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第十九節 血潮、満ち足りて流転

 隼とサナリは部屋を出て、創夏の待っている部屋に戻った。テーブルの上には空になったカップラーメンの容器と、ビールの空き缶。いろいろな缶が詰まった小さな冷蔵庫はまだ健在だった。

「……今すぐに、解約をしたいです」

「はいよ。ま、アンタも優しいね。基本的にこの契約は人間優位だから、人間が主張すれば幽霊なんてすっぽんぽんの子どもみたいなもんさ。納得づくとは、なかなか良いことだ」

 創夏は感心そうに何度も頷きながらそう言うと立ち上がって、台所へと向かった。台所? なんだか、とても嫌な予感を肌で感じながら隼は立ちすくんで待っていた。

 やがて、台所から出てきた創夏が手に持っていたものを見て、その予感はまさに実感を持って隼の鳥肌を立てていく。

「はい」

 ぽん、と手渡されたのは、包丁。どこの家庭にでもあるような、白く光る刃と無骨な黒い柄を持ち合わせた調理道具。

「これで、自分の喉を引き裂くの。アンタの手で」

 創夏はさっきと変わらない口調で、さらりととんでもないことを口にする。

「ま、マジですか……」

「マジだよ! とにかくいっぺん、人間は死ななきゃいけないの。そうすると、まずその死んだ身体から、『半壊』が抜けていって次にその本人の魂? みたいなものが抜けていくんだけど、その前にアタシがぱっとこの身体を取り押さえる。すると、まあ不思議……アンタはただの一般人、ってね」

「ってね……、ってそんな、生易しいことなんですか? もし石舘さんが取り押さえてくれなかったら……」

「疑うの? なら昇華するしかないね」

 創夏はま、アタシはどっちでもいいけど、と言わんばかりだ。隼は包丁を持った手が震えてくるのを感じた。

 これで、自分を、殺さなくてはならない? サナリが人間から幽霊に、転向したように。

「い、痛くないんですよね……?」

「思い切りやればね」 

 創夏は自分で凶器を渡しておいて、まるで他人事。隼は思わずサナリの方を振り返ってしまう。サナリは頑張って、と応援するわけでも、諦めたら、と期待するわけでもなく、ただ悲痛に目を細め口を固く結び、隼に視線を送り返す。もう今までみたいな、お互い愉快な同居人みたいな態度で接することは絶対にないだろう。そう確信させるような、まなざしだった。

 隼はぐっと、柄を握りしめる。硬くて冷たい感触が、そのまま身体の髄に乗り込んでくるようだった。おい、その手を止めろ! と、手が抗議するように震えて、止まらない。だって、実感がわかないのだ。今この場で、自分の喉を切り裂く自分の姿が。

 また、隼はサナリを見た。サナリも隼をその眼で捉える。

「サナリ……」

 隼は口の橋からこぼすように、言った。

「やってくれ」

 その瞬間、サナリの目は大きく見開かれる。隼は比喩とかではなく、現実にサナリの眼の色が変わるのを見た。碧眼……ああ、その眼の色、やっぱりお前の本来の色だったんだな。真っ青な、南国の海にだって負けないような透き通った碧。──隼はそれを美しいと思った。

 それと同時に自分の手がもはや自分の手でなくなったことを悟った。サナリの意識が隼の身体に染みこんで、もはや一体以上の存在となってある目的へと向かわせる。

 ぐ、と、腕が上がった。もうその手は震えていない。機械じかけの蝋人形の腕みたいに、ただ無感情にその腕は包丁を持ち上げる。ゆるく弧を描いて、刃先は喉へと向かう。

 無慈悲に。

 隼はその瞬間まで、サナリの顔をじっと見ていた。その青色の瞳から、絶対に存在しないはずの涙がこぼれ出ていたのだ。宝石のような煌めきを残して落ちていくそれと共に、サナリは口を動かす。

「さようなら……そして……」

 後半は、なんといったのか分からなかった。

 首に冷やりとした痛みが走ると同時に、隼の視界はブルースクリーンを貼り付けられたような真っ青になった。そして、音もなく電源が落とされる。闇──光という定義の存在しない空間に、放り出された。


 気が付くと、すぐ、目の前に創夏の顔があった。

「おはよう……?」

 隼は思わず跳ね起きてしまって、創夏の額と自分の額を思い切りゴン、と鈍い音を立ててぶつけた。

「ひ、ひどいっ! アタシはただ優しく起こしてあげただけなのに!」

「い、いえ……びっくりしただけです、すみません」

 お互い涙目になりながら、額を抑えてうずくまる。ようやく痛みを克服できたところで、隼は今自分が置かれている状況を理解しようとして見渡す。どうも、今まで布団の上に寝ていたようで、隣に創夏が……

「添い寝……してたんですか」

「そ、添い寝なんて……!」

 創夏は勢い良く反駁する。

「そんな控えめじゃないから!」

「も、もっと酷いことしてたんですか……」

「え、い、いやまあ……そ、添い寝だけど……」

 ドン引きしそうになる隼に、創夏は慌てたように言い直した。そんなわざとらしく顔を赤くされても困る。めんどうな人だな。隼はやけに疲れた感じのする目をこすりつつ、自分の伏していた隣に創夏の寝ていた形跡を認めて、ため息を吐く。

「あの……何で俺にこんな構いまくるんですか? べ、別に俺はこんなラブコメみたいなこと望んでないですよ」

「ふふ、ここに君の望みとかは関係ないのさ。あるのは、絶対的な創造主の欲求のみ」

「え?」

「ま、それはいいとして。もうアタシには友達がいない。大学も辞めるさ、もう前のアタシとは違うんだ。もう日本文学になんて、これっぽっちも興味ないしね」

 そう言って、創夏は窓際のほうを指さす。示されたのは携帯のケースのようだった。隼はそれを手にとって、中身を見てみると──、その平べったいボディに三センチくらいの大きな穴が空いていた。電源ボタンを押しても、もちろんなんの反応もない。

「ああー、悲しいよ。性別の変わった前のアタシを、地元の友達が……親も含めて誰も受け入れなかったのと同じさ。今のアタシは前のアタシを知る人には迎合されない。だから、もうそれは要らないんだ。そんな生ぬるい関係しか築けないようならね」

 隼は創夏のセリフを聞きながら、ケースを窓際の元の位置に戻した。悲しいよ、と言ってる割には全然悲しそうじゃなかった。

「俺は……サナリと別れられたんですね」

 布団の上に座りなおして、隼は言った。創夏はにっこりと笑う。

「うん、無事に解約は成功した。隼は今後は晴れて『一般人』に逆戻り、したんだ。あ──、でも。ちょっと待ってて」

 創夏は立ち上がり、早足で今の方へ向かう。やがて、一枚の紙を携えて戻ってきた。

「これが、唯一アタシと連絡取れる番号だから。ヤバいと思ったら電話して」

「あ、ありがとうございます……」

「アタシが友達って今呼べる普通の人は、隼くらいだから。前のアタシも、今のアタシも知ってる『一般人』はさ」

 創夏は言った。「だから、アンタもサナリのことを忘れちゃダメだよ」

 隼は戸惑った。なんかいまのセリフ、つながりが変じゃなかったか? でも、創夏は至って真面目そうだったし、言っていることは真っ当なことだと思う。

 だから、きっぱりと頷いて、

「分かってます。……忘れられるはずがないじゃないですか」

「うん。じゃあ、早く支度したほうがいいんじゃない? もう、学校に行く時間でしょ?」

 そう言われて隼は初めて窓の外を見た。真っ白な太陽の光がレースのカーテンを輝かせている。時刻は八時を少し過ぎたところ──。

「間に合いませんよ。俺はもう普通の人間ですから」

「……悲しいね」

 今度のそれは、少しの憐憫がこもっていた。


 まさかの非常事態続きで外泊の連絡なんてしなかったから、家に戻ったら母親にめちゃめちゃに怒られた。まあ、行き先詳しく知らせず、しかも帰ってきたのが翌日の学校の始業時刻なんだから、それをスルーするのがどうかしている。とはいえ、どこに行っていたのか、とか、誰といたのか、なんて答えようがとても難しかったので、適当に話をでっちあげて隼はひたすらに謝るだけ謝って部屋に引っこみ、そのまま学校へ行く支度をした。このまま休むことも考えたが(さっき一度死んだわけだし)このまま家にいるのも気が重い。気のない挨拶だけして、隼は家を出た。

 学校についたのは一時限目が終わった直後で、休み時間でごたごたしている時間に入って、級友と挨拶を交わす。英太がいないので、やけに穏やかだな、と、ただそれ以外に於いてはなんら変わらない日常だった。

 昼休み、購買に昼飯を買いに行き、列で並んでいるところで石地と出会った。

「よう」

「あ、隼。今日遅刻してきたんだって?」

「まあな。寝坊した」

 これはクラスメイトにも吐いた理由で、ベタだしまったくの嘘じゃないところが良いところだ。

「この前、朝に駅で会った時よりも遅くなってない? 秀才だけど不真面目なキャラに転向するつもり?」

「まあ、最近は不真面目かもな。そっちは部活、どうなんだよ」

「んー、まあ目処は立ってきた感じかなあ。新入生にプログラム教えながら、自分たちも作業するのがめちゃくちゃ大変」

「だろうなあ」

「しんどいよ。はやく終わって楽になりたい」

 ──放課後はまた例によって図書館にいた。閉館アナウンスをされてなお粘り続け、最終的に司書に追い出された。確かに不真面目になってきたかもしれないな、と隼はロッカーから荷物を取り出しながら思う。あるいは、超越してしまった人たちと接しすぎて、自分の常識も少しばかりガタが入りつつあるのかもしれない。

 そしてぼんやりとひとり、家路につく。なんとなく、知識と会っておきたかったが、むろんそんな都合よく会えるはずもなかった。

 家に帰ってから母親の小言をひとしきり聞いたのち、衣桜からのメールを熱心に返す。あの決心をした後も、メールのラリーはすぐに終わってしまうことが多かったが、それでも隼は気にしなかった。それが済むと、隼はベッドに入る。もう、眠っている間にうっかり裸になってしまうような幽霊もいないんだな、と思ったが、そんな感慨はきっと時が流してしまうんだろう。眠りに入るのは早かった。


「チョイ役で出るから、来てね!」

 と、翌朝に家の前で乃衣から渡されたのは演劇部公演のチラシだった。そういえば、演劇部に入ったんだっけ、か。

「それじゃあ、あたし朝練だからー」

 それだけ告げて、乃衣は駆け足で駅へとダッシュしていった。時刻は六時半。この分だときっと一番乗りだろう。まだ入部一か月にも満たない新入生にここまでの朝練を義務付けるほど、うちの演劇部が強いという噂は聞いたことないから。

 公演の日付はゴールデンウィーク初日だった。隼のゴールデンウィークは一日だけ、クラスの友達とカラオケに行く以外に予定がないので、まあ、まず確実に行けるだろう。隼は家に入って、牛乳を飲んで昨晩届いていた衣桜のメールに返信をした。


 ゴールデンウィークに入った。

 初日の演劇部公演は肥田と二人で行った。会場は高校からさして遠くないところにある公民館。石地が部活で忙しいから、と言って断ったが、一年生である肥田はまだ随分と楽をしているらしい。

 乃衣は本当の本当にチョイ役だった。嫌いな食べ物との接触による急性の発作を起こして倒れ伏すヒロイン(食をテーマにした劇らしい)へ、担架を運んでくる女子生徒。それでも、まるで長年その役を望み続けて、ようやく待望のデビューを果たした役者みたいに、その表情は生き生きしていた。きっと一年後には主役を張ってるんだろうな、と隼は思ったりした。

 級友とのカラオケは平ヶ谷で行った。一緒にデュエットしたり、何かのアニメの曲なんかを周りがいれて、ついていけなかったり、まあよくあるカラオケだった。それが終了するとその流れで前の創夏がバイトしていたチェーンレストランになだれ込む。きっと創夏はとっくにここをやめているだろうし、まさかゴスロリの生徒会長がいるとも思っていなかったけれども、やはりよくある店内の風景を見て、隼は心の隅で落胆した。

 ──これで、高二のゴールデンウィークの予定はすべて終わった。英太も不在なので、きっとゲリライベントも起こらないだろう。残された数日をどう過ごすか、まあどうせ図書館に行って暇をつぶすように本を読むんだろう。去年もそうしていた気がする。

 日常が帰ってきた。でも……非日常だった。サナリのいない日常はどこか炭酸の抜けたコーラみたいで、まだそれほど経っていないのに隼はふいにあの日々を懐かしんでしまう。すると同時に、バイスのアドバイスを思い出すのである。「後悔しないように、自分の頭で考えろ」と。

 自分はきちんと考えて、自分の結論を下したはずだ。あんな恐ろしい儀式だって経て、代償のない身体を取り戻した。だから後悔はしないはず……でも、この懐かしむ感情が、時とともに肥大化して後悔になってしまわないか、不安なのである。

 でも時間の流れは止まらない。隼はぼんやりとしながら、ゴールデンウィークを消化する。

 そして、最終日。また昨日の反復になるだろうと、思っていた隼のところへ訪れたのは……一本の着信だった。


もう数話で終わります……がんばります。よろしくおねがいします。

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