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第十二節 理想と祝杯

「えっと……、仰る意味が……」

「私、一人暮らししてるって言ったでしょ?」

 確かに言っていたし、今度泊まりに来てね、なんてことも言っていた。その上で、そんな妙に遠回しな言い回しをするものだから、隼は思わず、

「はあ、つまり……、誘惑してるんですか?」

「?」

 創夏は、次元を超越した言語を隼が喋ったのを聞いたような、本当に意味が分かってないんだろうな、とどの文化圏の人間が見てもわかる表情をした。その瞬間、しまった、という文言が隼の脳内でネオンのように点滅する。今までの話題が話題だったからついうっかりしていたが、創夏の目に映る隼はただの同僚というか後輩に過ぎなく、それ以上発展することはない。

 創夏は同性愛者なのだ。しかもそれを隠す気が全くない。サナリをいじる手つきは、糸をひくようにねっとりとしていて、見ているだけで背筋がギクリとする。それなのに、男の自分を誘惑しているだなんて──、気持ち悪すぎる。

 途方も無い自己嫌悪に陥る隼に、創夏はようやく合点がいったように言った。

「おうちの人のことなら心配ないわよー、もう済ませておいたから」

 どこをどう合点がいったら、そんなセリフが飛び出てくるのかわからないし、そんでもって、左手にぶら下げた携帯を指さして、何を済ませたのかもわからないし、意味がわからなすぎて隼は恐怖を感じ始めた。

「す、済ませたって……」

「今晩、隼くんは帰ってこないってことを、おうちの人には納得させてあるから」

 つまり、その携帯を指さしてるのは隼の自宅に電話をかけたんだ、ということか。しかし、知らない女からかかってきた電話で、どんなことを言われればそんな危ういことを鵜呑みにするんだろう……、というか、何故隼の家の電話番号を知っているのか。

 もう、怖すぎる。

 そういうわけで、隼はほぼ連行されるような形で家とは逆方向の電車に乗せられてしまった。別段、逆らう必要もなさそうなのに、というか喜んで行くべきなのに、何故か知り合いの警察官に警察署に連れていかような気分だった。

 創夏は空いていた席に座り、その膝の上にサナリをぬいぐるみよろしく乗せて幸せそうにしている。セインは退屈そうに床に大の字になってボーっとしている。隼は創夏の隣に座って、このフリーダムな二人組を見ていたが、やがて着信に気づいて携帯を取り出した。

 衣桜からのメールだった。

 また猫の話題だった。写真集を図書館で借りてきて、いろいろな種類を知ったんだ──、そんな内容の無邪気さに、隼は救われた。今この状況を、彼女が知ったらどんな顔をするだろう……、楽しそうだねえ、とか笑いそうだ。あの人は、そういう人だ。

 隼は歴史の参考書は読んでも猫の写真集なんか見たりしないので、なんとなく興味を持って、いい写真があったら撮って送ってくれ、と返信した。

 創夏は隼のメールのやり取りには一切無頓着に、サナリを愛でていた。キャバ嬢に貢ぐ中年男もこんな感じだなあ、と隼は見たことも無いのに思ってしまう。そんな具合で物思いにふけっていると、目的の駅についた。

 創夏の一人暮らしするアパートは、駅『直近』だった。きっと、広告には「駅まで徒10秒!」とか堂々と載ってそうなほど近く、却って拍子抜けだった。

 それでも、その間に例の『魔物』が現れた。「滓」とかいう仰々しい名前がついたそいつは、今日は猿みたいな格好をして、気味の悪い甲高い音をふんだんに立てながら、二人と二人に近づいてきた。一匹だけだった。

「いいよ、あげる」

 と、創夏は言い残すと自分はさっさと部屋に上がってしまった。隼はしかたなく、そいつの相手をしてやる──、また何かガラス製のものを割るのは勘弁なので、靴を片方飛ばすことにした。こいつはきっと自分が天気占いに使われてると思ってるんだろうなあ、と思えるほど、拍子抜けな放物線を描いて『魔物』は粉砕された。なんだか、その靴を履くのが少しだけ憚られた。実際には汚れていないとわかっていても──というやつだ。

「いらっしゃい~」

 退治を済ましてアパートの廊下へ歩いて行くと、創夏が扉を開けて招いてくれた。

 部屋はというと来客準備万端、といった風で、生活感がない位整っていた。ソファなんて昨日買ったかのようにシワひとつないし、絨毯もサラサラで汚い手で触るのも憚られるほどだし、テレビも実は自分が美術品だと思い込んでいるような佇まいだし、小さなサボテンがいくつも並んだ鉢植えがちょこんと窓際に置いてあっていい感じだし、キッチン付き、トイレとバスは別。理想的な一人暮らし部屋の典型だった。

「先にシャワー浴びてくるから、その間好きにくつろいでてね」

 創夏はサナリを、お風呂に浮かべるアヒルのおもちゃを持っていくのと同じくらい自然な流れで、バスルームに連れて行った。サナリは「ごめんなさい……」と言わんばかりに、涙を浮かべた目で隼を見ながら、扉の向こうに消える。娘を売り払った父親のような、謎の胸の詰まりが隼を襲った。

 さて、居間に一人残され、好きにくつろいでて、と言われても。

「なあ」

「ん?」

 ソファに寝っ転がって既にくつろぎモードのセインに話しかけるほかない。

「石舘さん……、俺の親になんて言って俺の外泊を取り付けたんだ?」

「私は隼くんの彼女です、今からうちに泊まりに来ます」

「……ジョークか」

「ジョークだよ」

 セインはつまらなそうに指をぶらぶらさせた。

「そんなことどうだって良いじゃねえか。世の中結構、アホらしいことがもっともらしい顔をして機能してたりするんだ。親を一晩騙す方便なんて、湧き出る『滓』みたいに無数にある、そのうちのひとつってだけさ」

「ふん……なんか、ずるい気がするけどな」

「俺からすれば、生きてるってだけでだいぶずるい」

 隼はぎょっとしてセインの方を見たが、彼は別に気分を害したわけでもなさそうに、眠そうな欠伸をかましていた。

「まあ、俺は死んで正解だったと思うけどな。あんな良い女、生きてちゃ『絶対に』巡り合えない」

「……俺は会って、しかも家に連れて来られてるんだが」

「そういう意味じゃ……まあ、いいや。それは、幸福のおすそわけだよ」

 なんだかセインらしくない、キザなセリフだ。そして、せっかくのセリフに水を差す用で悪いが、隼は別段ここを訪れたことを幸福だなんて言っていない。いや、普通の人の目から見てれば十分幸福なことなんだろうが──、こういうことを『普通の人』が経験するのって、結構大変なことだ。世間にはこういう風にめちゃくちゃな理由をつけて、或いはつけられて、女の子の家に連れ込まれる物語がゴマンとあって、それらはありふれている。でも、どうして今、自分はこの状況をありふれたものだとは思わないのか……、この状況をさして幸福とも思ってないのか……。

 こんなことを考えていることがバレたら、またサナリが泣き出しそうだな、と隼は思った。まあ、自分の幸福なんてじっくり探していけばいいだけの話なんだが。

 やがて、創夏とサナリが連れたって浴室から出てきた。サナリはというとぬっ、と壁から現れて隼をビビらせ、ぺこぺこと謝ってくる。

「じゃあ、隼くんも入ってきて! これ、着替えよ」

 まだ髪に雫を滴らせたままの創夏が、笑顔で指差す先には一組のジャージがあった。持ち上げてみてとわかったが、下着もついている。隼は黙って創夏のほうを見た。

「それ、持ち帰って良いからね」

「そ、それはどうも……」

 準備万端、というわけだ。連絡先も交換していないのに、どうしてここまで周到な来客準備が出来るんだろうか。幽霊の力というのも、ここまで便利だといよいよインチキ臭くなってくる。

 シャワーは短く済ます派なので、隼はすることを済ますとさっさと出てしまった。セインは当然だと思うが、邪魔してこなかった。ジャージは自前のもののようにぴったりだった。まあ、これも当然か。

「わっ、早い!」

 創夏はキッチンから顔を出して、びっくりした声を上げる。都会の駅ナカにあるブティックに目玉商品ばりな勢いで売られてそうなもこもことしたパジャマに、音符マークが点々とついた優しいデザインのエプロンがめちゃくちゃ似合っていた。

 で、エプロンをしているということは彼女は料理をしていた。鍋にくべられているのはパスタの束二人分。サナリとセインはご飯を食べないからそうなのだが、そのリアルな量を見てなんだかドキリとしてしまう。

 つまり実質、この美女とふたりきりなのだ。ふたりきりで、しかも、料理を振る舞われている──、なんだか恋人同士みたいじゃ……。

「ちょっと待っててね~」

 隼が予想外に早く出てきたものだから、料理が出来上がらなかったんだろう。創夏は慌てた素振りを見せながら、隼に向かって言った。

 サナリとセインはなんだか神妙な雰囲気で話をしていた。

「まあ、それが頼みだったから……って、お前か! 出るのはええな」

「そんなに早いか……?」

 隼は二人のすぐ近くに腰を下ろした。ふかふかのカーペットの心地よさが隼の身体を包む。このまま寝っ転がりたかったが、それはさすがにやめておいた。

「なんの話だ?」

「さあね」

「えっと……よ、ヨモヤマ話です!」

「話を誤魔化すのが苦手なんだな、二人して」

 あんまり聞かれたくなかった話題らしい。それは死者同士しか分からないことだからかも知れないので、隼は別に伏せられたからといって気にすることでもなかった。

「お待たせ~」

 しばらくすると、創夏はぺたぺたとキッチンから皿を二つ運んできた。ペペロンチーノ。見た感じ創夏オリジナルの要素は無さそうだった。食器は輝くシルバーフォーク。座卓にそれらを並べて、創夏は隼の向かいに座る。

「飲み物何飲む?」

 創夏は言いながら、テレビの下にある小さな冷蔵庫の扉を開けた。なんとこの家には冷蔵庫が二つ有るらしい。しかも、その冷蔵庫の中身はパッと見た感じアルコールしか入ってない。どんだけ好きなんだ──、と隼は少し畏敬の念を感じてしまう。

「ふつうのがあればそっちがいいんですけど……」

「ビール以外ってこと?」

「違います! アルコールゼロのです」

 隼はソフトドリンクのことを指してそう言ったのだが、最近はアルコール無しのアルコール(風)飲料があることをすっかり失念していた。

「じゃ、これで♪」

 ぽんと置かれたのは、「ノンアルコールビール」とラベルにある缶。隼は降参した。パスタにビールって、どうなんだろうか。知らない。わからない。

「乾杯!」

 二人は缶をぶつけた。なんに対しての乾杯だったのかよくわからないが、隼は初めて飲むビール味の液体を喉に流し込む。……悪くない。

 飲み会帰りだったらしい創夏にとっては二次会にあたるんだろうが、そんなことを感じさせないほど彼女は飲んだ。缶をすぐ空にして、パスタをお上品に口に持っていく。

「で……、何で俺を呼んだんですか?」

 隼もパスタをフォークでいじりながら聞いた。創夏は「おいし♪」とつぶやいてから、

「何でかしら? 友達になれそうだったから?」

「何で疑問形……」

「うーん、私にとってあの支部の後輩って隼くんが初めてだから~……、年下にやさしい文化? ってやつ?」

「はあ……」

「幽霊を預かってる身同士、仲良くなりたいなーって思ったの」

 創夏はフォークの先を少しだけ咥える。髪はいつの間にかすっかり乾いていた。

 セインとサナリはいつの間にか姿を消している。こっそりと窓を抜けて外に出たんだろうが、これで正真正銘二人きりではないか。緊張する──、いや、これはただの年上と話すための緊張だ、と隼は自分に言い聞かせる。

「まあ……明日休みだから、別に良いですけど」

「ふふ、良かった」

 創夏は二本目をあける。景気良く、その中身が消費されていくのを隼はパスタを咀嚼しながら見ていた。

「えっと……、石舘さんは──」

「そんな石舘さんなんて言わないで、創夏ちゃんって呼んでよ」

「……創夏さん?」

「ちゃん!」

「…………創夏、ちゃん、は、……大学で何勉強してるんですか?」

「まず第一声に勉強の話題なのね! まあ良いわ……、私は生物学を専門にやってるわ」

「……そうなんですか」

「うそ」

「……」

 隼が呆気にとられている間に、創夏は嬉しそうにまた一本、缶を空にする。──本当に親睦したいと思ってるのかどうか怪しいところだ。

 創夏は一口、パスタを食べてからちらりと隼の顔を伺って、優しくフォークを置く。一挙一動が、いちいち可愛らしい。

「村上春樹読んだことないの? 私は文学部で日本文学やってるのよ」

「はあ……、小説はあんま読まないんで」

「ふぅん……、私は高校生の時に一番本を読むべきだと思うわ。たくさん本を読めば……、自分の理想だって見つかるしね?」

「理想ですか……」

「そう、理想が無くっちゃ……サナリちゃんを悲しませることになっちゃうよ」

 創夏は静かに言った。酒が入ってるとは思えないほどの、冷静で明瞭な言葉。隼はさっきまでとは違うジャンルの緊張を感じ始めた。

「悲しませる、ですか」

「そう。──幽霊はみんな、相応の理由があって幽霊になってるの。セインは下心丸出しだけど……、それだけ思いは強かったってこと。サナリちゃんはマジメそうだから、きっと、生前本当にやり残したことがあったのかも知れないわね。それを助けるかどうかは……あなた次第よ」

 隼は驚いている。創夏に諭されている状況についてもそうだが、サナリが『生前やり残したこと』というワードが、特に心に響いた。

「……助けるって、俺にそんなことができるんですか……?」

「当然、だって隼くんは契約主じゃない! 幽霊になった人の願いは、自動的に契約主が理想へと収斂していくの。私の理想はセインの夢だし……、隼くんの理想はサナリちゃんの夢……だから、隼くんはサナリちゃんを助けるためにも、理想を持たなくちゃいけないの」

「……じゃあもし、俺が理想を持てなかったら?」

 隼は恐る恐る、訊ねてみた。創夏は缶を振って中身が残ってないことを確認すると、机の上に置いた。三本目だ。それから、小さく、悲しそうな声で言った。

「わからないわ」

 隼はなんだかその短いありふれた一言の裏側にある、自分を限りなく理想に近づけた創夏の心に残る、憂鬱のようなものを垣間見てしまったようだった。

 少しだけ沈黙。創夏は冷蔵庫から、もう一本缶を取り出してあけた。プシュッ、と小気味のいい音の後に少しはにかんで、

「ごめんね、真面目な話はこれでおしまい。こんばんは……、語り明かしましょう?」

 小首をかしげてきた。ありえない、こんな見事に首をかしげる人を初めてみた。今の場面を油絵にしたら、世界的な名画になるぞ──、と反射的に思ったほどだ。今抱いた、底知れない不安もどこかへ吹っ飛んでしまい、隼は自分でさっきあけたノンアルコールの缶を創夏の四本目の缶にぶつけて、二度目の乾杯をした。


起承転結でいう、承の後ろ側にさしかかったわけなんですが、なかなかこのあたりから、って感じで、なかなか進みませんね。書くことがめちゃくちゃあるはずなのに、どうでもいいことを書いてしまう……、ま、それを含めて作品です。

夏までには終わらせるので長い目で見ててくださいお願いします…。

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