堕天使
魔界。千年前、魔王が自らの力で作り出した世界だ。常に暗い空には赤い月が浮かび、枯れた大地には枝も葉も真っ黒な木がぽつぽつと生えている。
空が暗くともこの世界で光を必要としない理由は、『そういう世界だから』としか言いようがない。魔王がそういう風に創ったからそうであるだけで、空に浮かぶ月を壊したところで何かが変わるわけでもない。そもそも、この世界では月の方が偽物なのだから。
ここは狭い世界だ。左右に広がっているように見える世界は全て偽物の張りぼて。一直線に進んだところにある城、そこに魔王はいる。
「しかし、そこに辿り着くまでに無数の悪魔が勇者達の行く手を遮った……って伝記本には書かれてたんだけどな」
黒いローブを身に纏ったヨウが辺りを見回しながら言うと、隣のシアも頷く。
「記録にも同じことが書かれてました。でも……」とヨウと同じように辺りを見る。
ガイアやコウタ、ニコールや王国軍の隊長など人間軍の精鋭のみで結成された三十人編成の部隊は壮観であるが、記録に残されていたような悪魔の姿は一体も見られない。
他の隊員も怪訝そうな表情をしながらも周囲を警戒していたが、三名の神官に付き添われてティノジアと魔界を繋ぐ大きな扉を通ってきた大司祭ティアクリフトの「悪魔の気配はまったく感じません」という言葉に力を抜き、
「とはいえ、悪魔は魔物と比べると知恵がありますので、なんらかの方法で気配を消しているのかも知れません。油断せずに行きましょう」
しかしそう続けられた言葉に表情を強ばらせる。地球人はもちろんのこと、現代のティノジア人にとっても未知となる魔界。大なり小なり緊張はあるからこそ油断し易くなっている。
「どっちにしても、敵が襲ってこないのなら今のうちに進んだ方がいいわね」
ガイアの言葉に、彼女の近くにいたコウタ、フウズイ、ラウール、アデルが頷き、
「ではコウタ隊長、号令をお願いします」
とモーゼズが言った。『地組』隊長にではなく、人間軍精鋭部隊の隊長となったコウタに。
その言葉に頷き、コウタが号令を出すと、隊員達はあらかじめ決められた隊列を作り進軍を始める。主力となる前衛は列の前後に別れ、中心に魔法使い、特に治癒魔法使いやティアを守るかたちで置いている。三十人部隊で、治癒魔法使いはシア、ノゾミ、コマチの三人のみ。少ないようだが、この三人でも補えないほどの怪我人が出た場合は撤退することが決まっている。一度に魔王まで到達する必要はないのだ。
神官と小声で何かを話しているティアをヨウが横目で見ていると、
「気になりますか?」
とシアが訊いてきた。
「まぁ気になるな」
普段の様子と違いすぎて、とは言えないが。
「私としては、ヨウさんと大司祭さんがどうして一緒に旅をしていたのかが気になりますけど」
「だから色々あったんだ」
「まぁ深くは訊きませんけど、失礼なことしませんでしたか?」
「俺がそんなことするわけないだろ?」
「平気でしそうだから訊いてるんですよ」
その通りだった。
ヨウとシアの少し後ろにはコハルやフウズイがいて、少し前にはユタカやアデルの姿がある。精鋭となるとやはり討伐軍の者が多い。最前列にいるのも、コウタとガイアの両隊長だ。
何もないまま小一時間ほど歩き続けた時、ガイアが前方を睨みながら口を開く。
「魔王城が見えてきたわよ。敵がいないっていうのも楽だけど不気味ね」
コウタは頷いた。
「記録じゃあ千体を超えるなんて書かれてたから尚更だね。何かの本で、魔王が魔物を悪魔化させた理由は、本物の悪魔を作り出す力を失ったからだっていう説を見たけど……」
「それが当たっていれば万々歳ね。ま、どっちにしても蹴散らしていくだけよ」
『まぁ、そうなっちゃうだろうねー』
唐突に空に響いた声に隊員は一斉に足を止めて武器を構える。
『どうも、魔王キルバです。とりあえずいらっしゃい、人間軍の皆様。こんなところまでようこそ。でもつまらないな。いや、君達の実力のことじゃないよ? むしろ、千年前みたいに弱い奴まで連れてこないあたり、考えて行動出来てる。でもなー、悪魔達を使って強者を選別するのって結構楽しかったんだよね。だけど今回は並の悪魔じゃあ、そこのお嬢さんが言うように蹴散らされるだけだし。というか、そこの小さな大司祭様がこんなに早く出て来た時点でバランス崩れちゃってるんだよねぇ』
拗ねた口調の魔王キルバだが、このタイミングでコンタクトをとってきたことに嫌な予感を覚えているのはガイアだけではないだろう。
『というわけでー』
その予感を裏付けるかのように、魔王の声が途端に明るくなる。
『既に強者の資格を持っている皆様のために、不肖私めが更なる強者を選別する試練を用意致しました。皆さん前方をご覧ください』
魔王の声に誰もが前を見ると、二百メートルほど前方にある魔王城の扉が軋む音を立てながらゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、十代後半、ヨウやコウタと同い年くらいの少年だ。
目鼻整った中性的な顔立ち、ゆるやかなパーマのかかった金色の短髪。身体は大きくはない。せいぜい百六十五センチといったところだろう。
魔王、ではない。魔王キルバライガの姿を記録や伝記で知らずとも、誰もがそう確信するだろう。それほどまでに、彼の姿は神々しい。いや、その表現も的確ではない。彼から受ける印象は、神ではなく天使。身体に巻き付けただけの白い布が、その印象を更に際立たせている。
だが、暗く沈んだ彼の瞳に光は感じられない。容姿と相まって、実際に動いているところを見ていなければ人形と勘違いしたかもしれないほどだ。
『さぁ、皆さん。この子は一体誰でしょう。多分みんな知ってると思うよ』
誰もが口を噤む中、その問いに答えたのはティアだった。
「『天の使い』、フェリシタ」
『正解! 流石は大司祭様だ!』
その言葉にざわめきが起こる。
『天の使い』フェリシタ。千年前、伝説の勇者と共に戦った人間軍の一員で、勇者の右腕とまで言われた人物だ。彼のみが使える聖魔法は悪魔だけではなく魔王にすら有効であった。その最期はその身を賭けた聖魔法で魔王の動きを封じ、勇者により魔王ごと封印されたのだが……。
『封印される前にフェリシタの命は尽きていたはず。ここにいる何人がそう考えているのだろうね』
見えずとも笑みが分かる口調で魔王は言う。
『確かに彼は死んでいた。肉体も無くなっていた。骨しか残っていなかった。でも、それさえあれば十分だ』
何が可笑しいのか、魔王は小さく息を噴き、笑い出す。まるで、新しい玩具を自慢する子供のように。
『生き返らせたんだよ! 骨の周りに肉体を作って、魂を呼び戻した。人なんてそうすれば簡単に作れる!』
高らかに笑う魔王が『簡単』と口にした魂の召還。そんなことは、大司祭の力を持ってしても不可能だ。
隊員達がフェリシタから目を離せずにいる中、魔王の笑い声は徐々に小さくなっていき、最後は『ふぅ』と落胆するような息を吐いた。
『でもね。魂を呼び戻して、彼の意識は確認出来たけど、どうやら自分で身体を動かすことは出来ないようだった。僕は落胆したよ。千年前より強大な力を手に入れても人一人完全に蘇らせることも出来ないなんて』
悲壮感溢れる、溢れすぎている口調は、まるで悲劇を演じる役者のそれだった。
『だからといってせっかくのフェリシタを処分するのも勿体ないから、試しに魔物化させてみたんだ』
なんでもなさそうに魔王が口にした言葉に、隊員達はそれぞれ驚きの表情を浮かべる。
『そしたらなんと! 動けるようになったんだよ、フェリシタは! しかも、人と魔物それぞれの形態を好きなように変更出来る! すごい発見だと心が躍ったよ! でもね、またしても誤算があったんだ。フェリシタとしての意識が残っていたんだよ。そのせいで僕ばっかり攻撃してきて、おちおちと昼寝も出来やしない。この魔王城だって何度修理したことか。まぁ、フェリシタもフェリシタで絶望だったろうね。全盛期よりも強い力を手に入れたにも関わらず僕には勝てないわけだし』
だからかな。と魔王は軽い口調のまま言う。
『彼を悪魔化させるのは、凄く簡単だったよ』
その瞬間、棒立ちしていたフェリシタが両手で頭を抱えたかと思うと、呻き声を上げながら地面に膝をついた。
コウタとガイアが駆け出す。魔物に、悪魔に変わる前に首を跳ねるという思惑に気付いた隊員達も後に続くが、
『君達人間はいつだって絶望に打ち勝って強くなるけど、もっと簡単に力を手に入れる方法はあるんだよ』
フェリシタが人のものとは思えない声で天に向けて吼えた瞬間、その背中から六枚の黒い翼が皮膚を突き破って大きく広げられた。なおも絶叫は止まらない。身体中の骨が折れて砕けるような音とともに、フェリシタの輪郭が、体格が、全てが崩れ、中から深い闇が現れる。
『絶望に負ければいいんだ。打ち負かされて、打ちひしがれて、堕ちるところで堕ちればいい』
ガイアとコウタは、フェリシタが完全に闇と同化したのを見て足を止める。その間にも闇は見上げるほど大きな形を成していく。実体化しているのは六枚の翼のみ。しかし、その闇の形を見れば、完成系は容易に想像出来た。
『だから、今のフェリシタは強いよ』
背中には六枚の翼、胴体に比べて長く伸びた手足、身体に巻いた黒い布と長い鎖、黒くうねった長髪、硬質化した黒い肌、つり上がった赤い瞳。元の面影を完全に無くしたフェリシタは、十メートル近い細身の巨体で人間軍を見下ろす。
『堕天使フェリシタ。間違いなく、僕の次に強い悪魔だ』
フェリシタが異様に細く尖った指を広げて腕を上げると、闇が集まり、黒く巨大な杖を作り出した。それを握り、目玉のみを動かして人間軍を一瞥する。
「散れ!」
何人の声が重なっただろう。少なくとも、コウタ、ガイア、ユタカ、ニコールの声が聞こえた。
それに反応して隊員達が左右に飛ぶと同時に杖の先端に付いている黒玉が地面を叩き割る。
その攻撃を避けながら攻撃に転じることが出来たのは、精密な短距離転移を可能とするティアのみ。彼女はフェリシタの真後ろ、後頭部付近に転移して細い首に向けて小さく腕を振る。ティアの細い腕に反して口の大きな袖が舞うように揺れた。舞いの一部分のようにも見える動作から繰り出されたのは、五メートルほどもある巨大な風の刃だ。
その魔力を察してフェリシタが振り返ると同時に刃が飛ぶ。半分ほど振り返ったまま首を守るように上げられた左手の四本の指を根元から切り落とし、なお首を捉えた。しかし、他の部位と比べて装甲が厚そうな首に傷一つ付けることなく消滅した。
息吐く暇もなくフェリシタが親指しかない左手でティアを薙払おうとする。
「皆様に通信魔法を」
それを短距離転移で避けたティアは、ユタカの背後に現れて早口に言う。
ユタカは頷き、少し躊躇しながらもティアの頭に手を乗せて二人とも目を閉じる。
「身体中に張り巡らされている対魔法障壁が意外と強力です。並の魔法じゃあ手に当たる前に打ち消されます。もっとも、ここにいる方なら問題ないでしょうが、それでも弱い魔法は無意味です」
以上です。と目を開いたティアにユタカは頷いて手を離す。
魔法が効きづらいと言うのなら次は物理攻撃を。ユタカが指示を出したのは、コウタと王国軍の重力級戦士ダズバールだ。筋骨隆々、二メートル近い体格のダズバールが肩に担いでいるのは巨大なハンマーだ。人すら潰せてしまいそうなほど大きな頭部分から繰り出される攻撃は防御不可能と言われている。
固い装甲を崩すのに、彼以上の適任者はいない。問題は重装備故の動きの遅さだが、そこは出来る限り周りがフォローするしかない。
ユタカ自身、速度強化の魔法を使うため瞑想状態に入る。彼の魔法は、ある種、ヨウの魔法と似ている。範囲も広く、効果は絶大。しかし、ヨウのように消費魔力もそうだが、なにより溜めに時間が掛かる。故に、そういう場合の護衛として一人、キョウカがユタカの前に立つ。
先程のような攻撃は予備動作があるため避けることは容易い。だが、あの威力の攻撃を予備動作無しにうてるのだとすると、防ぎきれるかは怪しいだろう。
そして、なによりもこの二人。
「……おい、まだか」
「うるさい! 敵はこちらを向いていないのだろう!? もう少し黙って待っていたまえ!」
「ちっ」
「舌打ちをするな!」
仲が最悪だ。共に戦う仲間としてはお互い認めているものの、根本的に性格が合わないらしい。
先行して堕天使の首もとまで跳んだコウタは、そのまま敵の肩や翼を足場にして上空で攪乱を続ける。攻撃を凌ぎながら隙を見ては魔剣を振るっているが、金属同士が当たるような高い音とともに弾かれている。
ユタカの速度強化を待たず、堕天使の足元に到着したダズバールは両膝を曲げて跳躍する。腰の辺りまで跳ぶと、歯を食いしばり、巨大なハンマーを全力で横に振る。
一瞬訪れた静寂に、石を叩いたかのような音が響いた。その中、ダズバールのみが耳にした微かな亀裂音。それに続いて、堕天使が絶叫を上げた。
その世界を震わせるような声は衝撃波となり、コウタやダズバールだけではなく近くに迫っていた隊員達までも吹き飛ばす。
「ヒビが入った! 効いてるぞ!」
空中で体勢を立て直して着地しながらダズバールが叫ぶと、周囲にいた隊員が奮起の声を上げる。
その様子を見ながら、ユタカが呟く。
「このまま押し切れればいいが……」
キョウカも同意して頷くが、ティアが「いえ」と否定を口にした。
「それは難しいでしょう。フェリシタは魔法を得意としていました。魔物化、悪魔化を遂げた今、彼の特徴が残っているのかは定かでありませんが、もし残っているのなら――」
ティアが続きを口にする前に、堕天使が右手の杖を天高くかかげる。隊員達が空を見上げると、そこには人の頭ほどの黒い塊が一目で数え切れないほど浮いていた。
何が起こるかを誰もが察すると同時に、塊が地面へと降り注ぐ。避けきれない速度ではない。しかし数もそうだが、その一つ一つが地面に穴を空けるほどの威力があり、誰もが息を飲む。
最初に黒塊の雨を抜け出したのは、比較的端の方にいたニコールだった。それを見て堕天使も杖を下げるが、黒塊はすぐには降り止まない。
この状態で動かれるのは厄介だ、とニコールが駆け出すと、堕天使は両手の指先に小さな球体を作り出し、腕を振って飛ばした。
直線に向かってくるだけの球体は、ニコールにとって避けるのは容易い。だが、後ろに逸らせば他の隊員に被弾する可能性がある。
彼女は腰に付けたベルトに双剣を仕舞うと、空間から小型のナイフを左手に三本掴んで球体に向けて投擲する。それらが黒い球体を真っ二つに裂いたのを見ると、右手にも同じようにナイフを持ち、放つ。
そのナイフが触れた瞬間、爆風を撒き散らしながら球体が爆発した。それは他の球体にも誘爆して辺りに熱を撒き散らす。
思わず足を止め、爆風から身を守るように顔の前で両手を交差させたニコールは、突然目を見開き、焦燥を浮かべて背後を振り返る。
地面に埋まっている大量の黒塊。もしも、これらが同じように爆発したらどうなるだろうか。先程の球体と同じ仕組みならば、起爆用の黒塊があるはず。
その時、おそらく最後の黒塊が急降下してきた。
ヤバい。ニコールの心臓が大きく跳ねる。それほどまでに、確信を持てる直感が働く。
先程の爆発に気が付いた者がこの場から離れるよう叫ぶが、今から逃げて間に合う者は一体何人程度だろうか。
その時、黒の障壁が黒塊を包み込むように展開され、次の瞬間には爆音と共に砕け散った。
しかし爆発を吸収するには十分だったらしく、被害はない。それを確認した隊員達がその場を離れ、体勢を整え始めた時、
「ムソウの時も思ったけど……」
一瞬気を抜いたヨウのすぐ横で、先程まで空に響いていたものと同じ声が聞こえた。
「君の力、やっぱり面白いね」
目を見開きながらも空間から西洋剣を取り出し、声の方向に顔を向けた瞬間、視界を遮るように頭を鷲掴みにされる。
指の隙間から見えるのは、白い髪と赤い瞳、口角のつり上がった口のみ。こんな状況でなければ、ティノジア人と見分けがつかないであろう青年だった。
そしてその背後に、火の灯った杖を振り上げるシアが見えたのは、ヨウが青年の正体を確信するのと同時だった。
その天命に似付かわしくない白衣を羽織った魔王がシアに気付いている様子はない。
この子を殺したら彼はどうなるんだろう。
だが、その思考が伝わってきた瞬間、ヨウは西洋剣を魔王の腕に突き刺した。
「あぁ、そうなるんだ」
満足そうな笑顔を浮かべながらヨウの頭から手を離し、揺れるように動いてシアの攻撃を避ける。
「簡単に頭を潰せるって分かっていたからじっとしてたんだろう?」
二人から数歩距離を置き、面白そうに言う魔王に、ヨウはシアの前に立って剣の代わりに鎌を取り出す。
「首狩り鎌。千年前シジンにあげた僕の元愛用武器だね。黒いローブに巨大な鎌。まるで千年前の僕を見ているようだよ」
その言葉にヨウが思い切り顔をしかめると、魔王は可笑しそうに笑う。
「あっはっは! やっぱり君は面白い!」
「……で、お前は何しにきたんだ? 俺らの力を試すんじゃなかったのか」
堕天使との戦闘を続けている仲間を横目に見ながらヨウが問うと、魔王は笑みの余韻を残しながら、
「あー、うん。そうなんだけどねぇ。やっぱり、シジンを倒した君と色々チートな大司祭様はいいかなって」
「代わりに魔王様が戦ってくれるのか?」
「あはは。まさか。それはフェリシタを倒してからのお楽しみだ。僕のするべきことは、もう終わっているよ」
魔王がそう言い終えると、ヨウの心臓が大きく跳ねた。
「ぐっ!?」と思わず胸を抑えながら膝を着くヨウを見て、魔王は邪悪な笑みを浮かべる。
「君が魔物化したら僕そっくりになるのかな?」
その言葉に、ヨウの横にしゃがんでいたシアの目が大きく見開く。ヨウの鼓動は早くなる一方で、呼吸は乱れ、瞳孔が開き、尋常ではない量の汗を全身から滲み出ている。
「魔物化……って」
シアの呟きに、魔王は「うん?」と首を傾げる。
「なんだ。今の人間は、人が魔物化することも知らないのか? まぁ詳しいことは大司祭にでも聞けばいい。ちなみに、その魔物化を止めることが出来るのも彼女だけだよ」
魔王がそう言った時、ティアがヨウの横に現れた。彼女はヨウの様子を見てから、鋭い視線を魔王に向ける。
「今回の大司祭様はまだ子供なんだね。怖い顔しても可愛いだけだよ」
「あなたも、記録に残されている姿より、大分人間らしくなってるわね」
「僕だって元は人間さ」
おどけたように言うと、魔王は転移魔法を使って姿を消した。その場に残ったのは、腕から滴った血の跡だけだ。
「だ、大司祭様、ヨウさんが……!」
ティアは小さく息を吐いてから頷き、ヨウの横に両膝を着いてしゃがむと、小さな手で頭と背中をさする。
「まだ間に合います。魔物化を抑える魔法を使うので、あなたは戦闘に戻っていてください」
「で、でも」
「私と彼がいなくなったことにより、戦況は悪化します。治癒魔法使いが三人しかいないことを忘れていませんか?」
厳しい口調で言うと、ティアはヨウの手を握り、シアに顔を向ける。
「今から私達を囲むように何重もの障壁を展開します。戦うなら今のうちに離れてください。ここに残ってもあなたの出来ることは何もありませんが」
その言葉にシアは唇を噛みながら、数歩後ずさる。
「……安心してください。私も彼をみすみす魔物化させるつもりはありません」
そう言うと、ティアはそっと目を瞑ってヨウの左手を両手で握る。シアが二人から離れる度に様々な色の障壁が重ねられていき、最終的に虹色の光を放つ分厚い半球体となって二人を覆い隠した。
半球体の内部は、ティアとヨウの姿だけ見える不思議な暗闇に包まれている。
「ここならどんな大きな音も外には通さないわ」
ティアがそっと言うと、ヨウの口から呻き声が漏れたかと思うと間もなく絶叫へと変わっていった。先程フェリシタが出したものより、遥かに獣のような鳴き声に、ティアは痛ましげに眉をひそめる。
「魔物化どころか、悪魔化の兆候、角と翼が出てきているわ。魔物化だけでも死ぬほどの痛みが襲うというのに、よく今まで耐えられたわね」
背中や頭を左手で擦ってからティアは目を閉じ、小さく「捕縛」と呟く。すると、周囲の地面から四本の紐が飛び出してヨウの両手足に巻き付き、仰向けに倒して拘束した。
「ごめんなさい。暴れられても困るから」
立ち上がりながら軽く右手を振ると、手のひらから垂れていた血が壁面に付着した。
長く伸びたヨウの左手の爪先は彼女の血と肉で赤く染まっている。
「始めるわ」
胸の前で合わせた掌の間に青い魔力が揺らめく。そしてティアは、極限まで濃縮された魔力をヨウの胸に押し当てた。
先程以上の絶叫に、障壁の外で地面にへたり込んでいたシアの肩が跳ね上がる。
いくら何重にもしようと障壁に防音の効果などないことくらいティアは知っているだろう。現に、シアの耳にはヨウの絶叫どころかティアの小さな声まで聞こえている。
止まない絶叫にシアは足を震わせながらも立ち上がると戦場に向けて駆け出した。
堕天使は灰色の障壁と魔法攻撃により人間軍の接近を防ぎながら攻撃を繰り返している。魔法攻撃もまた、障壁に遮られずとも大きな傷を与えるには至らない。
「あ、シアさん!」
シアの元にコマチが走り寄ってくる。
「ヨウさんと大司祭様は……。それと、この声は……?」
獣の咆哮にも似たヨウの絶叫は、戦闘音に消されることなく、最後尾のここまで届いている。
よく見れば、最後尾にいるノゾミや負傷した隊員達は皆不安そうに背後に目を向けている。
なんと言うべきか。二人が戦線離脱したことはまだしも、ヨウが魔物化しそうになっていることは言えない。戦闘中に心を乱すようなことを言うべきではないし、何よりシアもそのことを口にしたくはなかった。
シアが言い淀んでいると、ノゾミの治癒魔法を受けていた隊員が不安げに口を開く。
「やっぱりさっきのは魔王だったのか? 大司祭様が任せろっていうからこっちはこっちで戦っていたんだが……」
シアは口にする言葉を決めながら、ゆっくりと頷いた。
「はい。先程の白衣を着た男性が魔王のようです」
誰もが驚きの表情を浮かべながらもざわつくことなくシアの言葉を待つ。
「魔王は既に退きました。しかしヨウさんが魔王に特殊な攻撃を受け、現在は大司祭様が治療に当たっています」
「そうか……」と隊員は俯き気味に返す。やはり、あの二人が抜けた穴は大きい。
「まぁ、今は俺達でなんとかするしかないか。ユタカには俺から伝えておく」
そう言って立ち上がると、剣を取り出して堕天使に向けて地面を蹴る。
指揮官でありながら前線に立っているユタカは、隊員から話を聞くと「了解した」とだけ言って堕天使の背中を睨み上げる。
魔法使いとの戦いは魔法を使わせなければ勝てる。その当然のことが、堕天使フェリシタ相手ではあまりに困難だ。一瞬の溜めや動作も必要なしに発動する魔法、そして何よりも常時展開している分厚い障壁。それらをかいくぐったとしても、単発の攻撃で効果的なダメージを与えることが出来る隊員は限られている。無理に攻撃を続けても、武器が駄目になる方が早いだろう。魔法であれば連発も可能だろうが、通常の障壁に加えて耐魔法障壁があることを考えると致命的な攻撃が与えられるとは思えない。
一気に決めるなら、隙を作って一斉攻撃に出るしかないだろう。しかし、戦場を高速で飛び交う十個の黒い球体が隊員達の足並みを崩す。ニコールが切り裂いたものとは強度が桁違いで、なにより破壊したところですぐに増殖するため放置しているが、堕天使から離れていても常に気の抜けない状況に、隊員達の疲労は普段の何倍も早く溜まっていく。いくら魔力を温存しても体力が尽きてしまっては意味がない。
だが、戦いながらユタカが考えていた敵の隙を作る策には、ヨウとティアの存在は必要不可欠だった。防御と魔法攻撃の要が離脱したのは厳しい。
せめてアイツがいれば、と思わず顔をしかめたユタカに黒い霧が迫る。これも、球体と共に隊員を苦しめている堕天使の魔法によるものだ。触れると大量の魔力を吸収される効果があるが、動きは遅く避けやすい。しかし威力のある球体に気を取られやすい今の状況だと十分な驚異となっている。
近くに球体が迫っていないことを確認したユタカがその場を離れようと足に力を入れた時、突然吹いた一陣の風が黒霧を飛ばし、その場に緑色のローブを羽織ったフウズイが着地した。
「指揮官殿、向こうはどうなった?」
「フウズイ隊長か。ヨウと大司祭の早期復帰は見込めなさそうだ」
「……そのようじゃな」
虹色の障壁内部から喉が潰れかけた絶叫と微かな血の匂いが風に乗ってフウズイの耳と鼻に届く。
「指揮官殿、これからどうする?」
「……このままムソウの時のように敵の魔力が尽きるのを待つ。根比べだ」
その言葉にフウズイは「ふむ」と呟いてから、
「確かにそれが一番安全な策でしょうな。魔物討伐のセオリーではありませんが、この場にいる者ならばそれも可能かもしれません。しかし、今回の敵は元『天の使い』であるフェリシタ。球体、そして霧のような魔法、その色こそ違うものの、千年前にかのものが使っていた魔法と酷似している。ならば膨大な魔力もそのまま残っていると考えるべきではないでしょうか」
フウズイは一気に述べてから、「もっとも」と肩の力を僅かに抜く。
「それを考慮したうえで先程の判断だということはわしにも分かっております。いざとなれば誰もが逃げられるほどの余力を残しつつ戦うにはそれしかないでしょう。ですが、我々は魔界へ守られに来ているわけではない。今この瞬間も犠牲が出ている二つの世界を一刻も早く平和にするため来ているのです」
再び迫り来る黒霧をフウズイは左腕を振って吹き飛ばしながら力強い瞳をユタカに向ける。
「どうか指揮官殿、我等を『壊してはいけない駒』ではなく、『簡単には壊れない駒』として指示を出してくだされ」
そう言うとフウズイはユタカに背を向けて、風の魔法により身体を宙に浮かせて堕天使へと飛ぶ。
残されたユタカは、そっと顔を横に向けて、遙か後方にある障壁を見た。
ここにいる者が簡単には壊れないことくらいユタカにも分かっている。しかし、今は絶対的な防御がない。それ故、彼は一つの策を口にしなかった。ヨウとティアがいなくとも可能だが、もし失敗すれば、保険が掛けられない今、ただの怪我では済まない。
だが、消耗戦を口にする前に、その策が一度頭に浮かんだのも事実。そして今、フウズイの言葉を受けて、それを口にしたい自分がいた。
これが、ヨウが何度も言っていた感覚というやつなのだろうか。だとしたら、少し文句を言ってやりたいとユタカは口元に笑みを浮かべながら思う。これは感覚じゃなくて、信頼と言うべきだろう、と。
ユタカは通信魔法を使用する。その相手は、
『アデル隊長補佐、君の炎で障壁を焼き払うことは可能か?』
『……魔力をほとんど使っていいなら』
『構わない』
即答したユタカは、続いて全員に回線を繋ぐ。
『これからアデル隊長補佐が灼熱により一時的に障壁を焼き払う。その後、コハル隊員は捕縛魔法で敵の動きを制限、魔法部隊は敵の首を狙ってそれぞれの最大魔法を一斉放出。装甲が砕けた、あるいは脆くなったところを近接部隊の連続攻撃によって首を跳ね飛ばす。コハル隊員と魔法部隊はなるべく一カ所に固まり、ラウール隊長は攻撃に参加せず彼等を霧と球体から守ってくれ』
ようするに、最大火力によるゴリ押し。今までの彼らしくない指示に、隊員達は何を感じただろうか。不安か、焦燥か、希望か。
『君達の力を信じる』
だが、誰も異を唱える者はいなかった。ユタカがそうであるように、彼等もまたユタカの指示を信じている。
堕天使に接近していたニコールは後退しながら巨大な闇の刃を避けると、勝ち気な笑みを浮かべた。
「相変わらず偉そうな奴だ」
そう言いながら辺りを見ると、既に隊員達は行動を開始している。
「いくら『炎使い』と言っても、もう少し時間を稼ぐ役がいるか」
魔法使いが集合しつつある場所を見ながらニコールは呟き、宙に障壁を張るとそれを足場にして再度堕天使へ向かっていった。
魔法使いが固まっている場所では、アデルが掌を合わせて魔力の濃縮に取り掛かっていた。
同じ魔法でも術者の魔力で威力に差が出るのは当然のことだが、使用魔法に関係なく魔力を自由に込めることが出来るのはアデルのみだろう。何故なら、彼女が使っているのは正確に言えば魔法ではなく、ただの炎だ。魔力をそのまま炎に変換出来るアデルが魔力を込めれば込めるほど炎の威力は上がり、全てを飲み込む灼熱となる。
『アデル隊長補佐、準備はいいか?』
頭の中に響いたユタカの声に、アデルは小さく頷く。彼女の両手の平の間に浮かんだ十センチほどの球体は、既に抑えきれないほどの熱と橙色の輝きを放っている。
見上げると、堕天使の気を引いていたニコールが後退を始めていた。
「ワシが風で押し上げてやろう」
何時の間にか背後に立っていたフウズイに振り返り頷くと、アデルは地面を蹴る。それを追ってきた風に乗り、彼女の身体は一気に堕天使の顔の前へ到達した。
その接近に堕天使が気付いて多数の黒い球体と刃を飛ばすより先に、橙色の球体が障壁に触れ、内部から爆発するように灼熱の炎が堕天使を包んだ。敵の攻撃魔法すら焼き尽くす炎の熱が離れた場所にいる魔法部隊にまで伝わってきて、ラウールは薄い障壁を張った。
『捕縛!』
勢いよく燃えていた炎が急速に鎮火すると同時に、ユタカの声がコハルの頭に響いた。
コハルは両腕を広げて、周囲の空間から紐を伸ばす。その数は四。黒炎竜の時と比べて少ないが、大きさと放たれる光は遥かに上だ。
障壁に遮られることなく拘束が完了すると、息吐く暇なく魔法が放たれる。
火、水、雷、風。四種の上位魔法の一斉放火。幾分かは堕天使が急遽作った薄い障壁に防がれたが、殆どの魔法が轟音と絶叫とともに堕天使の首付近に命中した。
魔法によって煙が舞い一時的に敵の上半身が隠される。それでも、近接部隊は足を止めない。隙を与えれば、それだけ大きな魔法を使う余裕が出来ることになる。コハルが耐えている以上、物理攻撃は精々噛みつきくらいだろう。気を付けるべきは、
「ノーモーションで来る魔法に気を付けろ!」
コウタは叫ぶと戦陣をきって地面を強く蹴った。直後、煙から出てきた闇の刃を数本叩き落とした時、煙から一瞬だけ黒い霧が姿を見せる。
もし、あの煙に紛れて黒い霧が散布されていたら、とコウタの表情が厳しいものになる。少し触れただけでも大量の魔力を吸い取る黒霧だ。いくら精鋭とはいえ、剣を振るうほどの力が残るかすら怪しい。
だが、その不安を吹き飛ばすように、一陣の風が真下から吹き、煙と、やはり隠されていた黒霧を空高く押し上げた。
下を見ずとも分かる。これはフウズイの魔法だ。
ハッキリと見えた首を見据えて、コウタは魔剣を巨大化させる。装甲は剥がれていないが、そのことに落胆する者はいない。元々魔物の固い装甲を崩すのは前衛の役割だ。剥がれていないのなら剥がすまで。剥がれたのなら跳ねる。首に迫る近接部隊十人の誰もにそれを出来る自信がある。
煙さえ晴れてしまえば、神経を研ぎ澄ました彼等には刃も球体も意味を為さない。全て叩き落とし、斬り伏せる。
そして、巨大化した魔剣の一撃が堕天使の首を捉える。装甲にヒビが入る確かな感触。そこから息吐く間も無く続く攻撃に、堕天使は絶叫を口にして拘束された手足に力を込め、その度にコハルは強く目を瞑り、崩れそうになる身体を、紐を掴むことによって支える。
金属同士がぶつかる音に続き、剣が折れたような音がした。堕天使の絶叫が響く中、その音だけは別の世界のものであるかのように戦場へ響く。
堕天使の首に刀を斜めに振り下ろしたキョウカと、その後ろに控えているガイアだけはしっかり見ていた。
キョウカの刀が折れたのではなく、堕天使の装甲が砕けたのだと。
だが、それを堕天使も感じたのか、先程以上の絶叫とともに、右手を大きく振り上げた。
「きゃっ!」と身体を支えていた紐を根元から千切られたコハルは前のめりに体勢を崩す。
捕縛魔法は解けて、堕天使の身体は自由になった。しかし、彼の目には既にガイアしか映っていない。
右手が一瞬止まると、地面に叩き付けるつもりなのか上空から巨大な拳がガイアを襲う。
だが、ガイアに焦りは見られない。今からでは回避も間に合わず、防御しても重傷は免れないことも理解したうえで、彼女は前を見据えていた。
何のために指揮官が前線まで出て来てると思ってるんだ、とガイアが内心で敵に問いかけた瞬間、
「止まれ!!」
黒炎竜の時と同じ声が戦場に響いた。
あの時、偶然開花したユタカの固有魔法。
名は『強制魔法』。味方のみではなく、簡単な指示ならば敵すら従えさせる言葉による魔法だ。
頭上僅かなところで止まった右手に目もくれず、ガイアは『激高』の戦闘魔力を剣に集中させる。近接部隊による攻撃はガイアで最後。一撃で刈り取るしかない。
全力を込めて首に向けて剣を振るう。しかし、首の肉を切る寸前のところで障壁が作られる。
「ぐっ!」と声を漏らしたガイアだが、すぐさま両手に再度力を込めて直すと、構わず大剣を叩きつけて障壁を砕き、勢いそのままに堕天使の首を断ち切った。
空間を切り離したような静寂の中、ガイアは足を地面に着けて振り返る。そして、直後に起こるざわめきに続き、歓声が沸きあがった。
切り離された首が血肉を撒き散らしながら反対側に落ち、胴体は立ったまま黒い蒸気を上げて溶け始める。
歓声を背にそれを見上げていると、ガイアの隣にアデルが立った。
「ガイア隊長、お疲れ様」
「あなたの方が疲れてるでしょ」
「まぁそうだけど」
正直なアデルにガイアは肩の力を抜いて呆れ笑いを浮かべて、遠くにいる魔法部隊を見る。
「今回、特に疲れてるのは前衛よりも後衛でしょうね。敵を狙って勝手に動く魔法なんて私も初めて見たし、神経使ったでしょ」
「まぁそれなりに」
「相変わらず会話を盛り上げる気ゼロね」
そう言っても変わらず澄まし顔をしているアデルに渋い顔を向けてからガイアは再度堕天使の胴体を見上げる。
「後はヨウと大司祭様の方ね。あの中で何が起こってるのかは知らないけど……」
遠くにいるシアを横目に見ると、心配そうな表情で虹色の障壁を見つめていた。近付かないのは、そう大司祭様に言われたのかしら、とガイアが小首を傾げた時、
「ガイア」とアデルが短く名を呼ぶ。
「なに? アデルに呼び捨てされるなんて久し振り――」
「闇が集まってる」
その言葉にガイアは一瞬頭が白くなるが、すぐにアデルの目線を追った。
アデルの言うとおり、胴体から出ている黒い蒸気が堕天使の生首を隠すように揺らめいている。
『気を抜くな! 敵の頭部に――!』
ユタカの声が頭に響いた瞬間、脳漿を撒き散らしながら堕天使の頭部から強烈な光が放たれる。その場にいた誰もが思わず腕で目をかばった瞬間、二方向から複数の短い悲鳴が響いた。
光が収まり、ガイアとアデルが目を開けると、二つに割れた頭部の間に白い布で身を包んだフェリシタが立っていた。大きさは人間と変わらない。しかし、その頭には角、背中には翼を生やしており、まるで感情の無い顔は人間とは思えなかった。
そしてなにより、光と共に放たれ、仲間の首を跳ねた、おそらく闇の刃が、フェリシタが依然として敵であることのなによりの証拠だろう。
「近接部隊、二人死亡」
「……魔法部隊は三人ね」
アデルが横目で背後を見て口にした言葉に、ガイアはそう返す。表情も口調も冷静だ。しかし、彼女が纏う赤色の戦闘魔力は明らかに膨れ上がっていた。
「……コウタ隊長は生きてる。飲まれちゃ駄目」
「分かってるわよ!」
そう叫びながらもどこか安堵している自分に、ガイアは嫌悪感を覚える。
「やられたのはラウール隊長の障壁、キョウカの範囲防御が届かなかった場所にいた人達みたい」
「……そう」
小さく息を吐いてから剣を構えて敵を睨みつける。
虚ろな目で辺りを見るフェリシタの周りを、計六つの黒色と白色の球体が円を描くように高速で飛び交う。
『魔法部隊は距離を取れ。近接部隊はその間敵を引きつけておいてくれ』
ユタカの指示に頷いてから、ガイアは前を見たままアデルに言う。
「アデルも早く向こうに合流しなさい」
「……出来るかな」
その言葉と同時に、フェリシタがアデルに目を止め、虚ろな瞳を大きく開いて病的とも言える狂人のような笑みを浮かべた。
「ほのオ」
掠れた声でフェリシタは言い、周囲を飛んでいた球体の一つを掴むと、二人に向けて滅茶苦茶なフォームで勢いよく投げた。
ガイアが大剣を横に構えながら一歩前へ出る。物理攻撃タイプの球体がいくら固いと言っても、ガイアの攻撃なら破壊出来ることは既に確認しているうえ、爆破タイプならば炎使いのアデルがいればどうとでもなる。
そして、その通りに球体は真っ二つに割れた。
考えが不足していたところは、この球体を作る時間がフェリシタには存分にあったことだろう。隊員達が歓声を上げ、ガイアが気を抜くほどの時間、延々とこの球体に魔力を込めていたのだとすれば、特殊な魔法を込めた硬質な球体を作り出すことくらい、今のフェリシタには容易い。
大剣によって切断された白い球体が地面に落ちると同時に、ガイアが大剣を地面に刺し、腹部を抱えてその場に片膝を着く。
「……ガイア?」
ケタケタと笑うフェリシタを見たまま、アデルが隣に立って名を呼んでも、聞こえるのは痛みを堪えるような呻き声だけだ。
もしかして、と目を細くするアデルの頭に浮かんだのは、天の使いのみが使用可能とされた『平等魔法』。そうだとすれば、ガイアが言葉も発せられないほど苦しんでいる原因も分かる。この魔法を掛けられた二人は、完全に平等な存在となり、片方が負った傷はもう片方も負うが、相手の思考が分かるようになる。通信魔法がなかった千年前ならば仲間同士の連携を取るために重宝されていた魔法である。だが、生物以外に使用することは不可能とされていたはずだ。
しかし、そうだとすれば、ガイアは知らず知らずのうちに魔法を掛けられていたこととなる。元は補助魔法なので有り得なくはないが、もしそうならば、残り五つ、白い球体だけでもあと二つ、つまり最低二人は平等魔法に掛けられている可能性が高い。
このことを、ユタカに伝えねばならないだろう。だが、とアデルはガイアを横目に見る。フェリシタから目は離していないものの、立ち上がることさえ難しそうだ。当然だろう。人間同士の平等魔法のように傷や出血こそないものの、身体を二分にされた痛みが今も彼女を襲っているのだから。
残り少ない魔力でガイアを守りながらここを離脱出来るか。それを、敵が許すのか。
『平等魔法か』
焦りが生まれた瞬間、ユタカの声が頭に響いた。今、彼がどこから状況を確認しているのかは分からないが、その冷静な口調にアデルの心も落ち着く。
「多分、私にも掛けられてる。白い球体がそうなのだとすれば、もう一人誰かにも」
一番怪しいのは装甲を砕いたキョウカ、次点で魔法攻撃の中で最も威力が高かったであろうフウズイ辺りか。
『了解した。アデル隊長補佐はガイア隊長を連れて、治癒部隊へ行ってくれ。その後は、魔法部隊と共に待機』
その言葉と同時に、アデル達とフェリシタの間に十人の背中が割り込んだ。元々十三人だった近接戦闘員のうち、二人は死亡、ガイアは戦闘不能となり、ここにいる者で全員だ。
アデルがガイアを背負ってその場を離れると、十人の中央に立っているコウタが口を開く。
「白い球体は攻撃しないように。黒い球体も正体が分からない以上、防御するよりも避けるべきだろうね」
敵の周囲を高速で飛び交う五つの球体を避け、尚且つ当てないように攻撃を加える。
「敵はさっきまでと比べて大分脆そうだ。上手くやれば一太刀で終わる」
それが如何に難しいか分かっていながらも、隊員達は一斉に頷いた。
フェリシタは舌をだらしなく垂らし、右目だけ大きく開いて気味の悪い笑みを浮かべる。
「ケん。かタナ」と、コウタとキョウカを指差して笑うと、
「かたナ。カタな」
白い空間に手を突っ込み、そこから先が鋭利に尖った金属製の杖を取り出した。
魔法の危険を感じて隊員達が地面を蹴った瞬間、フェリシタは目前まで接近していた。双方が同時に地面を蹴った。それだけのことだ。しかし、フェリシタが魔法使いだという認識が、その行動を有り得ないものとしていた。
完全に不意を付いただけではない。フェリシタの移動速度は、彼らの誰よりも早かった。
すれ違いざま、端にいた隊員の首が宙に飛ぶ。
振り返り、再び向かい合った両者の間に落ちている胴体と首を見て、フェリシタはケタケタと笑った。魔法を使う素振りは一切ない。
まさか、近接攻撃だけで戦うつもりなのか。
その考えが浮かんだ瞬間、何人かの頭に血が上る。ここにいるのはティノジア最強の戦士達だ。そんな彼らが悪魔化したとはいえ魔法使いに接近戦を挑まれる。それは屈辱以外の何者でもなかった。
そして、その怒りの感情は、彼等の思考を単純なものとする。簡単なことすら頭から抜け落ちてしまうほどに。
ケタケタと笑っていたフェリシタが、前触れ無く地面を蹴った。一瞬で距離を詰めて、一人の隊員に向けて杖を振りかぶる。
隊員は驚きに目を見開くが、すぐに怒りを浮かべると、杖の一撃を左手の小太刀で受け、右手の小太刀を首に向けて振る。
その間に、白い球体が割り込んだ。隊員は咄嗟に矛先をずらすが間に合わず、白い球体を二分した。小太刀は障壁に阻まれて、その隙を狙った魔王の左手により胸部を引き裂かれ、その衝撃と痛みにより膝を着く。
トドメと言わんばかりにフェリシタが振り上げた杖を、一足に接近したコウタが巨大化させた魔剣で弾き飛ばす。
「かタナ、カたナ」
コウタを見向きもせずに後退したフェリシタは、杖を手に取ると振り返りケタケタと笑う。
「……治癒部隊へ」
庇うように前に立ったコウタが口にした一言に、隊員は勢いよく立ち上がる。
「隊長! 俺はまだ――!」
その時、視界の隅で、他の隊員達が何かを守るように固まっていることに気付く。彼等の足の隙間から見えるのは、自身の足を押さえる白髪の少女、キョウカだった。先程二分した、白い球体が脳裏をよぎる。
「キョウカさんを連れて、早く。冷静になったら戻ってきてもいい」
静かな怒りの籠もったコウタの言葉に、隊員は唇を強く噛んでから、
「了解です……!」と絞り出すように言った。
コウタ達がフェリシタとぶつかると同時に、隊員はキョウカを抱えて全速力で地面を蹴る。ただの敵前逃亡ではない。自分が傷付くだけでなく、仲間に傷を負わせた。
隊員が治癒部隊に着くと、そこには大量の汗を流したまま地面に横たわるガイアの姿があった。
二人に気付き駆け寄ってきたシアを見て、隊員は疑問に思う。ノゾミとコマチは怪我人を見ているが、シアの手は空いている。何故ガイアになにもしてやらないのか。
「キョウカさん?」
その呼び掛けに、隊員が我に返り、事情を説明すると、シアは俯き、キョウカをガイアから距離を置いて寝かせるよう他の者に頼んだ。
隊員がキョウカを他の者に渡すと、シアは隊員の前に立ち、両手を胸部にかざすと治癒魔法を掛け始める。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺よりアイツの方が……」
その言葉に、近くにいた者の表情に影が差した。
「私達の魔法は傷を治すものです。痛みだけを消すことは出来ません」
シアが淡々と口にした言葉に、隊員は呆然と立ち尽くす。そうしている間に驚くべきスピードで治癒は完了し、胸部の痛みが嘘のように消えた。
「……痛みを消すには、あいつを倒すしかないのか」
「おそらくは」
即答したシアの手から淡い光が緩やかに消えていく。
「そうか。済まない。助かった」
隊員が走り出すと、入れ違いに二人の近接戦闘員が治癒部隊へ向かって駆け込んだ。先程までの自分達のように、一人は担がれている。
「こいつを頼む。それと、黒い球体の効果が分かった」
背後から聞こえた言葉に、隊員は思わず足を止める。
「白い球体は特定の相手に痛みを、黒い球体は攻撃した相手に痛みをそのまま返す。どっちにしろ、まともに攻撃出来ねぇ」
悔しげな言葉を背に、隊員は再度駆け出す。それならば、自分にも出来ることがあるかもしれないと。
その背中を心配げに見てから、シアはキョウカの横へと行き、膝を曲げてしゃがむ。
「キョウカさん、こんなことしか出来なくて、ごめんなさい」
額の汗を拭こうとタオルを持った手を伸ばした瞬間、手首をキョウカに掴まれる。
痕が残りそうなほど強い力に驚きを浮かべるが、抵抗はせずに左手にタオルを持ち替えて汗を拭くと、手首を掴む手にそっと左手を重ねて額を付ける。
顔を上げたシアが見たのは、戦場とは逆方向にある虹色の障壁。少し前から絶叫は聞こえなくなったが、二人が出て来る様子はない。
「ヨウさん……」
口からこぼれた言葉に、答える者はいなかった。
虹色の障壁の中ではティアが壁にもたれて荒い呼吸を繰り返していた。全身から大量の汗を流し、その表情にいつもの余裕はなく疲労しきっている。
「……とりあえずは、成功ね」
そう呟いたティアの視線の先には、仰向けで寝息を立てるヨウの姿があった。安らかな寝顔とは裏腹に、彼の全身は血と汗によって汚れている。大きな傷はないにしても、細かい傷が多く、負傷箇所によっては出血量も激しい。
ティアは震える手を壁に付けて障壁を解除する。ユタカの通信魔法により外で戦いが続いていることは分かっていたが、虹色の障壁を展開し続けるのが困難なほど魔力を消耗していた。
「大司祭様!」
駆け寄ってきた神官を俯いたまま掌を向けて制止してから、ティアはヨウに顔を向ける。
「私は大丈夫です。先に彼の傷を」
その指示に従い、三人のうち二人がヨウを挟んで腰を下ろして治癒魔法を掛けようとした瞬間、ヨウが突然目を開き上半身を起こした。
「ここは……って痛っ! 身体痛っ!」
「静かにしなさい」
神官に支えられながら立ち上がったティアの呆れ気味な言葉に、神官達が肩を跳ねさせた。当のヨウは涼しい顔をして、「あー」と辺りを見て状況を把握している。記憶するだけの余裕があったかは定かではないが、ユタカの通信魔法はヨウにも届いていたはずだ。
ヒックリカエル事件で大神殿では未だ悪名高いヨウに神官は腰が引けながらも治癒魔法を掛けるために両手を伸ばすと、その手を掴まれて思わず悲鳴を上げる。
「うちの神官を苛めないでちょうだい」
「いや、人に手を掴まれただけで悲鳴上げるってどういうことだよ」
手を離すと、神官は尻餅を着いたまま物凄い勢いで後退りをしてティアの背中に隠れる。
「あなた、世界的にはちょっとしたヒーロー扱いされているけれど大神殿ではヒックリカエル、よくて村人よ」
「ロキナが優しく思える不思議」
「あの子はヒックリカエル派よ」
「なんでだよ」
村人の名付け親だろ、としかめ面をしてから、ヨウは身体中に痛みを感じながらゆっくりと立ち上がる。
「戦うつもりなの?」
「それしかないだろ。この傷もちょうどいいし、全滅するよりマシだ」
「意外と仲間を信頼してないのね」
「してるに決まってんだろ。だから、死なれたら困るんだよ」
当然のように言うヨウに、ティアは呆れたように溜め息を吐く。
「あの子、今度こそ泣くわよ」
ヨウの肩越しに目を向けるティアにつられて振り返ると、駆け寄って来るシアの姿があった。
「……問答無用で治癒されそうだから俺は逃げさせてもらうぞ」
苦笑するヨウにティアは好きにしろというように頷くと、
「血の流しすぎには気を付けなさい」
「あぁ、分かってる」
ヨウは振り返り、笑みを返して前を向くが、「そういえば」と呟くと再度ティアを見た。
「魔物化抑えてくれてありがとな」
「……別に。大司祭として当然のことをしただけよ」
その返事に歯を見せて笑ってから、ヨウは地面を蹴る。
「ヨウさん!」
途中、足を止めたシアにも笑みを返し、
「ちょっと行ってくる」とだけ言って横を通り過ぎた。
ヨウが目を覚ます少し前。
現在戦っている四名――コウタ、ニコール、ギルド『ウインド』に所属している双子槍使い、ギルとラサンのうち、フェリシタに速度でまともに対抗できるのは、ニコールのみだった。そのせいかフェリシタは執拗に彼女を狙い、そして負けん気の強いニコールもそれに応じていた。速度では僅かにフェリシタが、剣技では僅かにニコールが勝る中、有利なのはやはりフェリシタだった。ここにきて浮き彫りになっていく圧倒的な体力差、そして白い球体の存在が彼女の剣を鈍らせていた。
白い球体に掛けられた平等魔法の対象。最も怪しいのはアデルだろう。しかし、ここにいる四人の場合、更に困難な状況に陥ることになる。
その考えがまた、彼女の剣を鈍らせた。
出が遅れた剣とフェリシタの間に、白い球体が割り込んでくる。ニコールは咄嗟に手首を回すと球体を剣の腹で叩き、すぐさまもう片方の剣をフェリシタの首へ向けて振る。
それが杖によって防がれると同時に、杖の先が淡く光ったのを見てニコールは後退し、追撃してきた白い刃を剣で弾いた。
「……あの」
厄介な相手だ、と剣を構えたニコールの横で、ラサンが槍を構えたまま青白い顔をして口を開いた。
彼の両隣に立っていたニコールとコウタが剣を構えたまま横目に見ると、
「さっき、僕の全身に軽い衝撃と痛みがはしりました」
その言葉に他の三人、特にギルは大きく目を見開く。
「あの球体は、少なくとも今は僕と繋がっています。今のうちに、破壊しましょう」
「な、何言ってんだ!」
そう声を荒げたのはギルだった。重量のある巨大な槍と盾を持っている弟とは対照的に、ギルが持っているのは投擲も可能であろう短槍と小型の盾。それぞれの持ち味を生かした連係攻撃は『ウインド』の名無くともティノジアに知れ渡っているほどだ。
しかし、
「ギル、この敵相手じゃあ僕は役に立てそうにない」
本人が言うように、ラサンはフェリシタの戦闘スピードにまるで付いていけずにいた。戦闘経験による勘と身体が隠れるほどの巨大な盾のおかげでここまで生き残ったが、他三名の攻撃に比べてあまりに鈍重な槍は未だに敵に掠りもしていない。
「それに、僕を残すよりも、最後の白い球を破壊して魔法の援護を受けられる状況にした方がいい」
その言葉に再び声を荒げるギルを見ながらフェリシタはニタニタと笑う。ムソウと同等の治癒能力を持つ彼の身体には傷一つ残っていないが、身を包む白い布には自他の血で赤い模様が出来ている。
ラサンの言葉に否定的なのはギルのみ。コウタもニコールも、そして通信魔法により会話を聞いているであろうユタカも、選択肢として間違ったものではないと考えている。今必要なのは状況を変えることだ。前衛が、ラサンが離脱しても、ここまで残った三人であれば容易くやられるようなこともないだろう。魔法の援護が可能になるならば尚更だ。
『……ラサンは戦場から離脱。他の三人は、それを確認した後、白い球を破壊してくれ』
ユタカの指示に、ギルは「なっ……!?」と空を見上げる。
ふざけんな! そう叫ぼうとしたギルを、ラサンの言葉が遮る。
「ギル、すぐに熱くなるな。今はこの判断がベストだ」
「だけどよ……!」と納得しかない表情のギルに苦笑を浮かべると、ラサンは踵を返す。
「僕らで魔王を倒すためだ。とりあえずここはギル達に任せる」
そう言って地面を蹴ったラサンの背中を見てから前に向き直ったギルにニコールが口を開く。
「本来なら球を壊す役を引き受けてやりたいところだが、生憎とそんな余裕は誰にもない。……覚悟は出来たか?」
ギルが眉間に皺を寄せたまま頷いたのを横目に確認して、ニコールとコウタは目線を前に戻す。
話終わった? 戦う? そう問うようにフェリシタは首を傾げる。
それに応えたわけではないが、三人は同時に地面を蹴る。
フェリシタは黒の刃を二発放つと、それを弾いたコウタとギルよりも一足早く到達したニコールに向けて杖を振る。
力任せに振るわれた杖は短めの剣一本では押さえきれず、ニコールは武器ごと後方に押し返されるが、フェリシタが追撃に移る前にコウタとギルが左右から攻撃を放つ。
魔剣には障壁を作り、槍には白い球体を移動させたフェリシタに、ギルは一瞬手が止まりそうになるが、歯を食いしばると、そのままフェリシタの首に目掛けて槍を突き刺す。ここで決めれば、ラサンの痛みは一瞬で済む。
だが、その行動が分かっていたかのように、ギルの攻撃は白い球体を貫き、フェリシタの首に触れる寸前で白い障壁によって阻まれる。
「くそ!」と思わず悪態を吐きながら、ラサンが撤退して行った方向を無意識に見たギルの目線の先で、ニコールが地面に両膝を着き、そのまま前のめりに倒れた。
目を見開くギルを見て、コウタもこの状況に気付き、咄嗟に後退する。
「隊長、どういうことだ!? なんでニコールが……」
「……対象の途中変更が可能なのか、それとも……」
倒れたニコールの前に立って焦燥を浮かべる二人に、フェリシタはケラケラと可笑しそうに笑うと、
「だまサれた。ダまさレタ」
と言って、懐から白い球体を一つ、親指と人差し指に挟んで取り出した。
球体はもう一つあり、対象がニコールのものとラサンのものを、隙を見て入れ替えていた。二人がそう気付いた瞬間、フェリシタは口角を上げて邪悪な笑みを浮かべる。
何をしようとしているのか察したギルが勢いよく飛び出すが、フェリシタは「キヒッ」と小さく笑うと、球体を指で押し潰した。
「ぶっ……殺す!」
激怒で歪んだ表情のまま槍を突き出してきたギルに、フェリシタは再度「キヒッ」と笑うと、ひしゃげた球体の残骸を槍先に放り投げる。
ギルが槍を止めた隙にフェリシタは懐に飛び込み、杖をギルの腹部に突き刺した。「キヒヒ」という笑みと共に、腹部に突き刺さったまま杖が反転させる。杖を持つ手に力が込められて、このまま頭まで振り抜くつもりであることをギルが激痛の中で察した瞬間、フェリシタの両腕がコウタの魔剣によって叩き斬られる。
悲鳴を上げながら跳ねて後退するフェリシタを横目に、コウタはギルを脇に担いで駆け出す。
「にこ、ぉるは……」
「ニコールはユタカが運んで俺達の前を走ってる!」
コウタの背中側に頭がくるように担がれた彼から前はよく見えないが、その言葉にひとまず安堵したギルだったが、その視界に憤怒の表情を浮かべたフェリシタが視界に入った瞬間、背筋に寒気が走った。先程までの邪悪な笑顔が愛嬌のあるものに思えるほど顔を歪めたフェリシタの両腕からは、黒く、長く、先の尖った悪魔の腕が生えていた。
このフェリシタは、間違いなく、撤退をこのまま見過ごしたりしない。
それを伝えようと首に力を入れた時、禍々しいフェリシタの姿を隠すように、黒いローブが視界に広がった。
「……少し見ないうちに小さくなったな」
ヨウが呟き、身体に付着した血を集めて赤黒い刀を作って右手に握ると、フェリシタが短い咆哮とともに襲いかかってくる。跳躍とともに黒い腕を振り上げ、ヨウに向かって風を切る音を立てながら振り下ろす。
右腕の突きを受け止めたヨウの口から小さな呻き声が漏れた。重い攻撃。しかも、それが、もう一発残っている。
振り上げられた左腕が攻撃に移る前に、ヨウは無理やり右腕を弾くと同時に左腕にも剣先を当てる。ダメージはなくとも牽制にはなる筈だった刀の動きに、フェリシタは怯む様子を微塵も見せずに左腕を振り下ろす。
カウンター気味となった刀が左腕を裂こうがお構いなしに振り下ろされた拳は、頬に直撃する寸前に現れた障壁すら砕き、ヨウを吹き飛ばした。
拳を握っていてくれてよかったな、とヨウは口の中に溜まった血を吐きながらすぐに立ち上がると、血を操り小型のナイフを七本作り出し、接近してきたフェリシタに向けて飛ばした。
それらをフェリシタはなんなく避け、両腕で弾いていく。そして最後の一本を左腕で弾き、それと同時に払われた刀を右腕で防ぐと、身体を回転させて指を揃えて尖らせた左腕をヨウの横っ面目掛けて振りかぶる。ヨウは身体から軽く力を抜き後ろに大きく下がった。
追撃を警戒したが、フェリシタはその場に立ち止まったまま荒い呼吸を繰り返している。
攻撃を凌ぐこと自体はなんとか可能だが、攻撃に転じることは難しいだろう。なにより、下手に傷を付けて両腕以外も硬質化されてはどうしようもない。
狙うべきは生身の部分。しかし、四肢を切り落とす時は同時に首も切らねば勝機を逃すことになるだろう。
コウタは戻ってくるとして、フェリシタに太刀打ち出来るほどの腕を持った者が最低あと一人は欲しい。
そう考えたヨウの頭に、快活な笑顔が浮かぶ。
「お前がいたら楽勝だっただろうな」
呟き、笑みを浮かべたヨウに、フェリシタが襲いかかってくる。
二本の刀を両手に持ち、それを迎え撃とうとしたヨウの背後から巨大な風の刃がフェリシタへと飛来した。完全に不意を付いた首への一撃だったが、フェリシタは咄嗟に両腕を交差させて刃を防ぐ。
「悪いのう、ヨウ。魔法部隊でまともに戦えるのは、この老いぼれくらいじゃ」
「風の隊長サマが何言ってんだよ」
斜め後ろ、少し高い位置から聞こえる声に、ヨウは笑みを浮かべながら返す。
「百人力だ」
地上二メートルほどの位置に浮いているフウズイは鼻で小さく笑うと、フェリシタに向けて右手を前に出す。それと同時に現れた十を超える風の刃を、フェリシタは黒の刃で相殺させた。
「気を付けろよ、ヨウ。こやつは弱い魔法なら動作無しに使う」
「みたいだな。さっきまで使ってなかったんだけど……馬鹿みたいに突っ込んでこないところを見るに、頭に上った血が降りてきたのか?」
「さぁの。……コウタ隊長が来るまで前衛は任せるぞ。老いぼれより先に死ぬでないぞ」
「隊長も死ぬなよ? アンタが死んだらシアが悲しむ」
その言葉に、フウズイは不思議そうな表情をする。
「わしはシア嬢と何の接点もないが……」
「アイツが言ってたんだ。『フウズイ隊長はチワワみたいで可愛い』って」
「ちわわ?」と首を傾げるフウズイを見て笑みを浮かべてから、ヨウはフェリシタと向き直る。
「コウタさん!」
治癒部隊にギルを送り届けたコウタが戦いに戻ろうとした時、シアの声が響いた。
振り返ると、そこにはシアと、神官に支えられて歩くティアがいた。
「ヨウさんは……」
その問いに、コウタは振り返って答える。
「今は多分一人で戦ってる。フウズイ隊長も向かったみたいだけど、早く俺も戻らないと……」
「待ってください」
焦りを漏らしたコウタを、今度はティアの声が呼び止める。
「彼……ヨウ様が使っている血を操る魔法は多用出来るものではありません。ただでさえ彼は体力を大分失っています。どうか、早い段階で勝負を決してください」
「血を操る……?」とシアは疑問をこぼすが、コウタは撤退の途中、その魔法を横目に目撃している。
コウタは頷くと、ティアに頭を下げてから踵を返し地面を蹴った。
ヨウとフウズイが共闘を始めた当初はヨウばかり狙っていたフェリシタだったが、どちらが如何に厄介か気付いたのか、途中から狙いをフウズイに変更した。
こうなると、ヨウが狙われるより格段に対処が難しくなる。この場で最も速く動けるのはフェリシタだ。彼を後ろに逸らせば、僅かな時間だがフウズイはフェリシタを一人で抑えねばならない。年老い、戦闘魔力が殆ど馴染まないフウズイにとって、その僅かな時間は十分に命取りとなる。それが分かっているため、ヨウはフェリシタを通さないよう身体を張る。そしてフウズイもまた、ヨウ一人では一分も持たないであろうことが分かっているため、歯を食いしばりながらその場に留まっている。
ヨウに攻撃を続けるフェリシタは、先程までのように憤怒に顔を歪めても、邪悪な笑みを浮かべてもいない。感情の一切を見せずに、ただ機械的に、だが的確に攻撃を加える。その攻撃はヨウの身体に細かい傷を増やし、そのたびに少量の血が宙に舞い、赤色模様となった白い布を更に赤く染める。
両腕、そして刃魔法による連続攻撃を受け続けていた時、不意に右手の刀が根元から折れた。その瞬間を狙って放たれた白の刃をフウズイの障壁が、左腕の突きをヨウが自らの障壁で防ぐ。それすら構わずに攻撃を続けようとするフェリシタにたまらずヨウが後退すると、駆けつけてきたコウタがその隣で足を止める。
「まだ戦えそうだね」
「スパルタだな、おい」
フェリシタを見たまま口元に笑みを浮かべて言うコウタにヨウは軽口を返しながら、刀を作ろうと右手に血を集めるが、そうして出来たのは考えていた刀よりも刃が短い小刀だった。
眉をひそめるヨウを横目に見たコウタの頭にティアの言葉が浮かぶ。彼女の言った通り、あまり余裕は残されていないようだ。
「狙いは手足、少なくともどっちかを斬り落としたら首を狙おう」
ヨウが頷き、右手に刀を、左手に小刀を持ち替えると、フェリシタが地面を蹴って一瞬で距離を詰めてきた。
空中から叩きつけられた右拳を二人は左右に跳んで避けると、それぞれ両手足を狙って武器を振るう。
その攻撃を宙に跳んで避けたフェリシタを、豪風が襲う。ただの風ではなく、細かい風の刃を含んだ風は、フェリシタの腕以外に小さな傷を付ける。顔を腕でかばいながら障壁を展開したフェリシタは苛立ちのこもった目を腕の間からフウズイに向けると、両腕を広げて巨大な黒の刃を三発放った。自身も足元に障壁を作り出して追い討ちを掛けようと膝を曲げた時、フェリシタの目前にヨウが、背後にコウタが現れる。
身体を横に向けたフェリシタは両側からの攻撃を左右の腕で防ぐ。小刀による二撃目も障壁により無効化し、反撃に移ろうとヨウに顔を向けた瞬間、フェリシタの顔に激痛が走った。
彼の目には赤黒い針が刺さっている。それほど大きな針ではないが、生身の眼球に対しては十分過ぎる攻撃だった。短い声を上げて怯んだフェリシタの手足に向けて、二人はそれぞれの武器を振るう。
魔剣に右足を、血の刀に左腕を切り飛ばされ体勢を崩しながらも、飛来した風の刃を右腕で防ぐ。だが、次の瞬間には魔剣に右腕すら吹き飛ばされた。
フェリシタが最期に見たのは、汗と血で顔を汚しながらも冷静な表情で刀を振り上げるヨウの姿。
「……ユ……さま、にゲ、テ」
血の刀が、フェリシタの首に触れる寸前で止まる。
コウタとフウズイは目を見開き、代わりに追撃を加えようとそれぞれ動きを見せるが、力なく地面に倒れていくフェリシタを見て、その動きを止めた。
「……俺達の勝ちだ」
身体が黒い粒子となって崩れていくフェリシタに背を向け、刀を消しながらヨウは言う。その口調に、勝利の喜びは感じられない。
遠くから徐々に湧き上がる歓声にコウタやフウズイが顔を向けると、一際大きな声が上がる。
『あれ? 終わり?』
歓声を掻き消したのは、そんな素っ頓狂な声。そしてそれに続いてコウタ達の近くに転移してきた魔王キルバライガだった。
「あれで死んじゃったの? やっぱり人間の身体って弱いなぁ」
キルバは黒い粒子の山を見ながら「まぁいいや」と言うと、顔を上げてヨウに目を向ける。
「やっぱり君の力はズルいね。本来なら徒党を組むべき存在じゃない。僕のように力で全てを従わせるような存在だ」
「徒党を組んでなかったら俺は今頃平和に暮らしてたっての」
シジンの鎌を取り出しながら返すヨウに、キルバは「はは」と笑った。
「世界のこともどうだって良さそうな感じが更に僕に似てるよ」
「……それは褒めてんのか? 嫌味なのか?」
「それは受け取る方次第だよ」
「じゃあ嫌味ってことで」
顔をしかめるヨウに、キルバは愉快そうに口角を上げる。
「フェリシタがあっさり負けちゃったのは残念だったけど、まぁいいや。君達の勝ちだ。生き残った全員を真の強者と認めよう」
その言葉に険しい表情をして戦闘態勢に入ったコウタとフウズイを見て、キルバは「おっと」と片手を前に出す。
「別に今から戦おうってわけじゃないよ。部下に戦わせて弱ったところを狙うなんて勇者みたいな真似はしないからね。一回ティノジアに帰って英気を養うといい」
「随分と親切だな」
「君達にどういう記録が残ってるか知らないけど、千年前から僕は卑怯なことなんかしたことないよ」
そう言って笑みを浮かべるキルバに、ヨウも小さく笑みを返す。
「そう言われれば、そんな記録は残ってなかったな」




