第十三節 図鑑と哲学
どこかで、何かが振動している。最先端の音楽のイントロのように、どこか意志を感じる調子で鳴り続ける振動音に、隼は意識を揺さぶられてゆっくりと目を開く。
聞き慣れたバイブ音から、それが自分の携帯へのメッセージで有ることが分かった。いつまでもそれが途切れないので、どうやら電話がかかってきているらしいな、と隼は思った。
まだクリアにならない視界と意識の中で、その音の方へ手を伸ばす。
と、なにか手が温かいものに触れた。
「っ!」
予期しない謎の感触に隼は慌てて手を引っ込めて、ばっと身を起こした。
その視線の先では、サナリが体育座りで壁に凭れ、腕に顔を埋めるようにして眠っていた。なんだか、失恋して一晩中泣いていたらそのまま寝入ってしまった、そんな感じの寝方だった。……一応、裸ではない。
それで、隼の携帯はどうやらサナリの身体の下にあるらしい──、いやこちらのものに触れることはできないのだから、中に有るといったほうが正しいかもしれない。いずれにせよ、サナリに触れることができてしまう隼に、携帯を取ることができない。
「サナリ」
隼は呼びかけながら、彼女の身体を揺らした。こくり、と首が揺れて、寝顔があらわになった。すやすやと眠っている。自分の身体の下で携帯が振動しているのなんて、別の世界での出来事であるかのような安らかさ。
「……」
そんな寝顔を見て起こすのが気の毒になり、隼は仕方なく横から彼女を抱え上げて、そっと横にずらした。ちょっとしたお姫様抱っこだったが──、別に誰にも見られていまい。床に置く時、「ふぁ……」と声を漏らしたので少し驚いたが、起きる気配はなかった。
「もしもし?」
ようやく、携帯を手にして耳に押し当てると、飛び込んできたのは耳慣れた声。
「ジュン! お前いま、パンツの色何色?」
英太だった。こんな朝早くに元気なやつだ。隼は欠伸を噛み殺しながら、
「切るぞ」
「わーわータンマタンマ! ちゃんと聞けよ、今日、平ヶ谷で遊ばんか?」
遊ばんか? どこの方言コスプレなんだ。隼はぼんやりと思ってから、まあいいか、と思考を放棄した。
「……まあ、別に良いけど。」
「よし決まった! 一時間後に! イクラの木の前で!」
「はいよ」
隼はそう答えて、電話を切った瞬間に気がついた。
ここは、自分の家ではない。今日は、創夏の家に泊まりに来ていたんだった。
「……ああ」
隣には誰もいなかったが、明らかに誰かが寝ていた形跡が有る。創夏が、隣で眠っていたのだろう。にわかに動悸を打ちそうになる心臓を抑えて隼は立ち上がり、寝室から這い出すように出て入った。
「あ、おはよう」
「おはようございます……」
創夏は昨日の夜と同じく、パジャマとエプロン姿でキッチンに立っていた。
──昨晩は、楽しく語り合いましょう、ということで、実際にそうしていたような気がする。創夏は実はそう遠くないところが地元で、もう戻りたくないわ、あんなところ、と口を尖らせてぼやいていた。その理由は、初恋の女の子のこと。にべもなく振られて、あっという間に噂が立って、散々な高校生活を送る羽目になったこと。
でも、こちらに来てからは輝いている──、楽しくてしょうがない! と、創夏は心許ない滑舌で最近の楽しさを語ってくれた。
隼も、自分の身の上を少し語った覚えがある。その中には時木衣桜のことが含まれている。
「そんなの今なら簡単じゃないの」
今は離れ離れになっている、という現状を聞いて創夏は、いつの間にか脇で眠りこけていたサナリの髪を蠱惑的に撫でながら、赤い顔をして言った。
「いつでも会いたいときにワープして、会ってくればいいのよ」
「でも、……俺は、偶然に出会うことを楽しみにしていたんです……、そういうのは……」
深夜でテンションもおかしかったのか、隼は正直にそんなことを言った気がする。すると、創夏はケラケラ笑って、
「じゃあしょうがないわ、そういう理想の自分になることね」
そう告げた直後に潰れてしまった。その言葉の真意をつかみそこねた隼は少し途方に暮れた後、創夏の身体に布団をかけてやって、それから創夏が親切にも敷いてくれた来客用の布団で眠っていたわけである。きっと、創夏はその後自力で隼の隣に来て、熟睡を再開したんだろう。
「すいません、俺この後すぐ出かける予定が入ったんで……」
──朝食の目玉焼きが出されたタイミングで、隼は次の予定について言った。創夏は激昂する熊ですら懐柔できそうな笑顔で、
「大丈夫よ、いつでも来ていいように準備しておくから」
「……ありがとうございます、別にそういう意味で言ったわけじゃないんですが……」
「でもちょうどいいわ、私も出かける予定があったから。場所は?」
「平ヶ谷です」
「あら、私も平ヶ谷よ。良かったら一緒に行かない?」
隼は一瞬考えてから、創夏の顔を見た。進学してすぐ、クラスに同じ地元の友だちを発見したようなテンションが上ったような表情からして、こればかりははかったものではないらしい。そりゃ、何でもかんでも謀れるようになるのは少し面白くない。
「じゃあ……そうしますか」
「はーいっ」
創夏は嬉しそうに微笑んだ。魔性だな──と隼は思った。
「なんだよ、地元メンじゃねえか」
「いくら声かけても集まらんかったんだよ、仕方ないだろー。あ、後で圭吾は来るらしい」
そりゃ当日の朝に電話してまわればそうだろうな。平ヶ谷のイクラの木の下に集っていたのは、英太と隼と、そして乃衣だけだった。全員閏戸出身、というか中学校からの仲だし、ひとりは幼馴染で、場所は平ヶ谷だし新鮮味も何もない。
平ヶ谷は県下一のターミナル駅で、栄えている駅としては閏戸から一番近いので、よくこうして英太が突発的集めて遊んだりする。集合はこの通称『イクラの木』と呼ばれる看板の下。誰がそう呼び始めたのか知らないし、どこにもイクラ要素は無いのだが(定期的に貼られている広告は変わっていく)、まあ通称だから誰も不便していない。
隼は大概暇なので、この計画性皆無のイベントにすっかり慣れてしまったが、乃衣のほうはそうでもないらしく初めて東京に出てきた人並みの興奮をしていた。
「わー、わくわくする!」
隼は小学生の時からあまり変わらない乃衣のはしゃぎ方を見て、
「お前、別にここきたの初めてじゃないだろ」
「そうだけど、あそびできたのは初めてだしー!」
そういう乃衣は春物のワンピースを着てめかしこんで、いかにも遊びに来た高校生という風だ。ちなみに隼は一旦、家に帰って服は着替えてきた。創夏にそう進められたのだ。初ワープだったが、思ったよりも一瞬で移動できてしまうから、クセになったら大変そうだ。
「で、どっから行くの?」
「そうだなー……、手始めに映画でも見るか?」
「俺生徒手帳持ってきてないぞ」
「マジかよ! 俺もだけど」
「あたしもないよ」
「なるほど、これで俺達も高校生も卒業、大人として社会に扱われるんだな……」
「後ろ盾のない子どもとして扱われるんだろ。まあ、こんなんだとボーリングかゲーセンが良いところじゃないか?」
「そうだな! じゃあ本屋に行くか!」
「話聞いてたか?」
よくわからないが、英太は本屋が好きだ。しかも何を好んで眺めるかといえば、図鑑だ。ズカン。金のない小学生かよ、と言いたいところだが、どうも小学生からの習い性らしく、英太なりのエンターテイメントらしい。買えばいいのに。
乃衣はこの決定に少し不服なようで、
「あたし、本屋って行き場なくしたカップルが時間つぶしに入るとこだと思ってた」
「ま、どうせ行くつもりだったんだろ? 柄井俊也先生の新作出たからさ、ちょっと寄っていい? ってそのうちさり気なく提案しようと思ってたんだろ?」
「な、なな何で知ってんのっ!」
「さあな~」
そういうわけで、隼たちは駅近くにあるでかい本屋にやってきた。
「じゃ! 俺はジャングルに」
「おう」
「ジャングル?」
いつもの様に図鑑コーナーへ向かう英太を見送っていると、乃衣が首を傾げた。隼は乃衣の方を見ずに、
「人は誰だってジャングルを求めてるからな」
「???」
理解させる気などさらさらなかったが、なんだかそこまで素直に混乱されるとこちらも困るので、隼は英太の図鑑好きを教えてやった。
乃衣は英太が去った方向を見やりながら、ぼんやりとつぶやく。
「ふーん、意外。あ、そんなことより!」
ぱたぱたとおもちゃ屋に来た子供みたいな足取りで向かったのは新書のコーナー。色んな作家の名前が艶かしい書体で掲げられていて、あちこちに書店員のオススメと題した推薦文がくっついている。
そんな店員の努力をすっ飛ばす勢いで、乃衣は一冊の本を迷わず手に取る。
『黒傘/柄井俊也』
からいとしや──さっき英太が言っていた作家か。
「好きなのか?」
乃衣はまだ買ってもないのに自分のもののようにその本を抱え込み、
「うん! めっちゃハマっちゃってさ!」
「確か直木賞かなんか取ってたよな」
「そう、『未来色の情歌』だね! 死んじゃった恩師の指揮者のゴーストとしてひとつの楽団を成長させる中年男の話で、この男がもうとにかくイケオジでね……」
「ゴースト」
隼は思わずその単語に反応してしまった。反射的にあたりを見渡すとサナリが近くの本棚の上に立って……欠伸をしていた。一瞬でも何故か緊張してしまった自分がバカみたいだ。相変わらずサナリは欠伸を見つかって恥ずかしそうに口を抑えてるし、──やはり退屈なんだろうか。
「え? あ、えっと、ゴーストって代わりってことだよ。ゴーストライターとか言うでしょ? その指揮者が死んじゃったことバレたら楽団は解散になっちゃうから、うまくその指揮者のフリをして楽団を存続させようとするの!」
「へえ、大変なんだな……」
「そ、興味あったら読んでみて! じゃあ、あたしこれ買ってくる!」
ダッシュでレジへと向かう乃衣を見送っていると、サナリがおずおずと近づいてきた。
「楽しそうですね……」
「前はあんな本好きじゃなかったのにな」
隼は答えた。むろん、誰にも聞こえなくらいの小声だ。
「そうですね……、えっと、どこに行きますか?」
「んー、そうだな……」
と、悩んだフリはするものの、正味隼の行くべきところはそんなに無い。
あいつ、ついに絶滅したのか……、と唸る英太の背後を素通りして、参考書の立ち並ぶエリアに来た。大学受験に限らない、小学受験から国家試験対策、はては単なる教養にしかならないものもどやっ、と言わんばかりに並んでる。流石、大きい書店だけある。
「……勉強、好きなんですね?」
「まあ、趣味だな」
隼は『歴史、分かりやすい』という、分かりやすい謳い文句のついたものを手に取りながら答えた。
「あの……あなたが望むなら、ここにある全部の知識を得ることはすごく簡単にできますよ?」
「それは楽しそうだが……、なんだか面白く無いな、それだと」
「……そうですか?」
サナリが首を傾げる。隼は手にとった本を棚に戻しながら、
「学者になりたい奴ならまあ、それでいいんだろうけどさ。俺みたいにただの興味としてやってる分には……、なんというか、料理をいちから作るみたいに、ひとつひとつ手でとって身につけていきたいんだ」
「……そうなんですか……」
サナリは困ったように言った。ではわたしは、なにをすればいいんでしょうか? と、その顔に書いてあるようだった。
「まあ……知識だけじゃないさ」
助け舟を出すような心持ちで、隼は隣のコーナーに歩いて行った。サナリは迷子になった子供のように隼のあとをついていく。
いかついハードカバーの学術書が並ぶ棚の前に立った。まあ、あくまでふつうの書店だし学術書の中でもかなりライトな方なのだろうが、いかにも『難しい本』みたいな具合に置かれている。そのうちで、適当な哲学の本をとってみた。
「こういうのを読める読解力というか、バイタリティというか、そういうのが備わるだけでも結構うれしいもんだ」
「ま、枕かと思いました」
サナリは隼の手に収まった本を見て、目を丸くしている。隼はその鼻先にその背表紙を差し出して、訊いた。
「で、俺はこれを読めるのか?」
「も、もちろん可能ですよ。あなたが、望むなら……」
でも私は分かんないです……、とでも言いたげに、潤んだ視線を隼に向ける。
「なるほどな……、でもま、俺は別にそんなのどうでもいいんじゃないかって思ってたりもする」
「え、えっと……」
「だから、幸せかって訊かれて、幸せって何だ? って聞き返せるってことは、もうそこそこ幸せなんだってことだよなって、思ってさ」
重たいその本を棚に戻しながら、隼は言う。
「だって自分が幸せじゃないって自覚してるなら、不幸だ! って即答するだろう。でも、俺は曖昧な答えをした。不幸じゃなければ、……幸せ、なんじゃないかな。お前のチカラが要るほどのでかい理想だって、胸焦がすような夢だって……俺には無いみたいだしな」
「そ、それじゃあ……?」
「それじゃあ?」
隼はサナリの方に向き直った。サナリは目をうるうるさせて、隼のことをじっと見ていた。なぜだか、釣り上げた魚みたいな格好だな、と隼は思った。どうか、この海へ返さないでくれ、干すなりすり身にするなりして食べてもいいから、海にだけは、頼むから海だけには……そんな声が、聞こえているような気がした。
「お前は俺と話してるだけで、チカラの対価になり得るって言ったよな?」
「は、はい」
「じゃあ、俺もそれでいいよ。──幸福のおすそ分けだ」
「えっ……」
サナリの顔が変わった……と、思った瞬間に、
「ジュンー! 俺のお気に入りの動物が三種も絶滅してたー!」
英太がバッと駆け寄ってきて、図鑑の固い表紙をぐいっと隼の頬に押し付けてきた。それをすぐに押しのけて、悲壮に満ちた英太をじろりと見返す。
「それは気の毒なことだな」
「他人ごとだなー! あー、俺は辛い。辛いんだよなあ」
悲劇のヒロインよろしくわざとらしく身を捩らせているが、意外なことに英太は至って真面目にこのことを嘆いている。驚くことに。
──絶滅したそいつらも、冥界では元気にやってるかもな。
なんて、軽口を言えなかったのは、隼はそれをよく知っていたからだ。
「まあ、それだけ新しい種もできてるんだろうよ。……それが自然だろ?」
「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の……あ~、納得行かない! ゲーセン行こう!」
その唐突さも納得いかないが、隼は何も言わずに頷くと英太はまたダッシュで持ってきていた図鑑をもとの場所に戻しに行った。その直後に乃衣が買ったばかりの本を袋に入れてぶら下げてやってきて、英太は汗だくですぐに帰ってきた。
「ダンレボやろうぜ! ダンレボ!」
「またか……好きだなお前も」
「え、あのハンドルついてるやつ?」
「そりゃマリカだな」
三人はだらだらと、次の目的地に向かった。
自分の中で〆切決めました。結構シビアだけど……がんばります……。




