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第二十節 情操、うち崩れて悔悛

 携帯が振動する。誰かからの着信。ちょうど図書館から自室に戻ったところだった。ディスプレイを見ると、英太からだ。

 隼が何か言う前に、あちら側の方から雪崩れ込むように声が聞こえてきた。

「もしもし」

「英太か。久しぶりだな」

「……まあな」

 英太の声はすさまじく低かった。こんなローテンションの英太の声を聞いたのは──たぶん、初めてだ。

「どうしたんだよ。めっちゃ元気なさそうだな。車旅、思ったよよりしんどかったのか?」

「いや……旅行はまあ、よかった。でもな……、なあ、ジュン。俺が言ったこの旅の計画を覚えてるか?」

「……関西に行ったんだろ?」

「ああ。いった」

「それから……、時木の様子を見がてら、帰ってくるって──」

「ああ、そうだ。で、いま見てきたところだ」

 英太は隼のセリフにかぶせるように言った。隼は眉をひそめると同時に、心臓の脈が速くなっていくのを感じる。

「それなら最初に言えば良いだろう。で、どうだったんだよ」

 隼は訊ねてみたが、長いことレスポンスが無く、まるで別の惑星と時差の激しい会話をしているようだった。辛抱強く待っていると、やがて返事が来る。

「……いいか、気を確かにして聞けよ。お、俺だって、悩んだんだからな……」

 その時初めて、隼はこの事態の異常性に気づき始めていた。悩んだってなんのことだ、どうしてそんなに声が低いんだ。どうして──見てきたところだ、なんて言ったんだ……。

 英太は少しだけ、間を空けて言った。

「と、時木は死んでた。一年前に……」

 ──────。

 死んでる?

 ………………。

「いや、そんなわけないだろ」

 隼は言った。「だって……、俺と衣桜はメールしてたんだぞ?」

「……いいか。俺はたった一度だけあいつから来た絵葉書を頼りに、きちんとそこへ辿り着いた。本当に車もなにも無い、田舎だったよ。突然訪問したのに、お母さんも快く出てきてくれて、ちゃんと挨拶した。位牌も見せてもらったし線香もあげた。墓参りもしたよ。間違いなく衣桜は死んでる」

 墓参り。その単語に反応するように、ぐっ、と器官のあたりに不快感を感じた。隼は必死になって、

「で、でも……俺は……」

「メールしてたって? 俺は時木の部屋を見せてもらったけど、何もなかったよ。無趣味だった入院患者が引き払ったみたいに、殺風景だった。気持ち悪いかったよ。本棚も空っぽだし、クローゼットには緋伊庭の制服が生霊みたいに置いてあっただけ。あんな環境からメールが来てたって言うなら……、そのへんの怪談話よりも恐い話じゃないか」

「そ、そんな……バカなこと……、そんなの……俺とかお前が……知らないわけ無いじゃないか」

 結局、療養の甲斐がなくて死んでしまったのなら、連絡が隼とか英太の両親にいっていても不思議じゃない。なのに……知らなかったのは、それがとんでもないジョークだからだ。隼は、脳みそをこねくり回すようにして、否定を重ねる。

 そこへ、英太はぽつりと、言った。

「……乃衣は知ってただろうけどな」

「乃衣……」

「きっと、俺達に……というかお前に気を使ってだと思うが──」

 隼は通話を切った。……乃衣。携帯をベッドに投げ捨てると、すぐに家を出る。三叉路を逆側の道を進んで、時木家のインターホンを押す。

「はい? ってあれ、隼」

 乃衣の声が小さなスピーカーからする。

「話がある」

「どうしたの? なんか声が怖いよ……」

「……衣桜についての話だ」

 隼は言った。スピーカーは沈黙する。佇む隼の背後を、自転車に乗った小学生が二人、通り過ぎた。彼らはあまり面白くなさそうに会話している。その甲高い声を聞いているうちに、隼の中から否定の感覚が失われていってしまった。

 それから少しして、玄関のドアが開いて乃衣が顔を出した。いつも結っている髪を下ろしており、それと真剣な表情と相まっていつもよりも大人っぽく見えた。

「……入って」

 隼は従った。

 家の中には誰もいない。たしか祖父母と一緒に暮らしているはずだが、どこかへ出かけているのだろう。別に隼は聞こうとも思わなかった。そのまま乃衣の部屋まで通される。隼が腰を下ろすと、乃衣はその前に正座して座った。

「英太が衣桜が療養してるっていう家に行ったんだ」

「……うん」

「衣桜は、死んだって、言われた」

「……」

「でも、俺は昨日まで衣桜とメールしていた。ずっと、一年前から」

 乃衣は目を暗くして隼の言葉を聞いていたが、やがて立ち上がって勉強机の引き出しを開けた。その中からひとつの携帯を取り出す。中折り式のガラパゴス携帯だった。

「これ、お姉ちゃんの携帯。まだお金払ってるから使えるんだ」

 ことり、と床にそれを置きながら、乃衣は言った。隼は体内になにか熱いものが渦巻き始めるのを感じた。それに引きずられるように身体が震えだす。

「……じゃあ、やっぱり……」

「ごめん。あたしがずっとお姉ちゃんのフリ……してたの」

「ッ! 何でだよ!」

 隼は抑えられなくて立ち上がった。足の裏が今までにないほど強く、その床を押し付ける。

「何でだよ! 何で、衣桜は死んだんだよ! 何で俺は知らされなかったんだよ! どうして俺を騙した! どうして俺はのうのうと衣桜の存在を信じていた!」

「っ……」

 隼の怒声を前に、乃衣の目に涙が浮かぶ。隼はそれを見て頭のなかにカッと、炎を植え付けられたような怒りを得た。俺だって、泣きたい……泣きたいんだよ、なのに、何で……

 乃衣は必死になって言葉を紡ぐ。

「だって……教えられなかった……、その時の隼は……すごい凹んでたんだもの。ただでさえうちはごたごたしてたのに、更にお姉ちゃんが死んだって知らせが来てあたしもびっくりしちゃって……もう、何がなんだか分からなくなって……、隼がこのことを知って、またお姉ちゃんみたいに死んじゃったらやだって……、思って……。あっちの家から、お姉ちゃんの携帯をもらってそれで……隼とメールしてたの。生きてる風に、みせかけて……」

 嘘だったのだ。あのメールアドレスも、猫が庭に入ってきたとか怖い番組を見たとかこの本が面白かったとか、手持ち無沙汰だったからとりあえずメールしてみたようなメールとか。

 全部、乃衣の創りだした虚構だった。

「……くそ」

 隼は力を失って、ほとんど崩れるように座り込んだ。悔しさと怒りが絶望を肥やして、体の中を丁寧に空洞にしていくような心地に、隼は無抵抗だった。

 衣桜は死んだ。

 俺は誰に恋をしていると言ったんだ。虚構に依存していたのか。馬鹿だ。なんて、酷い。ひどすぎる結末。

「……」

 乃衣は声を偲んで泣きだした。隼は乾いた眼球で彼女を見る。こいつも父親と姉を亡くして、辛かったに違いないのに、それでもなお、隼に気遣う心を持っていたのだ。どうして、これ以上、この理不尽なことに対して怒ることができるんだろうか。

 時間は虚無感を堆積していく。

 辛い、これ以上に辛いことってあるだろうか。いま、俺達は不幸なんじゃないのか? 知らなかっただけで、とんでもない不幸にあったんじゃないのか。何が、「普通」だ。何が幸福だ。そんなものは、平穏に飽いた人間の言葉遊びでしかないし、そういう人間が俺達みたいなことを指して不幸と言うんだ。俺達は決して自分が不幸だなんて言わない。俺達はただ、「辛い」としか言わない。「嫌だ」とか「苦しい」とか、本能的な叫びしか知らない。

 部屋の空気が有害さを帯びたような沈黙だった。

 隼は体内の空洞にならなかった部分を吐き出すように、言った。

「怒鳴って、悪かった……。あと、もう……メールは送らなくていいからな」

「……じゅ、隼……」

 そして隼は立ち上がる。やたらと重くて力の入らない足を動かして、出口へと向かう。

「ごめんね……ごめんなさい……」

 乃衣のすすり泣きを背中に、隼は三叉路をたどる。

 自分の部屋に戻って扉を閉めると、隼はさっきベッドに投げた携帯を手にとって床に思い切り叩きつけた。派手な音がして電池カバーが吹っ飛ぶ。液晶が割れたかもしれない。でもそんなこと知ったことじゃない。お前は俺の寝床にいないでくれ。

 隼はベッドに伏すと、泣いた。この一年間の『衣桜』との思い出をすべて洗い流すように、そして『衣桜』への気持ちを無に返すために、明日死んでも構わないように、泣きまくった。こんなに泣いたのはいつぶりだろうか。

 俺は恋をしている……、いつだかに言ったその独白を完全に殺すために、隼は泣き尽くした。

 涙も枯れた頃、のそのそと起き上がって夕飯を食べて風呂からあがった隼は、携帯を拾い上げた。凹みがついてそのあたりの塗装が剥げたが、液晶も無事で動作に問題はなかった。

 通知があった。通話アプリの通知ではなく、ふつうのメールの通知。

 隼は心臓が嫌な高鳴り方をするのを感じながら、椅子に腰掛けてそれを開封する。英太からのメールだと分かって少しホッとすると同時に、何故か時木衣桜からの着信を期待していた自分を恥じた。さっき、死んでしまったはずなのに。

 件名は「言い損ねた」。

『お前がすぐ切ったから言い損ねたけど、衣桜は自殺だったらしい。なんでかわからないけど……それだけだ。わざわざ伝える必要もなかったかもしれないけど、俺もけっこう悩んだんだ』

 中途半端な文の終わり方をしているのが英太らしかった。

 自殺──、どうして自殺してしまったんだろう。衣桜は心優しくあったが、それは弱い心の裏返しだったのだろうか。隼は、悔やんでも悔みきれなかった。あまりにも遅すぎた。去年一年間もぼんやりと過ごして、結果、これだ。しかも、この気持ちをはっきりと定義することができたのは、サナリと出会ってからで、そうでなければ俺はどうなってたことか──

「サナリ……」

 サナリ──サナリは、契約を解消するときに、最後なんと言っていたのだろう。猛烈な引っ掛かりを感じて、隼はあの瞬間の記憶を必死でほじくり返す。

「さようなら……また……」

 有りもしない涙を流すサナリのイメージ。

 ここが限界だったが、隼はなんとかもっと強くイメージをする。記憶の限界、物理的な限界を求めて目を強く瞑る。超越者の部屋、包丁を持った俺、それを見つめるサナリ、包丁を俺の喉に突き刺すサナリ、俺を殺すサナリ……。

 さようなら、また……。

 ──また、お別れですね。

 これだ。身体に電撃が走ったようだった。隼は椅子がひっくり返るほどの勢いで立ち上がる。その瞬間、ありえない、とんでもない考えが隼の脳裏をよぎっていったのだった。

「あああ……ああ……そんな、バカな……」

 隼やよろよろと歩き、部屋のドアに手を当てる。そして、それに背中をついてぺたりと座り込んだ。

「……くそ……サナリ! サナリ! ──違う! 衣桜! お前だったんだ! 幽霊、半壊……! 何で、何でだよ! 何で……何で誰も教えてくれなかったんだよ、ちくしょう!」

 サナリは衣桜だったんだ!

 サナリが語った自分の死、自殺──死にたくなかったのに、死んだ。自殺したのに、幽霊になった。幽霊になって彷徨う。死んだのは──身体が邪魔だったから?

 最初に出会ったサナリは真っ青な顔、真っ青な眼、真っ白な髪をしていた。真っ青な眼──それは、解約の瞬間にも見た、碧眼と一緒だった……。

 あの白髪のサナリは隼をこのドアへと追い詰めて、小さく言った。なんと言ったのか。

 あなたに会えて、良かったです……。

「良く……ねえだろ……」

 隼は膝を抱え、顔を埋める。あなたと話してるだけで、契約の代償になる? 何を言ってんだ、当たり前だろ。俺だってそうだったよ。このことを知っていれば、俺だってそれだけで良かった! 人間外れた能力とか力とか性転換とか、別に要らなかった! それだけで俺達は昇華してひとつになれたはずだろう!

 何で俺抜きで幸福を作ろうとするんだ。

 やっぱり俺は幸福に気づいていなかったんじゃないか。知りたくもなかった幸福で周りは溢れていたじゃないか。俺はとても不幸だったのに、とても幸せだったのに、どうして誰も……教えてくれなかった……。

「サナリ……衣桜……」

 隼はドアの前で蹲って、また泣いた。

 ──夜は静かに更けていく。音の減っていく世界の中で、誰もそのドアを叩いたりはしない。隼は誰にも邪魔されずに、嘆いた。絶望した。抵抗した。打ちのめされた。

 一人だけの世界で、隼は眠りに落ちていく。

 次の日、隼は学校を休んだ。


随分前に更新通知用のツイッターアカウントを作りましたが、もうパスワードを忘れて更新できなくなりました。

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