない。

 悪魔化が進行しているのだ。人間に戻れる程度のものから、完全な悪魔へと。

 狂気の笑みとともに、指を揃えた左手が黒の障壁を突き破り、指先に黒い魔力が集まる。悪魔化しているとはいえ、素手で障壁を破れる筈がない。頭によぎった微かな思考が、ヨウの回避行動を一瞬遅らせた。咄嗟に右へ身体を傾けるが、その場に残った左腕が滅魔法に飲み込まれる。悪魔化により痛覚が各段に鈍くなったヨウの表情が痛みに歪んだ。

「ヨウ!」

 地面に這いつくばったままコウタは声を上げ全身に力を込めるが、依然として立ち上がることさえ困難だった。辺りを見ても、ニコールも同じような状態、ガイアは意識を失ったままのようだ。

 そうだ! シアさんは……!?

 この状況を、彼女が黙って見ていられるとは思えない。だが、魔力が切れた治癒魔法使いがあの二人の間に飛び込むのは自殺行為に他ならない。コウタが焦燥を表情に出して顔を向けると、そこには駆け出そうとするシアの足をうつ伏せに倒れたまま掴むティアの姿があった。何か言葉を交わす二人が気になったが、コウタは戦いへと視線を戻す。

 ヨウは二の腕の途中から完全に失われた左腕を抑えて大きく後退していた。魔王も、今度はそれを追わない。

「一瞬の隙が命取りになる戦いだ。そのくらい君も分かっているだろう?」

 ヨウは応えず、一度深く呼吸をすると、左腕の断面を抑えて赤く染まった右手を離す。傷口から血が溢れ、赤く染めた地面を横目に見ると、ヨウはそっと左腕に右手を添えた。

 瞬間、出血が止まったかと思うと、左腕の断面から新たな腕がゆっくりと生えてくる。ただし、その色は正常な肌のものと違い赤黒く、指先は獣の爪のように鋭く尖っている。

 指先を曲げ、肩を軽く上げて新たな左腕の感覚を確かめるヨウに、魔王は感心したように笑う。

「血で腕を作ったのか。そこまでの操作は悪魔化してないと出来ないだろうに、初めてでよく成功したね」

「敵に褒められても嬉しくないっての」

 ヨウはしかめ面を浮かべると、右手に滅の剣を作り出した。

「あれ? そろそろ魔法合戦かと思ったんだけどな」

 魔王は胸の高さまで上げた左手に黒い球体を浮かせながら言うが、すぐに「あぁ」とわざとらしく呟いた。

「下手に魔法の……それも滅魔法の撃ち合いなんてやってたら、何人死ぬか分からないからか。悪魔化した魔王のくせに、やってることは勇者のそれだね」

 魔王が左手を前に向けると滅魔法が発動した。迫り来るそれをヨウは障壁で防ぎきると、すかさず滅の剣を横に振る。それを受け止めたのは、同じように剣を手にしている魔王。

「流石にバレちゃったか」

「殺気垂れ流し過ぎなんだよ」

 刃を合わせたまま短く言葉を交わすと、互いに亀裂の入った剣を引き、血から刀を作り出すと再び振る。

 力の均衡が破れ、ヨウにとっては僅かに不利になった近接戦闘が再び始まった。だがそれは、魔王の言ったように仲間を巻き込まないための選択ではない。

 ただ単に、魔法の撃ち合いでもヨウは不利なのだ。同じ剣士でも能力に差があるように、ヨウは魔王の子孫という天命ながら、魔法の才能は魔王には及ばない。先祖返り、魔物化、悪魔化を経ても、その力関係は変わらなかった。更に、滅魔法使用の慣れも違う。おそらく、その違いが僅かな差となり、ヨウは負けるだろう。

 魔王の周囲に浮いていた黒血が無数の針となり全方位からヨウに襲い掛かる。ヨウは背中側に血の壁を作ると、前方の針を全て一本の刀で弾き落とす。その直後に振り下ろされた黒い剣を血の左腕で受け止め、食い込んだところで血を固めた。

 剣が固定され、魔王の表情から余裕が消える。ヨウは左手を引きながら、がら空きとなった横っ腹に向けて剣を振った。

 滅魔法を使うなら、隙を作るしかない。それこそ、首を跳ねるか、胴体を切り離すくらいの決定的な隙を。

 その一撃は障壁によって阻まれ、ヨウの眼前に左手が伸びる。そこに黒い魔力が集まっているのを見て左腕を一時的に血へ戻し、足を振り上げて魔王の手を蹴ると、その勢いのまま後方へ宙返りをした。蹴り上げられて斜め上を向いた魔王の左手から滅魔法が発射されると同時に、ヨウは地面に足を付くや否や再び地面を強く蹴り、魔王に急接近する。つもりだった。

 ヨウの足から力が抜けて、駆け出そうとした勢いのまま地面に倒れる。

「……は?」

 片膝を付き、力の入らない両足と血に戻った左腕に呆然とするヨウをしばらく見てから魔王は「あぁ」と納得したように呟いた。

「身体の限界が来たんだね」

「……限界」

「うん」と気の抜けた表情をした魔王は黒血剣を捨てて黒滅剣を作り出しながら言う。

「君の……というか地球人が使ってる身体は、大司祭が作った、ティノジアの世界に対応したものだよね? でも、悪魔化っていうのはティノジアの外、ここ魔界の力だ。だから身体が耐えきれなくなったんじゃないかな。僕も君を魔物化させる時、少しだけ気になってたことだし」

 魔王が剣と黒の球体を手にゆっくりと近付いてくるのを見て、ヨウは足に力を入れる。しかし、両足は震え、立つだけで精一杯だった。

「まだやるんだね。なら、僕も最後まで全力でやらせてもらうよ」

 右腕はまだ動く。ヨウは右手に滅の剣を作り出すと、その場で迎え撃つように構えた。

 中距離から発動された滅魔法を縦に両断し、先程と同じように一気に詰めてきた魔王の剣を滅の剣で受ける。剣同士は相殺するが、勢いと踏ん張りの差で、ヨウが明らかに押された。

「その身体でよく防いだね!!」

 魔王が叫びながら血の剣を作りだそうと横に手を伸ばすと同時に、ヨウの右手は武器が収納された空間へ入っていた。血の剣にも劣る普通の武器で戦うつもりか? と眉を潜める魔王の前でヨウが取り出したのは、黒い西洋剣。それは間違いなく、滅魔法で作られた剣だった。

 なるほど、と魔王は思う。滅の剣を別空間で長時間維持することは不可能だ。おそらく、戦いが始まる直前に作っておいたものだろう。そして、これがヨウの切り札だったのだ。すでに生成されたものを空間から取り出せば、滅魔法から作るより遥かに、それどころか血の剣を作るよりも早い。これで隙を突くつもりだったのだろう。

 もっとも、ここまで追い詰められなければ、の話だが。

 剣を振りかぶり距離を詰めてくるヨウを殺すことは、今の魔王にとっては造作もないことだった。それほどまでに、隙が大きい。先程までの戦いを思い出して悲しくなるほどに。

 剣を障壁で止めて、滅魔法を放っておしまいだ。魔王の左手に球体が出来る。

 そして、障壁を張るため、右手をヨウに向けて――――


『なぁティア。空腹のこと以外は相変わらずどうでもいいんだよな?』

『えぇ。これ以上例外を増やす気もないわ』

『ならさ、一つだけ頼みがあるんだけど、聞いてくれるか?』

『……なにかしら?』

『もしも討伐軍の……人間軍の奴らが俺の天命を知って、戦うことを止めちまっても、お前だけは一緒に戦ってほしい』


「……そんなの、当然よ」

 耳に届いた微かな声に、魔王は目を見開き、右手を素早く横に向けて障壁を作る。

 そこに突き刺さったのは、光の矢。それを放ったのは、壁に背を持たれたまま右手を前に伸ばしているティアだろう。

 油断していた。それは認めよう。だが、これで終わりだ。

 魔王は前を見ると、飛びかかってくるヨウに黒い球体が浮いた左手を伸ばした。

 この魔法を防いだところで、もう攻撃を避けるほどの体力も気力も残っていないだろう。先程の援護がもう少し早ければ、ヨウの身体が限界を迎える前であれば、僅かな隙を突くことも出来たろうに。

「残念だよ」

 呟きと同時に滅魔法を放ち、魔王に向けて振り下ろされた滅の剣と衝突した。

 戦いの結末が見えたと言わんばかりに冷めた表情の魔王に対し、ヨウは必死の形相で滅の剣を握る手に力を込める。滅魔法が左右に分かれ散っていく中、あと僅かというところで、小さな音が響き、滅の剣に亀裂が入った。

「ここまでだね。よく耐えたって褒めてあげるよ」

 滅魔法が途切れると同時に、刃全体に亀裂が走り、小さな音とともに割れて――――そこから、白銀に光る刃が姿を現した。

「一瞬の油断が命取りなんだろ?」

 魔王は一瞬目を見開くが、すぐに「あぁ」と満足したように目を閉じる。

「あの子の剣か」

 白銀の刃が魔王の身体を袈裟切りに両断する。

 ヨウは足に力が入らず、勢いそのままに地面を転がるが、同じように倒れている魔王にすぐさま顔を向けると、黒い球体が浮いた右手を上げ、地面に向けて振り下ろす。

 その瞬間、滅魔法が轟音とともに魔王を押し潰した。

 打って変わっての静寂。誰もが口を開くどころか身動きすらとれずにいる中、最初に動いたのは、ティアの傍らで同じように地面にへたり込んでいたシアだった。駆け出そうと力を込めた足がもつれ、その場に倒れる。限界を迎えてなお、ティアに魔法一発分の治癒魔法を掛け続けたことによる反動だ。

 キョウカはシアに駆けよりながらも、部屋の中央から目を離せずにいた。

 床にある滅魔法による亀裂。それ以外には、何もない。

「……勝ったのか?」

「えぇ」

 シアを起こしながらキョウカが呟いた言葉に答えたのはティアだった。

「勝ったのよ」

 静寂が徐々に破られ、勝利を喜ぶ声や雄叫びが部屋中に広がっていく。

 そんな中、ヨウは寝返りをうって仰向けになると、天井を見上げて小さく「勝ったんだよな」と呟き、右腕を顔の前に上げた。

 指先が、微かに透けている。

「勝った」

 これが、なによりの証拠だ。



「ヨウ!」

 その声に右手を下ろして顔を向けると、キョウカがシアに肩を貸しながら歩いてきた。

「……ヨウさん」

「シ――――」

「ヨウ!!」

「ヨウさん!」

 言葉を遮るように、複数の声がヨウの名を呼んだ。

 コウタ、ガイア、ニコール、ユタカ、コハル、コマチ、ノゾミ達が、仲間に肩を借りるなどして近付いてくる。

「大丈夫ですか? 身体の方は……!!」

 上半身を起こしたヨウの横にシアがしゃがみ、両手で右手を掴んだ瞬間、息を飲み、言葉を失った。

「悪い。あんまり時間ないから、手早く挨拶させてくれ」

 ヨウはそう言うと、周囲に集まった面々のうち、ガイアとノゾミに目を向けた。既に彼女達もヨウの身体の変化に気付き、顔を強張らせていた。

「二人には色々助けられたし迷惑掛けたな。ノゾミはコウタをサポートしてくれてたし、ヒックリカエルの時なんかすげぇ迷惑掛けたし。ガイアはデカ蛙の時とか。アカネの面倒も見てくれてたしな。顔合わす度に襲われるのはめんどくさかったけど、なんだかんだで楽しかった」

 ノゾミは眼鏡を外して涙を拭いながら首を横に振った。

 ガイアはニコールに肩を借りたまま、目に力を込めてヨウを睨み付ける。

「こんな勝手な行動……本当なら隊長として文句言いたいけど、あんたが決めたことなら何も言わない。ありがとう、とだけ言っておくわ」

「ヨウさん、ありがとう、ございました……!」

 涙を流す優しい少女と、最後まで討伐軍隊長として立っている少女の真面目さと不器用さに笑みをこぼしながら、ヨウはニコールとコマチに顔を向けた。

「ニコとコマチもありがとな。こうしてギルドと協力出来なかったら、ここまでこれなかったと思う」

「……自己犠牲など、マキシムだけでなくギルドでもっとも恥ずべき行為だ」

 涙を流すコマチの横でニコールが苦虫を噛み潰したように言う。

「自己犠牲じゃねーよ。自分を守った結果だ」

 清々しい声に、ニコールは口を噤み、小さく溜め息を吐いて右手で両目を覆った。

「それなら、私も何も言わん。私が時間を取るのも悪いからな。ほら、コマチもなんか言っておけ」

 コマチは涙を拭いながら大きく頷くと、ヨウに向かって深く頭を下げた。

「ヨウさん、色々、助けてくれたり、ユタカさんのこととか、ありがとうございました」

「あぁ。俺こそ、コマチの治癒魔法には助けられた」

 肩を震わせたまま顔を上げないコマチに笑みを向けてから、ヨウはコハルを見る。

 涙を目に溜めながらも、しっかりと視線を向けてくるコハルに、ヨウは思わず小さく笑った。

 やっぱり、コハルは強い。そして、優しい。

「俺が後悔しなかったのはコハルのおかげだ。だから、お前も俺のことで後悔しないでくれ。なんなら、これに、なんでもいうことを聞く約束を使ってもいい」

 コハルは少し堅い笑みを浮かべ、しっかりと頷いた。

「分かりました。ヨウ様のことは、私、生涯忘れません」

 ヨウが頷き返すと、完全に両足が消えているのが視界の隅に入った。しかし、気にする様子もなく、すぐに顔を上げてユタカを見た。

「……………………」

「…………なんだ、僕には何もないのか」

「あー、なんというか、もともと普通の会話とかあまりしなかったしな」

 その言葉に、ユタカは短く笑う。

「でも、ユタカにはやっぱり礼を言わなきゃだな。俺が勝手にいなくなった後のこととか、色々シアから聞いた。本当に色々とありがとな」

「……いや、礼を言うのは僕の方だろう。君が討伐軍に勧誘してくれなければ、僕はずっと変われなかったと思う」

 ユタカは一度頭を下げると、自分の番は終わりだと言うように一歩下がった。

 普段ひねくれ気味の二人が素直に会話したせいか、ヨウは照れ臭そうな表情をしながら辺りを見回し、遠巻きにヨウ達を囲む隊員達の隙間にティアを見つけた。

「ティア」

 短く呼ぶと、ティアは無表情のまま神官二人に付き添われて歩いてくる。

「邪魔にならないように距離を置いていたのだけど」

「別に邪魔じゃねーよ」

 ヨウは困ったように笑ってから、ティアに笑みを向ける。

「とりあえず、ラキナ達……特にロキナに謝っといてくれ。泣かせちまったし」

「ひどい人」

「自覚してる」

 ヨウの脳裏に泣きじゃくるロキナの姿が浮かび、視線を斜めに落としながら困ったように笑みを浮かべる。結界を解いたのもヨウを転移で送ってくれたのもラキナだったが、それは妹達を傷付けないための選択だったのだろう。

 自分の我儘に、たくさんの人を傷つけ、巻き込んだ。ティアも、その内の一人だ。

「悪いな。お前には、辛い役させちまって」

「……別に、気にしなくていいわ」

 感情の籠っていない言葉。

ティアは思う。自分は、ティアという一人の人間である前に大司祭だ。

「私はティノジアのために行動しただけ」

 そうだと思えば、いつだって、辛い現実も、非情な選択もなんともなかった。

「それ以外のことは、どうでも――――」

 そして、ティアの頬を涙が伝った。

「…………あら」

 本人でさえ目を丸くするほど不意に流れた涙は止まることなく瞳から溢れていく。静かな部屋に響く嗚咽が、また一つ増えて、ティアはその場に両膝を立てて座り込むと、顔をうずめた。

「悪いな」

 再度響くヨウの謝罪。

「でも、なんか少し安心した」

 その言葉に、ティアが涙で濡れた顔をゆっくりと上げ、微かに笑って見せた。

「本当に、ひどい人」

 再び膝に顔をうずめたティアに笑みを返してから、ヨウはコウタに顔を向ける。

 十年以上の付き合いになる友人。口には出さないが、親友。だからこそ、何を言えばいいのか、一番分からない。

「コウタの泣きそうな顔、久し振りに見たな」

「……誰のせいだよ」

 コウタは涙の溜まった目を拭うと、深呼吸をしてからヨウを真っ直ぐに見る。

「駄目だ。口を開くと、きっと文句ばっかり出る。だから、ヨウから何かあるなら言ってよ」

 その言葉に、ヨウは苦笑してから「じゃあ」と言う。

「悪いけど、父さんと母さんに謝っといてくれ。あと、シアのこともよろしく頼む」

 コウタが口を噤んだまま大きく頷いたのを見て、ヨウはシアの斜め後ろに立っているキョウカを見る。

「キョウカも、隣の県に住んでるんだっけか? 出来れば向こうに帰ってからもシアと仲良く――」

「当たり前だ。お前に言われるまでもない」

 キョウカは涙の滲んだ瞳でヨウを真っ直ぐに見る。

「お前がいない間は私がシアを守るって約束したからな」

 だから、と続きそうな物言いに、ヨウは笑ってから、ゆっくりとシアに顔を向けた。

 既に、ヨウの身体は胸の辺りまで消えている。それでも、シアの手に包まれている右手の温もりは感じることが出来た。

「シア」

 右手を胸に抱えて俯いていたシアが、そっと顔を上げる。

 今にも泣きそうな。涙を流していないことを不自然に感じるほど苦しそうな表情に、ヨウの表情が悲しげに曇る。

 シアにこんな表情をさせているのは、自分自身の行動。そして、三年前の言葉だ。

 ヨウはシアの手をそっと握り返すと、一言、

「ごめん」

 と謝った。

『俺は、絶対に泣かせない』

「本当は、泣いてほしくないわけじゃなかったんだ。ただ、それを受け入れる勇気がなかったから、あんな中途半端なこと言っちまったんだ」

 シアの瞳に、ゆっくりと涙が溜まっていく。

「後から笑えるなら、泣いてもいいんだ」

 溜まった涙が、そっと零れた。声を殺して泣くシアが、三年前の姿と重なる。

 ヨウは右手をゆっくりと離すと、シアの頭に回してそっと引き寄せた。

「本当は、あの時もこうしたかった」

「……あの時されていたら、危ない人と、思ったかもしれません」

「それ涙ながらに言う必要あったか?」

 苦笑するヨウの見えない背中に、シアの両手が回される。

「でも、今は、嬉しいです」

「そりゃよかった。片腕無い上に身体ほとんど消えかかってるってのが相変わらず中途半端だけどな」

 ヨウは軽口を叩いて笑う。

 そして不意に、不自然に、その笑い声が消えた。




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