嘘吐き達の宴
人間軍全員がレイリアに帰還した頃には、既に日が沈んでいた。人間軍が魔王の右腕たる悪魔を倒したという噂はすぐに広まり、町中が即席のパレードと化して喜びや期待の声でざわめく中、討伐軍敷地にある食堂ではシアやコウタ達、討伐軍から選ばれた精鋭達が遅めの夕食をとっていた。疲れ切って夕食を食べずに休息をとっている者や病院に入っている者もいるため、精鋭達の数はそれほど多くはない。疲労しきった彼等に他の隊員達も遠慮しているのか、労いの言葉を口にするくらいで、質問責めにされることもバカ騒ぎが起こることもなく、静かなものだ。
食堂の隅にある四人席には、コウタ、モーゼズ、その向かいにシア、コハルの四人が座っている。
「天の使いフェリシタ、ですか。千年前は勇者様や大司祭様の補助役として活躍したという記録が残っていますが、そこまで凶悪な力を手に入れたのはやはり魔物化の影響でしょうね」
モーゼズの言葉に、三人はそれぞれ頷く。四人とも既に夕食を終えて、テーブルの上には何も乗っていない。
「俺は運が良かったよ。白い球の対象にされなかったからね」
球体に掛けられた魔法によって倒れた七名は、フェリシタの死と同時に痛みも引いたが、万が一を考えて今晩だけ入院している。
コウタは苦笑のような照れ笑いのような顔をすると、先程まで黙々と食事をとっていたコハルの方を向いた。
「コハルさんもお疲れ様。コハルさんの捕縛魔法には助けられてばっかりだ」
その言葉に、シアがうんうんと頷く。
「あんなに大きな敵を捕縛出来るなんて凄いです」
「いえ、そんな……。指揮官さんがこっそりと『何かあったらフォローする』と言ってくれたおかげです。実際、助けていただきましたし……」
「へぇー、ユタカが……」と声を揃えて静かに驚くコウタとモーゼズとは対照的に、シアは、
「流石はユタカさんですね。細かいところまで気が利いています」
と納得していた。力量は認められているものの、その人格については人によって評価がかなり異なるのがユタカである。
「あの、ユタカさんはもうお休みになられたのでしょうか。お礼を言いたいのですが……」
思い出したように辺りを見回すコハルに、コウタが「あぁ」と口を開いた。
「ユタカなら、ヨウや大司祭様と一緒に大神殿に行ってるよ。血の魔法を隠していたことに文句を言うって本人は言ってたけど、ヨウのことが気になってるんじゃないかな」
俺だって気になるし、とコウタが付け加えた言葉に、シアとコハルは俯き気味に頷く。
ティアがヨウを大神殿に連れ帰った理由は、一時的に抑えているだけの魔物化魔法を完全に消滅させるためだ。それが無事に終われば、ヨウに魔物化の心配はなくなる。
だが、
『本人には言っていませんが、彼の魔物化は短時間でかなり進行していました。完全に取り除くのは難しいと思います』
別れ際、ティアがそっと口にした言葉が、三人の脳裏によぎる。魔物化魔法が残る以上、何の拍子で魔物化するか分からないヨウを戦場に連れて行くことは難しいだろう。ユタカもそれを察したからこそ二人に同行を申し出たのだ。
「人型魔物は人間が魔物化した姿。初めこそ驚いたけど、ムソウも人間らしい仕草をしてたし納得したよ。あまり人には言わない方がいいっていうのにも賛成だ」
コウタの言葉にモーゼズが頷く。
「そうですね。やはり戦いにくくなる人もいるでしょうから」
口には出さないが、ヨウが魔物化したら、という考えが誰にもの頭に浮かんでいた。
勝てるかどうかは別の話として、殺すことが出来るのか。
殺せる、と即席出来る者は、この場にはいなかった。
「手術成功おめでとう」
「ありがとな」
「ちげーよ。そこに書いてるやつ読んだだけ。俺からすればどうでもいいことだし」
鞄を床に置き、椅子に座りながら寄せ書きを指差して言う陽に、祐輔はベッドで上半身を起こしたまま「あっはっは」と大口を開けて笑い、「でも、ありがとな」と口にする。
その言葉に思わず顔をしかめた陽だったが、ふと思い出したように、
「退院はいつ頃になんの?」と訊いた。
「まだしばらくはこのままだな。早く退院して仕事したい気持ちはあるんだけど、身体が付いて来てくれない」
「そんなに教師って面白いのか?」
「面白い。それは間違いない。でも今は仕事を楽しむ以上に金を稼がなきゃ、って気持ちが強いな。陽も、入院、手術なんてことになったら大金が吹き飛ぶからな。今のうちから金は溜めとけよ」
「世の中金だな」
「そこまで割り切らなくても、金は大切くらいに考えておけばいいさ」
そう言うと、祐輔はベッド横の棚に置かれたデジタル時計を見る。
「そろそろ詩亜が来る時間だな」
という呟きを聞いた陽は、
「じゃあ俺は帰るかな」と言って鞄に手を伸ばし、腰を浮かす。
「なんだ。会っていかないのか。口説かないなら話くらいは許してやるぞ」
「会っても話すことないし」
「俺が担任してた頃の格好いい昔話とかさ」
「逆上がりの手本を見せようとしてケツから落ちた」
「それは言わないでくれ」
その真剣な表情に陽が思わず笑みを浮かべると、祐輔も歯を見せて笑う。だが陽は、そんな表情を見て怯んだように顔を逸らす。
「照れるなよ」
「……照れてるわけじゃねーよ」
無愛想な答えに祐輔は苦笑する。
「冗談だよ。六年間担任したんだ。陽のことは少しくらいなら分かってるつもりだしな。……そういえば、鉄棒で思い出したけど、陽と幸太が仲良くなったのも小一の頃の鉄棒の授業がきっかけだったな」
「……そうだったっけ?」
「あぁ。陽は最初から逆上がりが出来てたけど、子供の頃の幸太は運動音痴で全然出来るようにならなかった」
今でこそテニス部で活躍している幸太だが小学生の頃は確かに運動が苦手だった。それは陽もなんとなく覚えているが、祐輔の話の記憶はまるでない。
「周りがどんどん出来るようになっていく中で、一人だけ出来ないことを恥ずかしく思ったのか悔しく思ったのか、幸太は泣き出してしまったんだ」
思い出せないものの、その先がなんとなく想像出来て陽が顔をしかめると、祐輔はそんな表情を楽しそうに見ながら話を続ける。
「そこに俺より早く駆けつけたのが陽だった。『僕が教えて上げるから泣かないで』ってな」
「うぇ」
「そんな嫌そうな顔するなよ。俺の中では感動エピソードなんだぞ。その後の『足で地面をズバッて蹴ってクルンって回るだけ』っていう教え方には思わず笑っちゃったけどさ」
くくく、と笑いを堪えている祐輔を陽はしかめ面で見下ろし、踵を返す。そのままカーテンに手を掛けた時、背中に飛んできた祐輔の声に、陽は動きを止める。
「まぁ、それで一件落着したのは、結局のところ二人が小さな子供だからなんだよな。少し成長すれば、そう簡単にはいかない。泣いてる人を笑わせるのは、歳をとればとるほど難しくなる。それでもどうにかしたいって思ってしまう。でもどうにもならないから、最初から気付かないように興味のないフリをする」
「……俺は聖人君子じゃねぇぞ」
振り向き、薄く笑いながら言う陽に、祐輔も笑みを返す。
「知ってるよ。普通の人間だから迷ってるんだろう? それに、これは別に陽に限った話でもないと思うし、誰もが持ってる気持ちだと思うよ。その気持ちに対して陽は人より少し不器用で、色々考えすぎてるだけだ。悪いことじゃあないけどな」
「先生こそ色々考え過ぎだよ。俺はただ興味ないだけだ」
「あんなに可愛い詩亜にもか?」
「ぐちゃぐちゃの泣き顔しか覚えてねぇよ」
「だから会いたくないのか?」
その問いに陽は口を噤む。何故会いたくないかで言えば、確かにその通りだった。
「陽が気にすることじゃない。詩亜を泣かせたのは俺だし、親子の問題だ……って言っても納得しないんだろうな」
祐輔は苦笑してから柔らかい笑みを浮かべて陽を見る。
「それなら、やっぱり陽は詩亜と会うべきだ。言葉にしなくてもいいから、詩亜の味方になってやってくれ。それで後悔することになっても、それはきっと後に生きる後悔だ」
大神殿にある、がらんとした広い部屋では、ラキナ、ルキナ、ロキナの三姉妹が床に描かれた三角形の点にそれぞれ立っている。目を瞑ったまま両手を合わせて指を絡める彼女らの祈りに呼応するように青白く淡い光を放つ三角形の中心には、仰向けになっているヨウと、その傍らで両膝をついたままラキナ達と同じ様に祈るティアの姿があった。
ティア達の他、室内には、ユタカと五人の神官が扉付近に立っている。
「……ユタカ様」
一人の神官の小さな呼び掛けに、ユタカは顔を向ける。
「魔物化解除の儀にはまだ時間がかかりそうです。今日はお疲れでしょうし、お休みになられた方が……」
「いや、大丈夫だ」
掌を向けて断りを入れると、ユタカは真っ直ぐにティアとヨウを見る。
儀式を初めてから既に六時間が経過した。開始と同時に意識を失ったヨウも、ティアもラキナもルキナもロキナも、誰一人として微動だにしない光景は、一枚の絵画にすら思えてくる。
そんな中、ロキナの身体が不意に揺らいだ。
ユタカの近くにいた神官達が駆けつけようと前傾姿勢になった瞬間、ティアが絡めていた指をほどき、両手をヨウの胸に重ねる。
ティアとヨウを包んでいた淡い光が消えたのを見て、ユタカは二人に近付いた。
「……どうなったんだ?」
その問いにティアは顔を上げて、首を横に振る。
「魔物化魔法が身体に馴染みすぎていて、完全に除去することは出来ませんでした」
ユタカの眉間に皺がよって、軽く唇を噛む。
「今は、彼の胸の刻印……」
ティアがヨウの着ているシャツの襟を掴み軽く下に引くと、そこにはティノジア文字が一文字刻まれていた。
「これによって封印していますが、それも絶対のものではありません」
「じゃあ……」
「はい。大司祭として、彼を戦場へ連れて行くことは許可出来ません。もし、また魔王から同じ魔法を受ければ、彼は間違いなく魔物化します」
「……そうか」
ユタカは小さく呟くと、眠ったままのヨウに目を向ける。
「大司祭ティアクリフト、どうかこのことはヨウには黙っていて欲しい」
その言葉に、ティアも同意するように無言のまま頷いた。
翌日の昼に目を覚ましたヨウは、大神殿で昼食を終えると、ティアと共にレイリアへ来ていた。
大司祭であるティアはもちろん、ヨウもこの町では顔を知らない者がいないくらいに有名になっていて、二人は町民に度々話しかけられながらもなんとか討伐軍拠点へと到着する。
「……懐かしい?」
口を半開きにして黙ったまま拠点を見上げるヨウに、ティアが小首を傾げる。昨日は広場に集合で、その前日はタケノマに泊まったため、こうして拠点に来るのは、ティアと旅に出かける前、約一ヶ月振りとなる。
「懐かしい、か。どうだろうな。なんか変な感じだ」
ヨウがそう返した時、拠点の扉が開くと、そこには珍しく私服姿のシアとキョウカが立っていた。
「げ。もう帰ってきたのか」と顔をしかめたのは、赤いロングTシャツと膝上のスカートを穿いているキョウカだ。
「ティア、いきなり『げ』って言われた」
「それはそうよ。勝手に軍を抜けた人を歓迎するわけないでしょ」
「人を傷付ける正論は正論じゃなくて暴言なんだぜ」
そんなやり取りを複雑そうな表情で見ていたシアだったが、はっと顔を上げると、少し無理やりな笑顔を浮かべると二人に小走りで駆け寄る。
「ヨウさん、おかえりなさい。まさか大司祭様もご一緒だとは思いませんでした」
「あぁ。まさか付いて来るとは俺も思わなかった」
「私だってたまには休みたいわ」
一ヶ月間のんびり休んでただろ、というヨウの視線に、ティアはそっぽを向いてから、思い出したようにシアとキョウカに目を向ける。
「だから、あなた達もかしこまらずに話しやすいように話してくれていいわ。なんならティアちゃんと呼んでくれてもいいわ」
「三十路にもなって何言ってんだティアちゃん」
呆れ顔をするヨウと再びそっぽを向くティアの前で、キョウカがそっとシアの腕を肘でつつき、耳元に口を寄せる。
「シア、こうなったら、ヨウと一緒に町でも回って時間を稼いでくれ。私は大司祭様に事情説明しとくから」
「えぇ!? でも私がいないと料理が……」
「シアの他にも料理が出来る奴くらいいるだろ。そこら辺も任せとけ」
ちなみに、そういうキョウカは料理が出来ない分類の人間である。ただし食材を切るのは大得意。
「ヨウ、若い女の子がイチャイチャしているわ。眼福ね」
「見た目は子供で実年齢が三十路で精神はおっさんってもうわけ分かんねぇな」
二人とも無表情のまま言葉を交わしているうちに内緒話はまとまったのか、シアとキョウカが顔を上げて二人を見る。
「ヨウさん、突然ですが、ここは二手に別れましょう」
「本当に突然だな。ていうか俺としてはコウタとかガイアに会いたいんだけど……」
「うん。良い案だな、シア。私も賛成するぞ」
「キョウカ、どこをどう見て何が良いと思ったんだ?」
「そうね。私も賛成よ」
「俺を孤立させたいがためにノっただろ、お前」
一応律儀にツッコミを入れていったヨウだったが、こうなっては反論も無駄なので黙って流されることにする。
「じゃあ私とヨウさんが別行動を取ります。キョウカさんと大司祭様――」
「ティアちゃん」
「……ティアさんは、ここで待機をお願いします。それでは、また夕方頃に」
「なぁ、シア。何の作戦なの、これ」
ぼやくヨウの背中を押しながら歩いていくシアを、キョウカは苦笑で、ティアは無表情のまま手を小さく振って見送る。通りを曲がって二人の背中が見えなくなると、ティアはキョウカを見上げた。
「それで、どうしたのかしら。あの二人にデートさせたかったわけじゃないでしょう?」
「えーと……、はい。実は今……」
ティア、キョウカと別れたヨウは、シアとともに町を歩きながら、門前払いに近い扱いを受けた理由を考えていた。
やはり一番に浮かぶのは、ティアが冗談っぽく口にした理由だが、それは出来ることなら考えたくはない。しかし、それ以外の理由がまるで浮かばない。二人の対応からして、それほど気にするようなことでもなさそうだが……。
まぁいいか、とヨウは考えることを止める。夕方には戻れるようだし、今はシアとの時間を楽しもう、と気を取り直して隣に顔を向けると、
「………………」
眉尻の下がった悲しげな表情をしたシアがヨウを見上げていた。
「シア、どうした?」
「……いえ、ヨウさんが今までどれほど大司祭様に失礼をしてきたか想像出来て悲しくなっただけです」
というか、とシアの語気が若干強くなる。
「女性に歳のことを言うのは目上目下関係なく駄目です」
「だ、だってアイツ、自分でもよくネタにしてるし……」
「言い訳禁止です。いいですか。昨日の戦いで、大司祭様はヨウさんを何度も助けてくれました。言わば命の恩人です。そんな相手に三十路だの、てぃ、ティアちゃんだの……」
説教が始まってしまった。と疲れた顔をするヨウに、シアは目をつり上げる。
「つまり、ヨウさんは大司祭様に対して馴れ馴れしすぎるんです!」
「そうか?」
「そうです!」
そうなのか、とヨウは頭を掻きながら、でもまぁ確かに、昨日は戦いの後、すぐに魔物化を解除してくれたわけだしなぁ、と考えていると、ふと、あることを思い出した。
「そういえば昨日な、夢に先生が出て来たぞ」
「お父さんが?」
つり上げっていた瞳がすとんと落ちて、小首を傾げて聞き返したシアにヨウは頷く。
「夢っていうか、昔の記憶そのままだけどな。先生の手術が成功したころの」
「あ、もしかして私の話をしてました?」
「なんで知ってんだ?」
「その頃、お父さんがそんなことを言っていましたから。内容までは教えてくれなかったんですけど、どんな話をしてたんですか?」
「あー……、シアを口説いたら許さないって言われたな」
シアは苦笑しながらも可笑しそうにクスクスと笑う。
「それと、コウタと仲良くなった昔話とかも先生から聞いた」
「コウタさんとヨウさんの?」
ヨウは頷き、個人的に恥ずかしい部分を誤魔化しながら、祐輔から聞いた話をシアに話していく。
その途中、前方の何かに気付くと、シアの腕を掴み、街路樹に身を隠した。
「どうしたんですか?」
シアの問いに、ヨウは黙ったまま前方のある点を指差す。そこには、仲良さそうに話をしながら、こちらへ向かって歩いてくるコウタとガイアの姿があった。買い物でもしてきたのか、コウタとガイアの手にはそれぞれ袋が下がっていて、そこから野菜や果物が顔を覗かせている。
二人とも、シアやキョウカと同じく珍しい私服姿で、コウタはさておき、ガイアはロング丈のスカートを穿いている。
「……なんかガイアの格好、桜さんの服装に似てね?」
小さく呟いた疑問に、シアの肩が微かに震えるが、ヨウはそのことに気付かない。
「あいつ、意外と私服は清楚系なんだな。戦闘の時はミニスカでチラチラさせてんのに……」
「ヨウさん、何をチラチラさせてるんですか?」
「いや、なんでもない」
ヨウはじとっとした視線を横っ面に感じながら、すぐそばまで来た二人に気付かれないよう木の周りを少しずつ移動していくが、
「出来ることなら、私だってまだ別れたくはないわよ」
聞こえてきたガイアの声に、二人は顔を見合わせる。
「しゅ、修羅場でしょうかか?」
「マジでか。あの二人いつの間に……ていうかコウタの奴、桜さんがいるのに――」
「勝ち逃げされるなんて、本当に悔しいわ。魔王を倒す前にヨウの障壁を絶対に破ってみせるんだから」
「………………」
「まだ諦めてなかったんですね、ガイア隊長」
ヨウの障壁とガイアの大剣の対決は、討伐軍の中では『最強の矛VS最強の盾対決』と呼ばれている。ヨウが黒の障壁を覚えて、それがコウタの攻撃を防いだという話が広まった頃から始まった対決なのだが、その実は『アンタの障壁を破れば私がコウタより上ってことね』と言って切りかかってくるガイアをヨウが仕方なく対応していたのだ。
「……シア、今日のことは見なかったことにしようぜ」と親指を立てながら先程とは正反対のことを言うヨウにシアが白い目を向けた時、
「あはは。ほどほどにしてあげなよ。なんせ今のヨウは――」
「コウタさん!」
突然、木の陰から飛び出したシアに、コウタとガイアは驚きを浮かべ、ヨウは「うげ」と青ざめる。
「シアさん……と、そこに隠れてるのはヨウ?」
木の裏を覗くように身体を斜めに倒しながらコウタが言った言葉に、ガイアがピクリと反応する。
「……ヨウ、あんたなんで隠れてるのかしら」
「い、いや。お邪魔かなーって気を遣って……」
「この人、二人が修羅場ってるって楽しんでました」
「それ言ったのお前だろ!?」
ヨウを指差してしれっと言うシアにツッコミを入れている間にも、ガイアの髪が赤く変わっていく。
あちゃー、と苦笑するコウタの横へそそくさとシアは避難した。
「ま、待て、ガイア。流石に激高はマズいぞ。せっかく復興した町が壊れる」
「安心しなさい。私が壊すのはアンタ……の障壁だけだから」
「今の間はなんだ」
「壊されたくなければしっかり防ぎなさい!」
そう言いながら大剣を手にしたガイアを見て、ヨウは「ギャアァァ」と絶叫を残しながら逃げ出す。それをガイアもすぐさま追いかけ、二人はあっという間に見えなくなった。
「……えっと、すいません。本当にお邪魔しちゃって……」
覗き込むように見上げながら言うシアに、コウタは困ったように笑う。
「シアさんは分かってると思うけど、ただの買い出しだからね」
「でも、ガイア隊長からすればお邪魔でしょうから」
その言葉に、コウタは再度困ったように笑った。
「あいつ今朝まで入院してたんだよな……」
信じられん、と言外に言うヨウに、シアは苦笑を返しながら手元のカップを取り、口まで運ぶ。
追いかけっこ終了から十分後の現在、二人はチャノムギが美味いことで有名な喫茶店のオープンカフェで休憩していた。
「……そういや、ここも懐かしいな」
疲れ切ったのかテーブルに突っ伏していたヨウが顔を上げて呟く。
「ヨウさん、ここに来たことがあるんですか?」
「あぁ。ニコと一緒に」
「……へぇー。ニコールさんと……」
「そういや、コハルがチャノムギ飲んでみたいって言ってたな。連れてきてやればよかった」
「………………」
「ユタカはチャノムギよりゴルエメが好きだって言ってたけど、正直あれ不味いよな」
「……まぁ、そうですね」
ふと気付くと、ヨウはテーブルに顎を乗せたまま眠そうな目をしていた。
「モーゼズはブルジャロが好きらしいけど、苦いんだよなぁ、あれ」
「お仕事が忙しいでしょうから、眠気覚ましというのもあるのかもしれませんね」
「キョウカは確かラコが好きなんだっけか。意外と子供舌だよな、あいつって」
「本人もちょっと気にしているみたいですから、そのことでからかったりしたら駄目ですよ」
ヨウは目を薄く開けながら笑うと、
「シアは何が好きなんだ?」
と訊いた。
「……さぁ。なんでしょう。こういうところで一番飲んでいるのはチャノムギですね」
そう答えてから、カップを口に付けてテーブルに置くと、いつの間にかヨウは背中を緩やかに上下させて眠っていた。
「ヨウさんが一番好きなものはなんですか?」
当然、その問いに答えは返ってこない。いや、ヨウが起きていたとしても明確な返事はなかっただろう、とシアは小さく笑った。
そういうところが、自分とヨウは似ている。一番好き、を口に出さない、出せないところが。
違うところは、その理由。恥ずかしさから誤魔化すのがヨウだが、シアはその言葉を口に出すのが怖いのだ。それを言えば、また何かが壊れてしまう気がして。
「……シアさん?」
不意に背後から聞こえた小さな声に振り返ると、そこには私服姿のコマチとユタカが立っていた。二人の背後にある看板の陰にニコールがいたが、シアは見なかったことにした。
「と……、ヨウさ――!?」
思わず大声を出しそうになったコマチの口をユタカが塞ぐ。後ろのニコールが双剣を取り出したが、シアは見なかったことにした。
「す、すいません……」
少し顔を赤くしながら頭を下げるコマチに、ユタカは呆れたように溜め息を吐き、シアは「いえいえ」と手を振る。
「ヨウは眠っているのか。まぁ、すぐに取れるような疲労じゃないだろうからな」
シアは頷き、ユタカとコマチを順に見る。
「えっと、お二人はデートですか?」
「でっ!?」
「さっき偶然会ったコウタにも同じことを言われたが違う。マキシムに参加を呼び掛けに言ったら、何故か僕まで買い出しに付き合わされたんだ。まぁ、ギルドを回るついでだから構わないんだが」
涙ながらにコマチを送り出すギルドメンバー達の姿が浮かび、シアは苦笑する。しかも、ユタカがこの調子なので彼等の頑張りも無駄なようだ。頑張ったら頑張ったでニコールに背後から斬られかねないが。
「コマチ、僕らも少し休んでいかないか」
「あ、はい!」
「……あまり大きな声はださないように」
「あ、はい……」
ヨウが目を覚ましたのは、大分日が傾いてからだった。
「んあ?」と間抜けな声とともに顔を上げたヨウは、笑顔のシアを見て大きく目を見開く。
「……俺、寝てたか?」
「はい。三時間ほど」
「マジでか。悪いな」
「いえ。少し前までユタカさんとコマチさんがいてくれたので」
「ユタカとコマチ? あの二人もデートかよ」
「え」とその言葉に少し驚くシアだったが、二人も、というのがコウタとガイアを指しているものだとすぐに気付いて誤魔化すように笑った。
「あはは……、そうみたいです。ユタカさんにそのつもりは無さそうでしたけど」
「コマチも大変だな」
鈍感なユタカだけでなくニコールのことも思い出し、シアは大きく頷いた。
ヨウは大きく身体を伸ばしてから近くの時計に顔を向けて、
「じゃあそろそろ拠点に……」
と言ったところで不意に口が止まった。シアが首を傾げると、
「ていうか、コウタ達に顔見せに来たわけだし、拠点に行く理由無くなったな……」
その言葉に、シアは「え」と口元をひきつらせる。
「ティア見つけて神殿に帰るかな。あいつ、キョウカとどこ行ったんだ?」
「えっと、多分、拠点にいますよ。食堂で休憩してるんじゃ……」
「あ、いたわよ、キョウカ」
背後から聞こえた声にシアは更に口元をひきつらせる。つくづく思い通りに動いてくれない人達だ。
「おー、ティア」
「いつまでも帰ってこないから、お邪魔を承知で迎えに来たわよ」
「いや、いいタイミングだ。ちょうど神殿に帰ろうかと思ってたところだから」
ヨウが言うと、ティアは「あら」と口を開け、その後ろについてきたキョウカは「え」と言葉を漏らす。
「もう帰るの?」
「あぁ。コウタやユタカにも会ったし、顔見せとしてはもう十分だろ」
ティアは「ふぅん」と呟きながら、キョウカとシアを横目に見る。
「よ、ヨウさん、魔王討伐までこちらに帰ってくればいいじゃないですか」
「そ、そうだ。お前は一応まだ軍所属だし、部屋だってそのまま残ってるぞ」
「いや、流石にそれは気まずいだろ。大変な時期に勝手に軍抜けてたわけだし」
苦笑するヨウを、それでもなんとか留まらせようとするシアとキョウカ。しばらくの間、それをぼーっと眺めていたティアだったが、
「まぁ、本人が行きたくないならしょうがないでしょう」
と言って、ヨウの腕に自らの腕を絡める。
「さぁ帰りましょう。今日も私の部屋で寝る?」
その言葉に固まる二人に気付かずに、ヨウは平然と、
「まぁ、その方がいいならそうするけど」
と返す。二人が同じ部屋で寝たのは、万が一、封印に何かあった時のためなので、平然としているのは当然のことだが。
ティアは珍しく笑みを浮かべながら上目遣いをする。
「昨晩はあなたのせいでヘトヘトになったし、今晩くらいはゆっくり寝かせてちょうだい」
「あぁ、まぁそりゃ悪かったって今朝も――」
「ヨウさん!」
テーブルに両手をついて勢いよく立ち上がったシアは、目を丸くしているヨウに鋭い視線を向ける。
「な、なんだよ」
「今日は軍寮に泊まってください」
「いや、だからそれは……」
「泊まってくれなきゃ、ヨウさんは大司祭様に手を出したロリコンだと言い触らします」
「嘘よくない」
ヨウは怪訝そうな表情をしながらも小さく溜め息を吐くと、頭を掻きながら席を立った。
「……まぁ、そこまで言うなら泊まっていくか。久し振りに食堂の飯も食ってみたいしな。ティアはどうする?」
まだ腕にしがみついているティアを見下ろしながら訊くと、
「そうね。お金もないし、あなたの部屋に泊めてもらえると――」
「大司祭様は私の部屋に泊まっていただきます!」
有無を言わせぬシアの口調に、
「お、おう。じゃあ頼む」と返したヨウと、それでもなお不満そうな表情をするシアを、ティアは意地悪げな笑みで見上げる。そんな三人に、キョウカは呆れた表情で溜め息を吐いた。
拠点の前まで戻って来たヨウは、そこで一度足を止める。腕にしがみついているティア、それに少し遅れてシアとキョウカも足を止めて、拠点を見上げているヨウに振り返る。
「どうしたんだ、ヨウ。食堂に行くんだろ?」
ティアを見て「ぐぬぬ」と小さく唸っているシアを横目にキョウカが訊くと、ヨウは、
「あぁ、そうなんだけどな。でも夕飯には早いし、改めて顔見せに行っといた方がいいかと思ってな。アデルとかフウズイにも会ってないし」
「後でいいんじゃないか? 食堂にいたらそのうち二人とも来るだろう」
「それもそうだな」と拠点を迂回するように歩き出したヨウの腕にくっついているティアに、シアは目を向ける。
「あの、大司祭様」
「なにかしら。あとティアって呼んでちょうだい。なるべく目立ちたくないの」
「……ティアさん」
「なにかしら」
「ヨウさんにいつまでもくっついてると身体がかぶれますよ」
「あら、そうなの?」
「かぶれねぇよ!」
思わずツッコんだヨウのことは一切気にせず、ティアは静かに視線を返す。
「でも私は大丈夫みたい。もしそうなら、今頃身体の隅々までかぶれちゃってるから」
「うぐぐ」と喉を鳴らすシア。もちろん冗談であることは分かっているが、からかわれることにはあまり慣れていないうえ、そういう話題は苦手なのだ。
「と、とにかく離れてください。ヨウさんも重たいでしょうし……」
「ん? 俺は平気だぞ? ここ一ヶ月ずっとおぶってたこと考えれば軽いもんだ」
「おぶ……!? で、でも大司祭様がこんなことしてるのはあんまり良くないんじゃ……」
その苦し紛れの言葉にティアは、
「……それもそうね」
と同意すると、腕をほどいた。
「私は構わないけど、愛しのヨウに迷惑をかけるのは嫌だもの。ここは涙を呑んで我慢するわ」
その言葉にヨウは呆れた表情をしていたが、シアにそんな余裕はなく、「むっ」と不満を浮かべる。
そうこうしている間に、一同は拠点を迂回して食堂の前へ到着した。拠点の敷地に入ったものの、ここまで隊員とは誰とも遭遇せず、食堂の周りにも人っ子一人いない。
「……ここに来るのは本当に久し振りだな」
食堂を見上げながら言うヨウに、シアとキョウカは小走りで駆け、正面扉の両側に立った。
「どうぞ、ヨウさん」
シアの言葉と同時に、指を揃えた手で扉を示しながら言う二人にヨウはくすぐったそうに笑うと、二人の間に立ち、ゆっくりと扉を開いた。
そして、食堂の中を見ると、ヨウは大きく目を見開いた。
ヨウの目に飛び込んできたのは、カウンターの上に掛けられた『おかえり』の文字。そして、豪勢な料理が並べられたテーブルを囲むように所狭しと立っている多くの者達だった。コウタやガイア、討伐軍隊員もいれば、ニコールやコマチのようなギルドの者も、ギルやラサン達、王国軍の者もいる。
呆然としているヨウの背中を、「えい」とティアが押す。
若干よろけながらもヨウが食堂に足を踏み入れた瞬間、
「主役の登場だ!」とトドロキの声が響き、至る所から「おかえり」や「よく帰ってきた!」「久し振りー!」など、ヨウを迎える声が響いた。
「まぁ、こういうことだ」
そんな声に振り返ると、キョウカとシアが笑みを浮かべて立っていた。
「お前にはいつも驚かされてばかりだから、たまには私達が驚かしてやろうか、ってな。その顔を見るに、大成功みたいだ」
可笑しそうに笑うキョウカの横で、シアも満足げに微笑む。
「おかえりなさい、ヨウさん」
「あ、あぁ、ただい――」
反射的に口から出た言葉に、ヨウは微かに目を見開くと、ティアとキョウカに、困ったような笑みを向けてからゆっくりと身体ごと振り返る。
「ただいま」
一瞬、声が止んだ室内に、ヨウの言葉が静かに響いた。
そこから始まった宴会は大いに盛り上がった。ヨウも、コウタやユタカ達、討伐軍の者はもちろん、ギルやラサンなど、これまであまり話したことがなかった者とも打ち解け、様々なことを語り合い、久し振りにユリとノブユキの漫才を見たり、血の涙を流しながらコマチとユタカをくっつけようとする『マキシム』メンバーに苦笑したり、酔っ払ったパトラに抱きつかれて顔をむすっとさせるティアに笑ったりしながら夜は更けていく。
シアやキョウカ達女性陣はとうに自室へ戻り、大人の隊員の大多数が酔い潰れ、食堂内がようやく静かになってきた頃、隅の四人席に座っていたコウタの元に疲れた表情をしたヨウがやってきた。
「ノブユキの奴、やっと寝やがった。絡み酒と泣き上戸のコンボってすっげーめんどくさいのな。ユリのせいでロリコン扱いされて辛いとかしったこっちゃねーっての」
そう吐き捨ててから、ヨウはコウタをチラッと見て、
「まぁ、そっちはそっちで大変そうだな」
「あはは……。まぁね。少なくとも桜には見せられないかな」
苦笑するコウタに対面で抱きついているのはガイアだ。もちろん、素面ではなく酔いつぶれた結果である。
「この前二十歳になって今日が初酒って言ってたけど、まさかあそこまでグイグイ来るようになるとは……」
「好き好き言ってたな」
「起きた時、記憶が残ってないことを祈るよ。最悪、僕の記憶を消しに来そうだし」
その言葉に笑い合ってから、ヨウはそっと斜め上を見上げる。
「ガイアが二十歳。俺らも、この世界じゃあ成長しないけど、向こうじゃもう十八なんだよな。シアやキョウカ、ユリだって向こうじゃ高二なんだし、すっげー大人っぽくなってるかもしれないしな」
「あんまり想像出来ないけどね」
「まぁな」
可笑しそうに笑うヨウを、コウタはニコニコと笑いながら見る。
「なんか機嫌いいな。状況的に分からんでもないけど」
「いや、そうじゃなくて……。ただ、ヨウが向こうの話するのは珍しいからさ。ホームシックにでもかかったのかと思って」
「ちげぇし、だとしても笑う意味が分からん。そんな性悪だったか」
「そんな弱さを見せてくれるのは嬉しいことだからね」
コウタの笑みに、ヨウは「うぐ」と怯むと、やりづらそうに頭を掻く。
「……ま、ホームシックってわけじゃねぇよ。友達って呼べる相手ならティノジアの方が多いくらいだし。いつまでも意識不明で親に迷惑かけてんのは気になるけどさ」
コウタは「そうだね」と頷くと、
「ヨウはこの一週間どうするつもり?」と訊いた。
一週間後、人間軍は再び魔界へ赴く。魔王の言葉に偽りがなければ、最終決戦となるだろう。
「ティアの話じゃあ魔王に勝ってもティノジアにはもう戻ってこれないらしいし、今のうちに挨拶回りしとこうかと思ってる。ダンベルさんのところとか、シジンの里とか」
「あ、ダンベルさんのところは俺も行きたいな」
「多分そう言うだろうって思ってた。明日シアやコハルにも聞いてみるかな」
ヨウはそう言うと、大きな欠伸をしてから席を立った。
「俺もそろそろ寮で寝る……けど、コウタはどうすんだ?」
それ、とヨウが指さすのはガイアだ。
「あー、全然離してくれないし、男性寮に連れてくわけにもいかないから、隊長室のソファで寝るよ」
苦笑しながら立ち上がり、よいしょ、とガイアを抱え直す。
「そういえば、大司祭様ってどこで寝てるの?」
「あぁ、シアの部屋……の筈だったんだけど、酔っ払ったパトラにお持ち帰りされてたな」
そういや、あれからどうなったんだ、とヨウは女性寮の方を向いたが、そこにあるのは食堂の白い壁だけだった。
「……なぁ、コウタ」
壁を見たまま言ったヨウに、コウタは「ん?」と返すが、
「フェリシタが最後に言ったこと聞こえたか?」
その言葉に、表情が僅かに沈んだ。
「……まぁね。流石にフウズイ隊長には聞こえなかっただろうけど……。『勇者様、逃げて』って言ってたよね」
ヨウは頷き、チャノムギの入ったコップを手に取り、少しだけ口に含んだ。その様子を見ながら、コウタは再度口を開く。
「天の使いフェリシタ。千年前に勇者や大司祭様と魔王を封印した三大英雄の一人だね」
「あぁ。記録では男ってことになってるけど、容姿から本当は女なんじゃないかって言われてるな。伝記小説なんかでも女として書かれてるものも多いし、俺が読んでる小説もそうだった」
「あぁ、アカネが読んでたってやつ?」
ヨウは頷き、目線を壁から上げると、天井に向けて大きめな溜め息を吐いた。
「千年前のフェリシタを知る魔王が作った身体は女の身体だったけど、どう思う?」
「遊び心で……ってことはないだろうね。記録を知らないって言ってたし、やっぱり実際はそうだったって考えるのが正しい気がする。最期の言葉も、男性というよりは女性っぽいし」
「だよなぁ」と天井を見たままヨウは呟いた。
同時刻、女性寮の一室。部屋の扉が開く音でシアは目を覚ました。
来訪者が誰であるかは小さな影を見れば一目瞭然だったが、念の為、灯りを指で差して火を点ける。
「あら、ごめんなさい。起こしてしまったようね」
パトラの部屋で入浴は済ませてきたらしくネグリジェ姿のティアは無表情のまま言ってから部屋の扉と鍵を閉める。
「鍵、開けといてくれて助かったわ」
「……いえ」
「開いてなかったらヨウのところに行こうと思っていたから」
「………………」
だから開けときました、とは言えない。
シアはベッドから降りると、部屋の隅に畳んで置いてあった布団を床に敷いた。
「私はこっちで寝ますから、ティアさんはベッドへどうぞ」
毛布を広げながら言うシアをティアはじっと眺める。元々が一人用の狭い部屋であるため、満足に布団を広げるほどのスペースはなく、布団の四分の一ほどが壁にもたれてしまっている。
「逆の方がいいと思うわ。私の身体なら、それでも足を伸ばして眠れるもの」
「え……」とシアは目を丸くしてから、我に返って首を横に振った。
「でも大司祭様を……」
「今はオフよ」
「それでも、お客さんをこんなところに寝かせるわけにはいきません」
「堅いわね。若いのに」
ティアは溜め息混じりに言いながら、ベッドに顔を向ける。
「ならベッドで一緒に寝ましょう。あなたと私ならそう窮屈でもないでしょうし」
「え、でも……」
「断るなら私は勝手に布団で寝るわ」
シアは困ったように目を泳がせてから、恐る恐るといった具合に両手を胸の前で握ってティアを見た。
「なにもしませんか……?」
「………………」
「す、すいません」
無表情を向けられて思わず謝るが、ティアは「いいえ」と首を横に振る。
「怒っているわけじゃなくて、少し反省していたのよ。ヨウのことでからかい過ぎたかしら」
シアは再び目を丸くすると、「えっと……」と言葉に詰まりながらも苦笑を浮かべた。
「いえ、私も過剰反応し過ぎました」
布団を畳むと、二人はベッドに入り、先程と同じようにシアが指を差して灯りを消す。
「あなた、もう少し余裕を持ってもいいと思うわよ」
背中を合わせるかたちで横になると、ティアが静かに口を開く。
「余裕ですか?」とシアが聞き返すと、小さく頷いた気配が伝わってきた。
「そうよ。あんな風に自分のものアピールしなくても、ヨウはあなたのことしか考えてないもの」
「……そうでしょうか」
「少なくとも私はそう思っているわ。元々お人好しなのか色んな人の世話をやいてるみたいだけど、結局それはあなたがいること前提なの。あなたがいなければ、今の彼だっていないわ」
その言葉に、いつだったかコウタから訊いた昔のヨウの話を思い出す。
「だから、もう少し余裕持ってどしっと構えときなさい。あなたにはそれが出来るくらいの友人や仲間がいるでしょうし、その方が彼だって安心するわ」
その言葉にシアが返答に迷っていると、ティアは小さく溜め息を吐いた。
「私が言うまでもないでしょうけど、ヨウはあなたのことを……それこそ命を懸けて守るつもりでいる。それくらいあなたのことを大切に思っている。あなたもヨウのことは嫌いじゃあないわよね? でも、あなたにはヨウみたいに相手を大切に思う気持ちがまるで見えないの」
静かに咎めるような言葉に、シアは「あはは……」と力無く笑う。
「大司祭様は人の心が読めるんですか?」
「読めたらわざわざ口に出したりしないわ。勝手に読んで、それでお終い」
その答えに小さく笑ってから、シアはゆっくりと口を開く。
「誰かを大切に想うことが少し怖いんです。その分別れる時が悲しくなりますから」
「……贅沢な悩みね」
「そうかもしれません」
シアは苦笑しながら言うと、眠るように背中を少し丸めた。
ティアはしばらく目を開けたまま何かを考えるように一点を見続けていたが、しばらくすると、シアと同じように背中を丸めて目を瞑る。
「……それでも、大切だってことは言っといた方がいいと思うわ」
暗く静かな部屋に響いた声、それに返事はなかった。
堕天使フェリシタ討伐から一週間が経った。ヨウと旅をした時同様、家出同然に大神殿を飛び出したティアは、宴会の翌日にはラキナによって連れ戻され、ヨウはコウタやシア、コハルの暇を見ながら、ダンベルが暮らすトック村、シジンの里、キウト村などを回って過ごした。
そして、二度目の魔界進攻を翌日に控えた夜、討伐軍の拠点では再び宴会が行われていた。壮行会という名目だが、これが地球メンバーとの別離になるかもしれないことは誰もが察している。そんな理由もあってか、地球人隊員達は度々酔っ払いに絡まれていた。コウタやヨウ、ユタカなど、明日魔界へ向かう者達は特にそうだ。
「あー、やっと解放された」
宴会が始まって三時間が経った頃、ヨウが私服を乱したまま、シア、キョウカ、ガイアが座っている席へやってきて、
「なんでパトラは人の服を脱がそうと……おや、ガイア隊長」
と、愚痴から一変、おどけた口調で口元に手を当てた。その視線は、ガイアから、その手にあるカップへ向く。カップの中にはシアやキョウカと同じジュースが注がれている。
「今日は酒飲まないんですかぁ?」
ニヤニヤと笑いながら訊くヨウに、ガイアは怒りと羞恥で顔を真っ赤にした。
「前みたいに可愛らしくちゅきちゅきってコウタに言えば――」
「殴る!!」
そのまま追いかけっこを始めた二人を見て、シアは苦笑し、キョウカは呆れ顔をする。
「なんだ? ヨウの奴、珍しくテンション高かったな」
「ちょっとお酒臭かった気がしますけど……、まぁ他の人の臭いが移っただけってことにしときましょう」
「そうだな。酔っ払ったパトラに絡まれた点だけは同情するし」
ガイアとヨウの追いかけっこに巻き込まれた者達の悲鳴を聞きながらキョウカがそう言った瞬間、
「同情するなら胸を揉め!」
というふざけた言葉と同時に、キョウカの胸を後ろから鷲掴みにしたのは噂のパトラだった。顔は赤く、目はとろんとして完全に出来上がっている。
「やめっ……! おい、脱がそうとするな!」
「なーんーでー、十五歳でこんなに大きいの! しかも地球に帰ったらプラス二歳でしょ? 大丈夫なの?」
「何がだ! ……シアも、確かに、みたいな顔するな!」
静かに楽しんでいた二人もパトラの登場で騒がしくなりつつある。
そんな二人の様子にも気付けないほど、コウタは大勢の隊員に囲まれている。
四方八方から飛んでくる感謝や応援の言葉に笑顔で応えていた時、隊員達が左右に別れたかと思うと、そこには、フウズイ、モーゼズ、アデルの三人が立っていた。
「お疲れ様です、コウタ隊長」
「うん。モーゼズもお疲れ様。フウズイ隊長もアデル隊長補佐もお疲れ様です」
「お疲れ様です」
「流石に酔っ払いも老人相手に絡もうとはせんからの。お前さん達よりは疲れておらんよ」
アデルはいつも通りの無表情、フウズイは少し顔が赤くなっている程度だ。
「モーゼズやアデル隊長補佐は酒飲まないの? 二人とも飲める歳だよね」
その問いに、モーゼズは苦笑しながら答える。
「僕はてんで飲めなくて……。あと、アデル隊長補佐はこれでもかなり飲んでます」
頷いて肯定するアデルだが、やはりその表情はいつも通りだし、顔も赤くなったりしていない。
つくづくガイアとは正反対な人だな、と苦笑するコウタの背後、人壁の向こうでは、多数の被害を出したガイアとヨウの追いかけっこが終わりを迎えようとしていた。
「ヨウの奴、どこに隠れたのかしら……!」
ガイアが鬼の形相で辺りを見回していると、そんな彼女に背後から一人の少女が寄ってきた。
「あ、あの……」
「なによ!?」
大声と共に振り返ると、そこには今にも溢れそうなほど瞳に涙を溜めたエノが立っていた。思わず、ガイアの口元が引きつる。
「ご、ごごごごめんなさい……。殴らないでください……」
「殴らないわよ。殴ったことなんかないでしょ」
「昨晩、夢の中で……」
「それは私が悪いの?」
むしろ泣きたくなったガイアだったが、ふと、エノが持っているコップに目をやると、
「こら。なんで酒なんて持ってるのよ。まさか飲んでないでしょうね」
その言葉にエノは勢いよく首を横に振る。
「の、飲んでません! これは……その……」
エノは恥じらうように俯くと、両手で持ったコップをそっとガイアへ差し出した。
「よ、ヨウさんが『エノ、ガイアが酒飲みたいってさ』と言っていたので、あの、持ってきました!」
あの野郎! と一瞬鬼の形相になるガイアだったが、目の前にエノがいることに気が付いて咄嗟に表情を戻す。
しかし、流石に酒を飲むわけにはいかない。隊長室のソファを両断して隊長会議で笑われるなんて二度と御免だ。とはいえ、ここで断れば、間違いなくエノは落ち込むだろう。
「……ありがとね。あっちでゆっくり飲ませてもらうわ」
そう言うと、ガイアはエノからコップを受け取り、踵を返した。
受け取って去る。それが、ガイアの出した答えだ。しかし、
「あ……」
背後から聞こえた小さな声に、ガイアが不思議そうに振り返ると、エノが泣きそうな顔をしていた。
「え、えっと、なに? どうしたの?」
「ごめんなさい。そのお酒、好きじゃなかったですか?」
「え? 好きだけど……」
「だってヨウさんが、『ガイアは本当に好きな酒だったら受け取った瞬間飲む』って……」
あの野郎……!
「立ちながら飲むのは行儀悪いし……」
「でもヨウさんが『好きな酒だったら逆立ちしながらでも敵と戦いながらでも浴びるように飲む。むしろ浴びる』って」
「んなわけないでしょ!!」
ついツッコんでしまったガイアに、エノはビクッと肩を跳ね上げる。
「ご、ごめんなさい……」
と俯くエノを見て、内心溜め息を吐きながらコップを口に運んだガイアは女性ながらに男前だった。
そんなガイアがコウタに抱き付く少し前、食堂の扉が開き、コハルが入ってきた。
「コハルさん」と彼女を呼んだのはシア。キョウカとパトラの攻防に巻き込まれないよう、部屋の隅に移動していたのだった。
「シアさん、こんばんは」
「こんばんは。ヨウさんから当日集合になるかもって聞いてましたけど来れたんですね」
「はい。また集まりがあると聞いていましたし、それにヨウ様との約束を思い出したので……」
「約束?」と首を傾げるシアの横で食堂内を見回していたコハルは、「あ」と小さく口にすると、小走りでキョウカとパトラの元へ駆けていく。そこではいつの間にかヨウが巻き込まれて――というより、キョウカに後ろから拘束されてパトラに服を脱がされていた。
ヨウは、「若い肉体!」と小躍りをしながらどこかへ行くパトラに白い目を向けてから、顔を横に向けてキョウカを見る。
「キョウカ、胸が背中にいてっ」
背中を蹴られてようやく自由になったヨウに、コハルが駆けよる。
「ヨウ様、四日振りです」
「コハル、戻ってきてたのか」
床に落ちていた服を拾いながらヨウはコハルに顔を向ける。
「はい。ヨウ様との約束を思い出しましたので」
「約束?」と先ほどのシアのようにヨウが首を傾げ、キョウカも振り返った。コハルが頷き口を開いたのは、パトラがいなくなったことを確認したシアが三人に寄ってきた時だった。
「私に出来ることなら何でもするという約束です」
三人の表情が固まる。
例えば、これを言ったのがティアであれば、あぁまた冗談か、とシアもキョウカも思っただろう。しかし、今回はそんな冗談とは無縁なコハルである。しかも相手が、事情は知っているものの半裸であるため変態にしか見えない。
「それで、出来れば今晩のうちに済ませておいた方がいいかと思いまして」
「……コハル、ちょっと黙っ――」
「あ! すいません。このことは誰にも言うなって言われてたのに……」
「出来ればそれも言わないで欲しかった」
両足を伸ばし、地面につけた両手を支えにして見上げている空には満天の星が光り輝いている。
日付が変わる時刻になってもまだ騒がしい食堂。そこから少し離れた芝生の上に、ヨウは腰を下ろしていた。少し涼もうと外に出たのが十分ほど前のこととなる。
大分身体の火照りも酔いも冷めたものの、春夜の少し冷たい空気が心地良いこともあり、なかなか立ち上がる気になれずにいた。
「あら、まだみんな起きてたのね」
そんな声に振り返ると、そこには何時の間にか司祭服姿のティアが立っていた。
「あぁ。多分、そろそろお開きになるだろうけど」
唐突な登場にはすっかり慣れているヨウは驚くことなく返す。
「そうなの? 盛り上がってるようだけど」
「体力尽きるまで、ってわけにはいかないのを全員分かってるからな。盛り上がれるうちに盛り上がらないと時間がもったいないだろ」
「こんなところでのんびり空を見上げている人の言葉とは思えないわね」
ヨウは苦笑すると、再び空を見上げる。
「あの中は、居心地良すぎて居心地悪い」
矛盾した言葉に、ティアは「そう」とだけ返して食堂へ向かって歩いていった。
あの服装、また抜け出してきたのか? と、そんなティアを横目に見てから、空に向き直る。
綺麗な星空を見ると、やはり最初に思い出すのは一人の少女のことだった。勇者の子孫、アカネ。本名は持田茜。歳はヨウの一つ上だった。戦いでは負けなし。彼女がいなければ、ムソウを倒すことすら不可能だっただろう。
「そういや、あいつもラコが好きだったな」
そう呟いた時、背後から小さな足音が聞こえてヨウは振り返った。
「……シアか」
「む。私で悪かったですね」
小さな呟きはタイミングよく吹いた風に乗ってシアの耳に届いたらしく、軽く唇を尖らせる。ヨウは歯を見せて笑うと、
「シアも涼みに来たのか?」
「いえ、あまり長く外にいると風邪を引きますよ、と言いに来たんですけど……」
シアは膝を曲げてヨウの横に座りながら言う。
「星が綺麗なので、私も少し見ていくことにします」
そうして二人は揃って空を見上げた。その間、二人とも口は開かず、たまに吹く風と食堂から聞こえてくる笑い声だけが空気を揺らす。
何分ほど経っただろうか。ふと、ヨウが横目に見ると、シアの顔に影が差していた。
「……不安か?」
その問いに驚きを浮かべて顔を上げたシアは、ヨウを見ると苦笑する。
「不安じゃないと言ったら嘘になりますね」
「そうか」と返したヨウに、シアはじとっとした目で覗き込むように見る。
「不安そうにしてる女の子に励ましの言葉とかないんですか?」
その言葉に苦笑して、
「俺も不安だしなぁ」
と言ったヨウに、シアはクスリと笑う。
「全然そう見えませんよ」
「まぁな。どっちかと言うと今は有り難い気持ちの方が強い」
「有り難い気持ち? 魔王にですか?」と首を傾げるシアに、ヨウは笑いながら「まさか」と返して、小さな笑い声が聞こえる食堂を見る。
「結構……というか、かなり勝手なことばっかりしてたけど、それでも受け入れてくれたわけだしな」
その言葉にシアは笑みを浮かべて頷くと、
「今日のヨウさんは珍しく素直ですね」
「……まだ酔ってんのかもな」
シアは、ふふ、と笑うと、ゆっくりと立ち上がる。
「私はそろそろ戻りますけど、まだここにいますか?」
「あぁ、もう少ししたら俺も戻る」
「……そうですか」とシアが踵を返して歩き始めたのを見てから、ヨウは胡座をかいて空を見上げる。
ゆっくりと遠ざかっていく足音。それが急に聞こえなくなり、ヨウが不思議そうに振り返ると、シアが背後まで戻ってきていた。
「どうした?」
その問いに答えないまま、シアは踵を返して、ヨウの背中にもたれるように腰を下ろした。背中に感じる重みと僅かなぬくもりに、ヨウの心臓の鼓動が僅かに速くなる。
それに気付いているのは定かではないが、シアは小さく笑うと、静かに口を開いた。
「あの、私もヨウさんには感謝しています。ここに来てからの色々なこともそうですし、父が亡くなり、行き場を失っていた私を拾ってくれたことも」
「……急にどうしたんだよ」
照れ隠しの言葉にシアは笑ったまま答える。
「私も素直になってみました」
「そうか」と頭を掻くヨウを横目で見てから、地面に視線を落とす。
「だから、無茶はしないでください。ヨウさんが生きていれば、私はそれで十分ですから」
僅かな間が空いた後、「あぁ」という小さな声が返ってきた。
シアは満足したように息を吐くと、再び立ち上がり、「じゃあ先に戻ってますね」と言って歩き出す。
食堂の前に着き、ドアノブを握りながら呟いた「ごめんなさい」という声は、ヨウには聞こえなかった。
そして、ヨウが呟いた謝罪も、シアには届かなかった。
それから十分が経った頃、ヨウが食堂に戻ると、宴会はまだ盛り上がりを見せていた。
ティアにあぁは言ったものの、こいつら本当に朝まで騒ぐつもりじゃ……と呆れ顔をしながら、食堂の隅にあるソファに腰掛ける。
食堂の真ん中で上半身裸になって踊っているトドロキ、隅でチビチビと酒を飲みながら静かに話をしているフウズイとラウール、アデルに服を引っ張られながらもコウタから離れないガイア、複雑そうな表情のティアを胸に抱いてご満悦なコハル、パトラに襲われてユタカを盾にしているキョウカ。
「見てるだけで飽きねーな」
呆れながらも笑みを浮かべたヨウのもとに、飲み物の入ったグラスを両手に持ったシアが歩いてきた。
「なんか孫を見守るお爺さんみたいな顔してますよ」
「悪い意味じゃないことは分かっててもなんかショックだ」
シアは笑いながら、右手のグラスをヨウに差し出す。
「これ、ラコか?」
「はい。さっき呟いていたのが少し聞こえたので飲みたいのかと思って」
そういやラコは飲んだこと無かったな、と思いながらグラスを目の高さまで上げてオレンジ色の液体をまじまじと見る。
「もしかして嫌いでしたか?」
「いや、初めて飲む。ありがとな」
シアが「いえ」と返してヨウの横に腰を下ろすと、二人の間に沈黙が訪れた。
普段なら気にしないが、先程のこともあってか若干の気まずさを覚えたヨウは、それを紛らわそうとラコを口に運ぶ。
「……すっげー甘いな」
返事を期待した呟きではないが、何も反応しないことを不思議に思って顔を向ける。
シアは俯いて、ヨウの持つグラスをじっと見つめていた。
「シア?」と、呼び掛けた瞬間、シアの顔が急にぼやけて見える。
なんだこれ、と思う暇もなく、ヨウの意識は途切れた。
その瞬間、波が引くように食堂内から声が消えていき、誰もが、シアに抱き留められたヨウに目を向ける。
「……これでいいんだよな」
静かに寝息を立てるヨウの頭を膝の上に置いてソファに寝かせるシアを見ながら、誰かがそう呟いた。
誰もが静かに頷く中、シアの前へティアが歩いていく。
「これから二十四時間は目を覚まさないでしょう。ですが、念の為、彼は神殿の方で保護させていただきます」
その言葉に、シアはゆっくりと頷いた。
片桐家の家の前には、黒文字が書かれた白い看板が掛けられており、その内外に集まった者達も皆、喪服を身に纏っていた。
「居眠り運転でしょ?」
「あぁ。さっき入っていった子をかばったって」
「お子さんはどうなるのかしら」
「そりゃあ、親戚か誰かが引き取ることになるんじゃないか? まだ中学生だろう?」
「でも、さっきの様子じゃ……」
そんな話し声を聞きながら、学生服姿の陽が家に上がると、玄関は靴で足の踏み場がほとんどないほどだった。
それを見て、眉間に軽く皺を寄せた時、玄関のすぐ横にある部屋から静かな、だが棘の含んだ複数の声が聞こえてきた。
詩亜の引き取り手について揉めているらしい口論を聞いて、先程外で聞いたのは親族のことだったのかと気付く。
てっきり、また大泣きしてんのかと思った。と頭を掻いてから、靴を脱ぎ、他人の靴を足場にして家に上がった陽は、玄関前で聞いた簡単な案内を思い出しながらフローリングの廊下を歩いて、左手の襖から部屋の中を窺うように顔を覗かせる。
その中、畳敷きの居間にいたのは、詩亜と、桜の母、そして、二人に頭を下げる一組の若い夫婦と、その隣で不安そうに両親を見ている四、五歳ほどの男児だった。
繰り返し頭を下げ、妻の方は涙を流している夫婦に対して、詩亜と桜の母は困ったような表情をして二人に顔を上げるように言う。
そんなやり取りが何度か続いてから、夫婦は子供と共に仏壇に向かって深く頭を下げた。いや、と陽は目を凝らす。五人で隠れていたが、仏壇の前には真っ白の布団が敷かれており、そこには白い布を顔に掛けられた祐輔が寝かされていた。
三人が腰を上げて、陽の方へと歩いてくる。擦れ違う際に会釈をされて、それを返す。廊下に戻り、玄関から出て行く三人の背中を見ていると、
「あら?」という声が背後から聞こえた。
そこには部屋から出て来た桜の母が立っており、陽を見て首を傾げていた。
「えっと……祐輔君の教え子さん?」
「はい。浦島陽って言います」
「あ、桜から聞いたことあるわ。幸太君のお友達の……」
その言葉に陽が頷こうとした時、廊下に怒鳴り声が響き、二人は驚いた様子で動きを止める。
声の出所は玄関横の部屋からだ。その大声は外まで聞こえたらしく、玄関扉が開かれ年配の男が顔を出す。
「大丈夫ですか?」
その問いに、桜の母は慌てて頭を下げると、そのまま玄関横の部屋へと駆け込んで行った。一人残された陽は依然として続く罵倒の声に背中を向けると改めて居間に入ろうとする。
その足が止まったのは、鼻をすする小さな音が聞こえたからだった。
居間の前で動きを止めている間にも、鼻をすする音は大きくなり、嗚咽が混じっていく。墓地の時のように大泣きしないのは、二年分の成長によるものか、それとも受け止める者がいないためか。
陽は歯を食いしばると、足元に置いてあったスリッパを玄関横の襖に向けて投げつけた。スリッパが襖にぶつかり、罵声が止んだのを確認して、陽は居間に足を踏み入れる。
それに気付き、涙で濡れた顔を上げた詩亜に一瞬怯んで動きを止めたが、すぐに小さく頭を下げた。
「えーと、片桐先生の元教え子の――」
「浦島、陽さんですか?」
涙混じりの声は少し聞き取りづらかったが、確かに詩亜はそう言った。
陽が内心驚きながらも頷くと、詩亜の瞳から更に涙が溢れた。
なんでだ!? と陽が内心慌てていると、廊下から聞こえた足音に続き、背後から小さな声がして、少しだけ振り返る。
居間の襖付近には、五名の男女が集まっていた。歳はそれぞれ四十代、五十代といったところで、他の大人と同じように喪服に身を包んでいる。その後ろから桜の母が顔を覗かせて、五人が先程まで口論を繰り広げていた者達だと陽は気付く。
スリッパを投げた犯人を探しに来たのか、それとも詩亜の身を案じて来たのか。
んなわけないか、と陽は後項の可能性を内心で笑い飛ばす。それならば、今の詩亜も見れば真っ先に駆け寄るだろう。
だが五人は、気まずそうに顔を逸らすか、困ったような表情を浮かべるだけだ。
五人に冷たい視線を向けてから、陽はそのまま祐輔を見る。自分がいなくなれば詩亜がどうなるのかは、父親である祐輔が一番よく分かっていた筈だ。
それなのに、と陽は思う。祐輔のやったことが如何に賞賛されるものか分かっていながらも、思わずにはいられなかった。
他人のガキ助けて自分のガキを独りにするとか馬鹿じゃねーのか。何のために何年も入院して、何回もヤバい手術して病気治したんだよ。
「死んだら、意味ないじゃねぇか……」
その言葉に、ヨウを囲んでいる三人のうちの一人、ロキナが一歩前に出ながら首を傾げた。
「今、ヨウ様が何か……」
「寝言でしょう。それよりロキナ、持ち場から離れないように」
ラキナの言葉に「はい」と頷いたロキナは、一歩下がり、三角の点の上に立つ。
ラキナ達三姉妹とヨウがいるのは、魔物化解除を試みた際に使用した広い部屋だ。あの時と同じようにヨウは三角の中心で眠っていて、それをラキナ達が囲んでいる。部屋の入り口付近に数名の神官が待機している点も同じだ。違うことと言えば、ティアやユタカがいないことと、ヨウが床に直接ではなく布団の上に寝かされていることくらいだろうか。
「ラキナ姉さん、大司祭様達はそろそろ魔界に到着した頃かしら」
ルキナの問いに無言のまま頷いた姉を見て、ロキナは不安そうな表情を浮かべる。
「今日、魔王と戦うのよね」
「……大司祭様はその可能性が高いと仰られていたわね」
ルキナの言いたいことは、ラキナにも分かっていた。
勝つことだけを考えるのなら、魔物化の危険性を考えても尚、ヨウは連れて行くべきだと思っているのだろう。それはラキナも同感だったし、むしろティアがこの決定を下したのが予想外だった。
ヨウの実力はティアに『私の次に強いわ』と言わせるほどのものだし、何より、この決定の一番の理由となった魔物化。これは、ヨウを殺すことを厭わなければ、大した危険性はない。魔物化を掛けられた者は、それに伴う痛みにより、何時間もまともに動けない。その間なら、武器さえ持っていれば子供でも殺せるほど無防備になる。たとえ、その間、魔王が守り続けようとしても、それは人間軍からすれば隙でしかない。
それを分かっていて、こうしたということは、つまり、ヨウを殺せる者がいないということ。あるいは、ヨウが死んだ場合、軍の士気が著しく低下すると判断したのか。ティアが『自分が殺したくないから』なんて私情を挟むわけもない。
とにかく、とラキナは思考を振り払い、部屋の中心に目を向ける。
万が一ヨウが目を覚まして戦いに向かおうとした場合、結界を展開して閉じ込める。それが、今の彼女達に与えられた指示だ。




