第二節 白髪の少女
隼の入学式が迫ったある日、衣桜と彼女の父親が乗った車が事故を起こして、父親はまもなく死亡、彼女も重傷を負った。隼は事故の詳細をよく知らない。──あまりにも驚愕の出来事であり、そしてあまりにも現実味がなかったことで、初めて実際にそうした一連の騒動が起こったことを実感したのは、病室のベッドで弱々しく横たわる衣桜を見た時だった。その瞬間、隼は自分の体がどっと重くなったような気がした。泣きたいような、叫びたいような、どうしようもないもやもやとした気分になった。結局、一言も何も言えないまま家に帰り、それが義務であるかのようにただ呆然とした。
怪我による後遺症を負った衣桜は、医者の薦めで療養のため、遠方の親戚の家へ引っ越しており、現在も静かな環境で治療を続けている。
衣桜との仲はそこまで積極的でなく、いってしまえば中途半端なものだったから、当時の隼には衣桜のその後の経過など知るべくも無かった。隼はわけも分からずがっかりとした。たまに偶然が働いて顔を合わせて言葉を交わす、その可能性がまったく消え去ってしまったからだろうか。
だが意外なところから、彼女との関係を保てる手段がもたらされた。
衣桜の妹、乃衣は閏戸に残ったのだ。どうやら父方の祖母がこちらに引越してきて、当面の保護者に名乗り出てくれたらしい。
隼は入学してから数日後に、乃衣からメールアドレスを受け取った。それは衣桜のもので、隼はすぐに帰宅するとすぐにそこへメールを送った。なんと送ったかは覚えていない。とにかく、返信が来ることをひたすらに祈っていた。
返信はすぐに来た。隼は嬉しくなってすぐに返事を書いた。
その後は、話題が途切れたりすることもあったが、すぐにどちらかがまた新しい話題を出したりして、メールの行き来はほとんど絶えることなく、今に至る。交わしたやり取りはもう千近くになっていることだろう。
その電子的なつながりだけが、今、隼と衣桜を結びつける唯一のものだった。
「今も毎日メールしてるの?」
乃衣が訊いてきた。ここで誰と、と問い返すのは愚問らしい。
「まぁな」
「やっぱりねー。隼はお姉ちゃんに惚れてるしお姉ちゃんは律儀だから、絶対続くと思ったんだー」
「惚れてるってお前……」
隼は反応に困って言葉に詰まった。
「ん、違うの? 違うわけないよねー」
「……幼馴染ってだけだよ。それ以上でも以下でもない」
「そうなの? じゃあお姉ちゃんにそう言っても良いの?」
「それは……、ってお前も衣桜と連絡取り合ってるのか」
「え。当たり前でしょ! まさか、自分だけがお姉ちゃんとの通信権を独占してるなんて思ったの?」
乃衣が目を丸くしたので、隼は思わず視線を大きく泳がせた。図星では決して無いが、そういう風に思わせてしまったことが悔やまれた。
「んなわけないだろ」
「だよね。まあ、順調なら何よりだよー」
隼は乃衣がまた例の意地の悪いニタニタとした笑みを浮かべていると思ったが、満足そうな表情をしていたので意外に思った。
なので、隼は居住まいを正し前を向いて、
「……お前には感謝してるよ」
「どーも」
見ると、乃衣は例の意地の悪い笑みを浮かべていた。
『今日庭にネコが来たよ。今年で六回目』
家に帰ってから携帯を確認すると、絵文字やデコレーションの無い短い文面が届いていた。衣桜は飾ったりすることや派手なことが苦手らしく、身の回りのものはたいてい地味めだった。そんな性格を考えるとメールの文面はとても衣桜らしい。
『こっちはあまりネコがいないから羨ましい』
隼はそこまで打ち込んで送信しようとして、指をふと止めた。数秒その姿勢で待ってから、なんとなく語尾にネコの絵文字をつけて送信ボタンをタップした。そして、すぐ後に何でそんなことをしたのか分からず、気恥ずかしくなって隼は携帯を机の上に放り出して、ベッドに横になった。
返信はすぐ来るとも限らないし、別に気づかなくとも翌朝に返しても全く問題はない。授業で出された宿題は放課後、英太を待っている間で終わらせているし、隼は朝型なのでもうこのまま目を瞑って明日を迎えても良かったのだが、なんとなく寝付けずにいるうちに、着信を告げるバイブ音が聞こえてきた。
『羨ましいでしょ』
と、にこにことした顔文字つきの文面。続けて、
『いま、テレビでホラー特集やってて面白かったよー』
本当に楽しそうな様子が伝わってくる一文が添えられていた。
隼は無意識に口の端で小さく笑むと、ふと喉の渇きを覚え、起き上がって携帯を取ると台所へと向かった。麦茶をコップに注ぎながら返信する内容を考える。
『あれ、そういうのって好きだったっけ?』
そういえば衣桜はむかし、そういう系統のものはかなり苦手だったはずだが、成長して平気になったのだろうか。
隼はメールを送信してから麦茶を飲み干し、部屋へ戻った。
扉を後ろ手で閉めた直後に、衣桜から返信が来た。やけに早いな、と思いながらメールを開くと、
『むかしから好きだよー』
ネコの絵文字が付いている。
……だとしたら、そういう系統が苦手なのは乃衣なのかもしれない。あの姉妹は似ているから、勘違いしていたのだろう。
『そうだったっけ。苦手なもんだと勘違いしてたよ。じゃあ今日は寝るから、おやすみ』
隼はそう返してから携帯を充電器にセットすると、もう寝ようと思いベッドに足を向けた。
だがすぐに足を止めた。というか、動かなくなった。
ベッドの上には、誰かがそこに優しく置かれたように、座り込んで窓の外を見つめていた。隼には顔を背けているが、かなり華奢な体つきとかなり長い髪から、その誰かが少女であることは分かった。
ただ、その髪の毛は気味が悪いほど真っ白だった。
隼は気管がまるごと無くなったかのように、息ができず、その白い髪毛にがんじがらめにされたように身動きが取れなかった。
数秒後に、どたんという音がした。何の音かと思ったら、自分が尻もちをついた音らしかった。すぐに立ち戻ろうとしたが足腰に力が入らず、ただ怯えるようにその少女を凝視することしかできなかった。
その音に反応したらしく、白髪の少女がふと、振り向いた。
髪の色並に血の気のない顔、そして眼窩に宿る鮮やかな碧眼と、目があった。
その目は、ゆっくりと見開かれた。それは、まるでこちらの反応を求めているようだったので、隼はまばたきを幾度もした。どこから湧いたのか分からない唾液が喉奥に転がっていった。
少女はやおら立上って、すとんとベッドの上からフローリングに降り立ち、どこか急ぐように裸足の足を隼に向けて踏み出してきた。
隼は半ばパニックになって後ずさりをしたが、ほどなくして思い切り背中をドアにぶつけた。とにかく逃げなければ、と必死でドアノブを掴もうと手を伸ばす。
手首を掴まれた。
少女の顔は蒼白だった。大きく開かれた眼は、ぎらぎらと隼の顔を見続ける。そして、ゆっくりとその顔を隼の顔へ近づけていった。動悸が痛いほど激しくなる。恐怖が、全身を包み込んで離さなかった。
やがて、その瞳は柔らかく細められていき、隼の手首を掴んでいない方のほっそりとした手が、隼の頬へと伸ばされていき、触れた。
「……」
少女は何かを呟いたが、隼は聞き取れなかった。
もう耳の感覚を削がれたのか、と思った次の瞬間、少女はいきなり目をまん丸くしてから、さっと隼から離れて、それから何かを言いたげにもじもじした後、さっと壁へ飛び込んで居なくなってしまった。
何かでかい鎌かなにかを持って帰ってくるのかと思ったが、しばらく待っても戻ってこなかったので、隼は大きく息を吐きながら立ち上がった。ひどく出た脂汗を手の甲で拭い、隼は呆然とさっきまであの白髪の少女が居た空間を見た。
「何だったんだ……」
柄にもなく独り言を漏らす。
今のは、俗に言う心霊体験だったのか。ああいうたぐいの話は全く信じてこなかったが、実際に体験するとその恐怖感は段違い──、でも、少し落ち着いて思い返すと信じがたい体験だ。今のは本当に現実のものだったのか、と問われると、単に夢でも見ていたのではないか、と自信がなくなる。
隼はもう一度台所へ出て、もう一度麦茶を飲み干した。いや、でもきっと夢だったんだ。そうでなければ、受け入れられない。青い目の白髪の少女がいつのまにか、自分の部屋にいた、なんて。
嫌な汗に濡れる手を握りしめ心臓をバクバクさせながら、隼は自室の扉をなんとか開き、中を覗き込んだ。
果たして、誰もいない。
隼はほっとして肺にずっと押し込められていた空気を全部吐き出すと、リモコンで電気を消してベッドに潜り込んだ。こういう時はさっさと眠るに限る。
「あの、すみません……」
突然、背後から声をかけられた。隼はギョッとして目を瞠る。
「えーっと、その……落ち着いてください……」
声は困ったように告げる。「さっきは、いきなりごめんなさい……、それで……私の姿が見えるのですか?」
質問をされている。答えなければいけない。
「……み、みえ、ます」
「……そうですよね……そうでなければ、目は合いませんし……、驚きません……」
確かめるように、細い声は言う。目が合った、ということはやはり今、隼の真後ろにいて、話しかけてくるこの声の主は先ほどの白髪少女なのだろう。
「何を……?」
頭の中に困惑が湧きすぎて、ぽっとそんな言葉が口から出た。
「正直……私も、かなりびっくりしてるので先ほどは、あんな感じになってしまいましたが……えっと、ありがとうございます」
「……はあ」
何故か礼を言われた。
「つきましては、少しお話をさせて頂いても良いですか?」
「話って……何の?」
「……あなたの……人生に関わる、話です」
ドキリとした。この常識離れしたシチュエーションでこういう話題が出るのは、とても良くない──、そんな考えが隼の脳内でネオンのように点灯した。
「ちょっと待って欲しいんですけど……」
意識がぐらりとする。夢なんじゃないかと思いながら額を掌で抑え、隼は体を起こして部屋の電気をつけた。蛍光灯の明かりに一瞬目がくらむ。
一度落ち着いて、声の主の姿を確かめよう。
そう覚悟を決めて隼が振り向くと、──ベッドの上に生首があった。
「わああっ!」
隼は本気で驚いて、ベッドからひどく音を立てて落っこちた。
「あ、ご、ごめんなさい!」
生首もびっくりした様子で、ベッドから身体を生やした。「まさか振り向くとは思わなくって……」
「……」
ベッドの上でペコペコとしている少女を見て、夢にしてはかなりシュールだな、と落ちた衝撃で痛む腰を押さえながら隼は思った。
「あの、私……実体が無いもんですから……、すり抜けちゃうんですよ」
照れ隠しするような笑みを浮かべて、少女は言った。その姿を改めてよく見て、隼はあることに気づく。
白粉を塗ったくったようだった白髪は真っ黒だった。肌は色白であるが、さっき見た時よりも血色が良い。そして、異様だった碧眼は茶色になっていた。
さっきのとは別人なのか。でも、それだと言っていることの辻褄が合わない──
「実体が無いって、それは……」
もはや何がなんだか分からなくなって、そんな質問をするしかなかった。
「……えっと……私……」
少女は視線を忙しなく動かしてから、意を決したように一息に言った。
「幽霊なんです」
「…………はあ」
「……えー、えっと……」
隼の拍子抜けした返答に、自称幽霊の少女はおどおどし始めた。
「本当ですよう……」
「……まぁ、それは、分かりますけど……」
拍子抜けて、曖昧な返答になってしまった。ただ幽霊というのなら、初見のインパクトのほうがよっぽどそれらしかったんじゃないか、と隼は思う。
「わ、わかりますか、そうですか……」
少女もこちらの微妙な反応に戸惑ったようだった。隼は何かフォローを入れなければいけないような気がして、
「それで、俺の人生に関わる話って何です……?」
「ああ、そ、それ……!」
彼女はハッと、今思い出したように声を上げると、ぴょんとベッドから飛び降りて隼の前に座った。
「その前に、その、自己紹介をします。私の名前はゆうれ……じゃないです! わ、私の名前はサナリと言います!」
「……えっと、どうも……」
「そ、そんなかしこまらないでください、私は所詮死者ですから、あ、あなたはもっとフレンドリーで良いんです……」
「……」
バイトを始めたばかりの高校生でも、こんな緊張の仕方はしないだろう。苛々するというよりは、少し応援したくなる。誠意から頑張っていることが伝わってくる。──隼はいつの間にか、このサナリという妙に人間くさい幽霊の存在を受け入れてしまっていた。
「あの、これから私はあなたにすごい変な質問をします」
サナリはぐっと真剣な顔をつくった。隼もつられて口を強く結ぶ。
「……あなたはいま、幸せですか?」
「……」
確かに、変な質問だった。はいか、いいえか、のどちらかで答えればいいのだろうか。それとも、もっと小論文で書けそうな幸せのかたちについての考えを言えばいいのだろうか。いや、この訊き方はもう、イエスかノーかの二元論的な返事を求めている。
隼は横を向いた。そんなの訊かれたその場で、すぐに答えられるようなものではない。
「まあ、普通……かな」
なので、結局当たり障りの無い回答をした。巷に居るほとんどの人間が、こんな感じのことを言うのではないかと思う。
「ふ、普通ですか!」
なのに、サナリは食いついてきたので、隼にはとても意外だった。
「えと……別に、私ではなくて良いです、誰かにこの質問をされた時、全くの迷いもなく澄み切った気分で、当たり前です! って言い切りたくないですか!」
「まぁ、そう言えりゃ、苦労ないと思うけど……」
「そ、それなら、私と契約しましょう! 必ず幸福にしてみせます!」
サナリは声を上ずらせ、身を乗り出して力説した。一気に彼女の押しが強くなったので、隼は咄嗟に返事ができなかった。
「幸福って……」
幸福って、なんなんだ。なんでそのことにかけては、自信を持っているのか。このあまり頼りがいのなさそうな自称幽霊が、どうして俺の幸福を保証してくれるというのか。
──なんで俺なんだ。
さっきも思った。隼は今、自分が普通だと言った。それが、普通に幸せだ、という表現だったかどうかはおいといて、こんな回答は誰だってし得るものなのに、どうして自分にこの少女は幸福を与えに来た、というのか。
そして、契約とは──。
すっかり言うのを忘れてたんですけど、これはむかし自分が書いたマイリビングライセンスというもののセルフアレンジになります。作者の過去作品?みたいなので見れる?
つまりそれと設定はまったく同じ。いやまったくではないけど、そこそこ一緒なので、注意してください。
まあ、ほとんど一新しているので、万が一読んじゃってた人がいたとしても、そこそこエンジョイできるんじゃないかとおもいます。




