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捨てられた花嫁は「魔法の手紙屋」を開きました ~公爵様、あなたへの恋文だけは代筆できません~  作者: あとりえむ


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第四話 誰にも渡してはいけない手紙

ヴィクトル・アシュフォード公爵が再び「月灯り郵便店」の扉を叩いたのは、あの日から三日後のことだった。


閉店の刻を知らせる針が、あと十分で重なろうとしている。

私はカウンターの上に散らばった羊皮紙の屑を払い、最後の依頼人が残した余韻に浸っていた。

隣町で働く娘へ手紙を出した母親。


『ちゃんと食べていますか』

『夜更かしはしていませんか』

不器用な問いかけの末に添えられた『返事は来なくてもいいからね』という一文。


けれど、店を出る直前、彼女は愛おしそうに呟いたのだ。「……でも、もし返事が来たら、母さんは飛び上がるほど嬉しいって、そう書いて」と。


素直になればたった一行で済む想いが、なぜこれほどまでに愛おしく、そして書けないのだろう。

人の心とは、どこまでも愛らしく、難解だ。


「さて……」

引き出しを閉め、表の看板を下ろそうと立ち上がった、その時。


カラン、コロン……。


静寂を切り裂いて、澄んだベルの音が響いた。


「申し訳ありません、本日はそろそろ──」


言いかけて、言葉が喉の奥で氷ついた。


夜の闇を溶かし込んだような黒い外套。

恐ろしいほどに真っ直ぐな背筋と、長い影。

そして、月光のように冷ややかに冴え渡る、青い瞳。


「……いらっしゃいませ、公爵様」


「まだ、構わないか」


低い声が、静かな店内に心地よく響く。

壁の時計を見やる。閉店まであと七分。


「……どうぞ。お入りください」


断ることなど、始めからできるはずもなかった。

ヴィクトルは音もなく店内に足を踏み入れると、整った切れ長の目でゆっくりと空間を検分した。

小さな丸テーブルと、向かい合わせに置かれた二つの古い椅子。

彼は促されるまま静かに腰を下ろし、私もまた、彼と向き合う形で席に着いた。


「それで……」


私は魔法羽根ペンを手に取り、真っ白な用紙を滑らせる。


「本日は、どなたへの手紙のご依頼でしょうか」


「……宛先はない」


ペンの先がぴたりと止まった。


「宛先が……ない、のですか?」


「ああ」


「では、どなたへ向けた言葉を紡ぎましょうか」


ヴィクトルは言葉を塞いだ。

この男は、己の胸の奥にある感情を言語化することに、酷く不慣れなのだ。

厳しい戦場と重苦しい公務の中で、己の感情を殺し続けてきた者の沈黙。


「……誰にも、渡さない」


やがて、絞り出された声。


「渡さない手紙、ですか」


「そうだ」


「なぜ、そのような手紙を……?」


「……分からない」


迷いのない即答だった。


「分からない、のですか?」


「そうだ」


「分からないまま、ここへ足を運ばれたと?」


「……そうなってしまうな」


「困りましたね」


「ああ、実に困っている」


あまりにも大真面目に淡々と答えるものだから、私は危うく吹き出しそうになった。

だが、彼の氷の瞳の奥には、本当に立ち尽くしているかのような切実な色が宿っていたのだ。


「失礼いたしました」


私は息を整え、そっとペンを机に置いた。


「ヴィクトル様」


「ヴィクトルでいい」


静かな訂正。


「え?」


「この町で『公爵』と呼ばれるのは、仕事の時だけで十分だ。それに……」


彼はわずかに視線を泳がせ、揺らめくランプの灯りを見つめた。


「お前ももう、王太子の婚約者ではないのだろう」


ピシ、と何かが胸の中で爆ぜる音がした。

私は息を呑み、男の横顔を見つめる。


「……ご存じだったのですね」


「領地に身元の分からぬ人間が店を開けば、背景を洗うのは領主の義務だ」


「なるほど。完璧なご職務ですね」


「事実を口にしたまでだ」


「……そういうところですよ、ヴィクトル」


呼んでみて、ハッとした。

一国の公爵であり、英雄と呼ばれた男の名を直接呼ぶなど、かつての私なら決して許されなかったことだ。

けれど、彼は嫌がる風もなく、深く頷いた。


「それでいい」


不思議な人だ。

鉄壁と恐れられる冷血漢の皮の裏側に、不器用で、ひどく純粋な精神が透けて見える。


「では……ヴィクトル。何があったのですか? あなたが『渡さない手紙』を書こうとするほど、胸を痛める出来事が」


長い沈黙が流れた。

港から吹き付ける夜風が、窓枠をカタカタと揺らす。


「……北の鉱山で、崩落事故があった」


彼の声が、地響きのように低く沈んだ。


「死者は出なかったが……三人が重傷を負った。一人はまだ、十七の若者だ」


「……」


「俺がもっと早く点検を命じていれば、防げた事故だった。領主として、すべての責任は俺にある。……だから、被害者の家族へ直接赴き、深々と頭を下げて謝罪した。補償も終えた。……事故の件は、それで処理完了したはずだった」


彼はテーブルの上で、自分の大きな手を見つめていた。

多くの命を背負い、剣を握り続けてきた武人の手。


「ですが……終わっていないのですね。あなたの中で」


「……そうだ。謝罪を終えても、胸の奥の澱みが消えない。なぜだか分からない」


「ヴィクトル」


私は彼の前に白紙を押し寄せた。


「人は、間違えないように生き続けることはできません。どんなに優れた領主であっても」


ヴィクトルの瞳が揺れた。


「……周囲は俺を『鉄壁』と呼ぶ。間違えない男だと信じ込んでいる。そして俺自身も……絶対に間違えてはならないと、自分に呪いをかけていたのかもしれん」


ポツリと溢れた本音。

その瞬間、彼の頑なだった肩の力が、ほんの少しだけ抜けた気がした。


「ずっと間違えないように生きるのは……とても、息が詰まるほど疲れることです」


私の言葉に、彼は静かに私を見つめ返した。


「リディア。お前も……王宮でそうやって生きていたのか」


「……ええ。失敗すれば誰かに迷惑がかかる。だから完璧でいようと必死でした。でも……」


「今は?」


「今は、失敗してもいいと思えるようになりました。王都を追い出されて、この小さな港町で……ようやく息が吸えるようになったからです」


ヴィクトルはしばらくの間、何も言わずに私を見ていた。

やがて、静かに立ち上がる。


「……閉店時間を過ぎたな。邪魔をした」


「手紙は、書かなくてもよろしいのですか?」


「また……今度にする」


彼は料金を払おうとしたが、私は「今日はただの雑談ですから」と受け取らなかった。


「商売に向いていないな」と呆れ顔を見せながらも、扉に手をかけた彼は、振り返って月光の中で私を見つめた。


「眠れぬ夜に……誰かに話すのも、悪くはないな」


そう言い残し、男は夜の闇の中へと消えていった。


◇ ◇ ◇


翌朝。

店の掃除をしていた私は、昨夜ヴィクトルが座っていた机の下に、一枚の紙が落ちているのに気づいた。

彼が一度もペンを走らせなかったはずの、あの白紙。


拾い上げ、何気なく裏返した私は、息を呑んだ。

用紙の端に、かすれたような硬質な筆跡で、たった三文字だけが記されていたのだ。


『父上へ』


──宛先はないと言っていた。

誰にも渡さないと言っていた。

けれど、彼の胸の奥底には、決して届くことのない父親への言葉が、冷たい泥のように溜まっていたのだ。


私はそっと紙を折りたたみ、引き出しの奥深くへと仕舞い込んだ。

本人が自らの口で語れるようになるその日まで、その秘密を守るのが心語筆記士の役割なのだから。


◇ ◇ ◇


その夜。

二階の自室で、私は王都の友人・マリアから届いた密書を開いていた。


『リディア様、お元気ですか? 今の王宮文書局は地獄のようです』


手紙には、私が去ったあとの惨状が綴られていた。

外交書簡の修正が滞り、いくつもの協定案が暗礁に乗り上げていること。

そして──


『アルベルト殿下が最近、毎日のようにリディア様のお名前を口にされています。「なぜあの時、彼女は完璧に処理できたのだ」「リディアならどう書く」と……。殿下は今さら、リディア様という存在がいかに自分を支えていたかに気づき、後悔に苛まれているご様子です』


月明かりの下、私はその文字をじっと見つめた。

胸の奥を突き刺すような痛み──は、不思議とどこにもなかった。


かつてあれほど愛し、すべてを捧げようとした婚約者。

けれど、私という人間そのものではなく、単なる「便利な道具」として重宝されていたのだと知った時の虚しさ。


「……今さら、遅いのです。殿下」


私はそっと手紙を閉じた。

過去の未練は、すでに海風の中に溶けて消えていた。


いま、私の目の前には新しい世界がある。

言葉にできずに傷つく人々がいて、冷たい青い瞳の奥に壮絶な孤独を隠した男がいる。


引き出しの中の『父上へ』という三文字を思い出す。


人は誰しも、伝えられない言葉を抱えて生きている。

いつか……あの頑なな公爵が、自分の心と向き合える日が来るのだろうか。

そしてその時、私は彼のどんな言葉を紡ぐことになるのだろう。


夜のルナール港に、穏やかな波音がどこまでも響き渡っていた。

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