第二話 王都を出て、小さな郵便店を開くことにしました
──北西辺境ルナール港へ行く。
そう紙に決意を叩きつけた翌朝。
私は二十二年の人生で初めて、誰の許可も得ず、自分のためだけに荷造りを始めていた。
「……服は、これくらいで十分ね」
床に広げた大きな旅行鞄。
実用的なドレスを数着。防寒用の重厚な外套。歩きやすい靴。
そして何より大切な、私の魂とも言える仕事道具。
魔法羽根ペンを五本。
魔力を練り込んだインクを十二瓶。
羊皮紙と上質紙を数種類。
真鍮の印章、封蝋、定規、何冊もの厚い辞書。
「よし……整ったわ」
荷物の八割が筆記具で埋まっていることへの違和感は、あえて無視した。
生まれてこの方、『役に立つ準備をしなさい』と叩き込まれてきたのだ。急に完全な無防備にはなれない。けれど──こんな不器用さも、これから少しずつ変えていけばいい。
「リディア様」
控えめなノックとともに扉が開き、長年私に仕えてくれた侍女のエマが入ってきた。
今年で五十を過ぎる彼女は、私の生まれた日を知る数少ない人間であり、父よりも深く私の孤独に寄り添ってくれた人だ。
「まあ……」
部屋を見回したエマの目が、驚きに丸くなる。
「本当に行かれてしまうのですね」
「ええ。引き留められても無駄よ」
「旦那様には?」
「まだ、伝えていないわ」
エマは「まあ」ともう一度呟いた。だがその瞳には、ふっと温かな悪戯っぽさが宿っていた。
「お嬢様がそのような破天荒な真似をなさる日が来るなんて、夢にも思いませんでした」
「私だって……自分が一番驚いているわ」
鞄のベルトを締める。
「でも……行ってみたいの。自分の足で」
言葉にしたため息が、ふわりと胸を温める。
行かなければならない、という呪縛ではない。
『行ってみたい』──たったそれだけの自発的な望みが、これほどまでに心を軽くするなんて知らなかった。
エマは私を優しく見つめ、そっと私の鞄を開け直した。
「でしたら、もっと厚手の毛布をお持ちなさい。ルナール港は海風が凍てつくと聞きます」
「エマ……? 怒らないの? 私が勝手に出奔するのよ」
エマは手を止め、愛おしそうに目を細めた。
「お嬢様。二十二歳の立派な女性が、ご自分の意志で旅立つことに、一体誰の許可が必要だというのですか?」
胸が熱くなり、言葉が詰まる。
当たり前のことなのに。私は二十二年もの間、自分の人生を誰かに許可されることばかり求めていたのだ。
「……そうね。私の人生だものね」
「左様でございます」
エマの温かい微笑みに後押しされ、私は前を向いた。
◇ ◇ ◇
その日の夕食時、案の定、雷が落ちた。
「狂ったか、リディア!!」
父の怒声が食堂を揺らし、食器が乾いた音を立てる。私は静かにスープを口に運んでから、まっすぐ父を見つめ直した。
「狂っておりません。亡きお祖母様から賜った、ルナール港の屋敷へ移り住みます」
「誰の許可を得てそんな口を叩いている! 婚約破棄の恥を晒した挙句、今度は辺境へ逃亡する気か!」
「逃げるのではありません。引越しです」
自分でも驚くほど、声が揺れなかった。
激昂する父の前で、恐怖に竦むことなく自分の言葉を返せている。
「お前はエヴァンス伯爵家の令嬢だ! 勝手な真似は断じて許さん!」
「ですが、あの家は私個人の財産です。私にはあそこで暮らす権利があります」
「何のためにだ! 理由を言え!」
私はスプーンを置き、父の眉間に刻まれた深い皺をまっすぐに見つめた。
胸の奥は確かに震えていた。けれど、昨日紙に刻んだあの一行──私の魂が欲した望みを、踏みにじらせるわけにはいかなかった。
「……理由など、ございません」
「何……!?」
「これまで私は、常に『理由』のあることしか許されませんでした。家の為、王家のため、誰かの期待に応えるため……! だからこそ──」
ぎゅっと拳を握りしめ、瞳に強い光を宿す。
「一度でいい。理由なんてなくても、私が『行きたい』と思った場所へ、自分の足で行ってみたいのです」
静寂が食堂を支配した。
父は苦々しげに私を睨みつけ、最後に忌々しそうに吐き捨てた。
「……半年だ」
「え……?」
「半年だ。頭を冷やして戻ってこい。その間に次の婚姻相手を整えておく。……伯爵家からの援助は一切期待するなよ!」
背を向けて去っていく父の足音を聞きながら、私は深く息を吐き出した。
後ろに立っていたエマが、そっと私の肩に手を置いてくれる。
「お嬢様……見事な戦いぶりでございました」
「……私、勝てたのかしら」
「ええ。あなたがご自身の魂の声を言葉にできた、その瞬間に勝ち取られたのです」
完全な自由ではない。けれど、半年間の「私の時間」を手に入れたのだ。
◇ ◇ ◇
三日後。私は豪華な伯爵家の馬車ではなく、埃っぽい乗合馬車に揺られていた。
自分で銀貨を払い、切符を買う。たったそれだけのことが、胸が躍るほど誇らしかった。
馬車の中には、商人や農民、子供連れの家族が雑多に揺られている。
誰も私を「王太子の元婚約者」という目で見ない。ただの「一人の旅人」として扱われることが、どれほど息のしやすいことか。
王都の巨大な城壁が、遠ざかっていく。
二十二年、私の世界のすべてだった狭い箱庭の外には、どこまでも続く地平線と道があった。
「お姉ちゃん、どこ行くの?」
隣に座る小さな男の子が、無邪気に覗き込んできた。
「ルナール港よ」
「なにしに行くの?」
「……まだ、分からないの」
「えー! 分からないのに行くの? 変なの!」
男の子がコロコロと笑う。私も一緒になって笑った。
そう、変でいい。何をするか決まっていない旅なんて、きっと人生で一番贅沢な時間なのだから。
十日間に及ぶ旅は、失敗と苦労の連続だった。
自分で宿を取り、泥に塗れ、路地で迷い、固いパンを噛みしめる。
けれど、その一つひとつの選択が、私の血となり肉となっていく感覚があった。
そして十日目の午後。
馬車が激しい坂道を下りきった瞬間、視界が弾けた。
「……あ……」
声が消えた。
視界の果てまで広がる、圧倒的な「青」。
空の青ではない。光を跳ね返し、うねり、呼吸するように蠢く巨大な水面。
「海だ……!」
胸の奥が熱く絞り出される。
美しいという言葉すら生ぬるい。世界の広大さと、自分のちっぽけさと、溢れ出す生命の躍動。
窓に押し当てた手のひらから、生きている実感が全身へと駆け巡った。
◇ ◇ ◇
潮風と活気に満ちたルナール港の街並みを抜け、坂道を登った先に、その家はひっそりと佇んでいた。
風化した石造りの二階建て。
一階の大きなガラス窓の上には、かすれた文字で『──書店』と書かれた古い看板が掲げられている。
古びた鍵を差し込み、力を込めると、ギギギと重い音を立てて扉が開いた。
舞い上がる埃の向こう、陽光の中に浮かび上がったのは、壁一面を埋め尽くす圧倒的な本棚だった。
呼吸を整え、足を踏み入れる。
カウンターの小さな引き出しの奥に、黄ばんだ一通の手紙を見つけた。
『リディアへ』
祖母の愛着ある筆跡。震える指で開くと、そこには溢れんばかりの温もりが残されていた。
『ここへ辿り着いたということは、お前が自分の人生と、他人の期待に疲れ果てた時なのでしょうね』
涙が視界を濡らした。なぜ分かるのだろう。一度も苦しみを吐き出せなかった私の心を。
『この店は昔、私が言葉を売っていた場所です。けれど私はずっと感じていました。人は本の中の物語よりも、もっと伝えられない、切実な言葉を胸に抱えて生きているのだと』
『リディア。ここで何を始めるかは、お前自身が決めなさい。誰のためでもなく──今度こそ、お前自身の心のために』
「……ずるいわ、お祖母様」
ポロポロと涙が羊皮紙にこぼれ落ちる。
私は手紙を胸に抱きしめ、静まり返る店内で、子供のように泣いた。
長年凍りついていた心が、完全に溶け去っていく音を聞きながら。
◇ ◇ ◇
翌日から、夢中で掃除に取りかかった。
窓を開け放ち、埃を払い、床を磨き上げる。
近所のパン屋のおかみさんが焼きたてのパンを差し入れてくれた時、「ありがとう」の一言だけで温かい笑みが交わせることに、深く感動した。
三日目の夕暮れ。ピカピカに磨かれたカウンターに座り、私は白紙を広げた。
私にできること。
それは、誰かの胸の奥にある「声にならない声」を掬い上げ、言葉にすること。
王太子のためでも、国家のためでもない。目の前の「一人の人間」のために。
「手紙の代筆屋……『月灯り郵便店』」
口にしてみると、しっくりと胸に馴染んだ。
闇を優しく照らす月光のように、誰かの言えない想いを照らす場所。
私は心を込めて看板を書き上げ、店の入口に掲げた。
「本日より、営業開始です!」
……だが。
一日目、誰も来ない。
二日目、誰も来ない。
三日目、やっぱり誰も来ない。
「……あわわ、これは本気で商売として危機的ね」
王宮では嫌というほど書類が押し寄せたのに、客が一人も来ないという現実の厳しさに頭を抱えていた、その時だった。
カラン、コロン──……。
静かな店内に、愛らしいベルの音が響いた。
息を呑んで顔を上げる。
そこに立っていたのは、深く刻まれた刻印のような皺を持つ、一人の老漁師だった。
使い古した服、塩風に晒された肌。彼は不器用に店内を見回し、途切れ途切れに呟いた。
「ここは……手紙を書いてくれる店かい……?」
「はい……! 月灯り郵便店へようこそ!」
老人は恐る恐るカウンターの椅子に腰掛け、擦り切れた己の手を見つめた。
「字も書けねぇし……何を言えばいいかも、わからんのだが……」
私は優しく微笑み、魔法羽根ペンを手に取った。
「大丈夫です。あなたの心が言いたいことを、私が一緒に見つけますから」
老人は深呼吸をし、ポツリと、溢れ出すように呟いた。
「……今年で亡くなって十年になる、死んだババアに……手紙を書きたいんだ」
夕陽が斜めに差し込み、店内を黄金色に染め上げていく。
私はペンを浸し、白紙の上に優しく滑らせ始めた。
誰かの野望でも、政治の道具でもない。
ただ一途な「愛」を紡ぐための、私の本当の仕事が──今、始まった。
そして……この数日後。
この小さな店の扉を叩くことになる、あの氷のように痛烈な青い瞳を持つ男の存在を、私はまだ知る由もなかった。








