第一話 婚約破棄の日、私はやっと定時で帰れる
王太子殿下から「婚約破棄」を言い渡されたその瞬間。
私の心を支配していたのは、絶望でも、涙でもなかった。
(ああ……これでようやく、今夜からまともに眠れる)
それは不敬の極みでありながら、あまりにも悲痛で、痛烈な本音だった。
春の終わりを告げる王宮の夜会は、眩いばかりの光と熱気に包まれていた。
天井から降り注ぐシャンデリアの黄金色の光が、磨き上げられた大理石にドレスの色彩を映し出す。
華やかな旋律。濃密な香水の香。甘い歓談の声。
そのすべてが、氷を打ったように一瞬で静まり返った。
「リディア・エヴァンス」
広間の中央。私の名を呼ぶ低く美しい声。
この国の王太子──アルベルト殿下。
銀糸の刺繍が映える紺青の正装に、光を溶かしたような金髪。誰もが見惚れる完璧な男。
だが、私を見下ろすその瞳は、いつだって冷たく凍りついていた。
「お前との婚約を、本日をもって解消することを宣言する」
……ざわり、と。
夜会全体が揺れた。令嬢たちが扇の影で息を呑み、楽団の指が止まる。
──ああ。やっぱり、今日だったのね。
私は胸の中で、そっと小さなため息を吐き捨てた。
胸を刺すようなショックなどない。ここ数か月、彼が私に向ける視線は空洞そのものだったから。
ううん、正確に言えば。
彼は私ではなく、常に私の隣に立つ「彼女」の熱い視線と、その愛らしさに奪われていたのだから。
「謹んで、お受けいたします」
私が揺らぎなく答えた瞬間、先ほど以上の動揺が広間に走った。
誰もが、私が縋りつき、泣き崩れる惨めな姿を期待していたのだろう。
申し訳ないけれど──私の頭を占めていたのは、そんな儚い悲哀ではなく、もっと切実な「仕事の引き継ぎ」だった。
「アルベルト殿下」
「……なんだ」
「一点のみ、確認をさせていただいても?」
「……言ってみろ」
私は指先を揃え、凛と背筋を伸ばした。言葉の定義は正確でなければならない。
「本日のご宣言をもちまして、私と殿下の婚約関係は完全に消滅したと理解してよろしいでしょうか」
「……ああ」
「王太子妃教育に付随していた、すべての政務からも解放されるということで?」
「当然だ!」
「外交書簡の査読も」
「……そうだ」
「各国外交官への礼状代筆も」
「それもだ!」
「祝辞、弔辞、夜会の挨拶文、地方貴族からの膨大な請願書への返答案。ならびに……先月から私が裏で代筆しておりました、三か国との通商協定に関する返信案も」
「……」
アルベルト殿下が、息を止めた。
私は淡々と、けれど容赦なく言葉を重ねる。
「これらすべて、今この瞬間をもちまして、私の担当業務から外れるということで間違いございませんね?」
「……それは……」
殿下の完璧だった表情に、微かな亀裂が入る。
その傍らで、うっとりと殿下の腕に寄り添う女性──セレナ・ローゼン侯爵令嬢が、勝ち誇った瞳で私を見つめていた。
甘い蜂蜜色の髪に、薔薇色の唇。愛くるしく、誰もが守りたくなる社交界の「春の薔薇」。
私のような地味で味気ない女より、彼女の方がよっぽど絵になる。それは紛れもない事実だった。
「……当然だ!」
苛立ちを隠すように、殿下は吐き捨てた。
「お前はもう、私の婚約者ではないのだからな!」
「かしこまりました」
私は優雅に深々と礼をした。
そしてドレスの影で、誰にも見られぬよう、そっと、固く拳を握りしめた。
(──勝った)
これで明日から、午前二時まで外交文書の歪みを正す作業から解放される。
先週など、隣国大使の皮肉交じりの祝辞に隠された侮蔑を打ち消すため、徹夜で言葉の言い換えを練り上げたのだ。
翌朝、私の隈を見て『なぜそんなにだらしない顔をしている』と眉をひそめたのは、目の前に立つあなただというのに。
「リディア」
不意に呼び立てられ、顔を上げる。
アルベルト殿下は、どこか割り切れないような、腑に落ちない目を私に向けていた。
「……本当に、それだけなのか?」
「はい?」
「私に捨てられたのだぞ……? 悔しくはないのか。すがりつく言葉すら、ないのか」
私はしばし思案した。
言いたいこと。ぶつけたい感情。
……けれど、愛されなかった過去に費やす言葉など、今の私には一文字だって残っていない。
「殿下のご決断でございますから」
感情を削ぎ落とした声で、静かに告げる。
「私から申し上げることは、何一つございません」
その瞬間。
殿下の美しい顔が、凍りついたように強張った。
思っていたのと違う、と言わんばかりに。
愛を請い、涙を流し、惨めにすがる姿を想像していたのだろうか。
生憎だが、私にはこれから考えるべき「自分の人生」という重大な仕事があるのだ。
「ただ──これまで長きにわたり、お世話になりました。王家のご繁栄を、心よりお祈り申し上げます」
寸分の隙もない、完璧な別れの定型句。
情も、執着も、恨みすらも籠もっていない。
心語筆記士として磨き上げた、最も冷ややかで無傷な別れの言葉。
「……そうか」
呆然と呟く殿下に、私は最後のお辞儀をした。
「それでは、失礼いたします」
「待て──!」
背後から引き留める声。振り返ると、殿下の手が虚空を彷徨っていた。
「何か?」
「……いや……」
言葉を失った男を置き去りにし、私は二度と振り返ることなく、無数の視線が刺さる大広間を後にした。
◇ ◇ ◇
月光が静かに差し込む、長い廊下。
ドレスの裾を揺らしながら歩く足取りは、驚くほど軽やかだった。
「リディア様──っ!」
足音が追いかけてくる。王宮文書局の後輩、マリアだった。
息を切らし、今にも泣き出しそうな瞳で私を見つめてくる。
「大丈夫ですか……っ!? 婚約を……破棄されたなんて……!」
「ええ。そのことなら、無事に終わったわ」
「『無事に』ってなんですか! どうしてそんなに冷静なんですか!」
私の両手を強く握りしめるマリアの手が、震えていた。
「私だったら、世界が崩れ落ちて……もう生きていけません……っ!」
「そうね。普通は、そうかもしれないわね」
私はふっと、優しく微笑んだ。
十六歳から通い詰めた、この冷たい王宮。
最初は王太子妃になるための義務だった。だが、私が「言葉の裏にある感情を読み解く力」を持っていると知られるや否や、仕事は山のように積み上げられた。
文書局、外交部、貴族院。
誰かが言葉に詰まるたび、私という「都合のいい筆」が呼び出された。
祝辞、謝罪文、外交協定。
そして──「愛している」という、偽りの恋文まで。
誰よりも繊細に人の心を感じ取り、文章にしてきた。
けれど──自分が本当は何を望み、誰の愛を求めていたのかなど、考える余裕すらなかったのだ。
「マリア」
「……はい」
「明日から私が来なくなったら、残る仕事はどれくらいあるかしら?」
「え……?」
「外交書簡が十二件。返書が七件。建国祭の祝辞が三案。殿下の視察演説原稿……それから隣国との通商協定」
マリアの顔から、急速に血の気が引いていく。
「リディア様……それ、全部……明日から誰が書くんですか……?」
「さあ?」
私は朗らかに笑ってみせた。
「もう、私には一切関係のないことだから」
──関係ない。
その言葉が、胸の奥で澄んだ音を立てて弾けた。
縛りつけられていた鎖が弾け飛ぶような、圧倒的な解放感。私は初めて、自由の味を知ったのだ。
◇ ◇ ◇
翌朝。
伯爵家の自室で、私は久しぶりに「朝日」の光で目を覚ました。
いつもなら、窓の外が白むまで机に齧り付き、書類を精査していた時間だ。
柔らかな金色の光が、部屋を優しく包み込んでいく。
「……きれい」
自然と零れた呟き。
朝日なんて、毎日昇っていたはずなのに。胸を打つほど美しいと知ったのは、今日が初めてだった。
机の上にぽつんと置かれた、私の相棒。《心語筆記士》の魔法羽根ペン。
誰かの心の奥底にある、言葉にならない感情──歓喜、激痛、哀愁、そして愛。
それに寄り添うとき、このペンは淡い光を放ち、感情を過不足なく言葉へと紡ぎ出す。
私はペンを握り締め、真っ白な用紙を広げた。
これからの人生の地図を描くために。
『今後の予定』
そう書き進めたものの……ぴたりと、指先が止まってしまった。
可笑しな話だった。
他人のドロドロとした情念や、複雑怪奇な国家間の交渉なら、どんな文章でも紡げるのに。
自分自身が何を選び、どこへ行きたいのか。
自分の心を描く言葉だけが、何一つ浮かんでこないのだ。
静まり返る部屋。白紙の紙。
「……参ったわね」
苦笑した瞬間、扉が乱暴に叩き開かれた。
「リディアっ!」
父──エヴァンス伯爵だった。怒りで顔を血走らせ、私を睨みつける。
「王太子殿下に捨てられたというのは本当か!」
「ええ。昨夜、大広間で宣告されました」
「なぜすぐに報告しなかった! 恥を知れ!」
雷のような怒声。
「王太子妃という価値を失ったお前に、我が伯爵家を救う何の価値が残るというのだ!」
その罵倒を聞いても、私の心は凪いだままだった。
価値。役に立つこと。家柄。
私の存在理由は、いつだって誰かの損得で測られてきたから。
「申し訳ございません」
条件反射のように謝罪を口にする私に、父は机の上の紙をひったくるように見下ろした。
「『今後の予定』だと……? ふざけるな! お前に選択権などあると思うか!」
「……」
「新たな嫁ぎ先が決まるまで、大人しく王宮文書局で働け。お前には書類を書くことしか取り柄がないのだからな!」
書類を書くことしか、取り柄がない。
冷酷な言葉が胸を掠める。けれど、傷つきはしなかった。ただ、深く、深く心が疲弊していくだけ。
「父上」
「なんだ!」
「王宮文書局は、本日辞職いたします」
「……は?」
「私はもう、殿下の道具でも、誰かの代筆屋でもありません。……少し、休みたいのです」
父の顔が歪む。
「休むだと……? 何のためにだ!」
何のために。
そう問われても、明確な理由なんてなかった。
ただ、私は窓の外で輝く空を見つめ、静かに呟いた。
「……朝を、ちゃんと見つめて生きたいから」
「何だと……? 狂ったか!」
父は吐き捨てるように言った。
「捨てられたショックで頭がおかしくなったか! 今月中に次の婚姻相手を決める。それまで一歩も部屋から出るな!」
バタン!と重い音を立てて扉が閉まる。
静寂が戻った部屋で、私はぽつりと呟いた。
「朝を見たい、だなんて……本当、私ってば何を言っているのかしら」
でも。
悪くなかった。自分の意思で吐き出した言葉は、どんなに滑稽でも、温かかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
私は屋敷の奥深くに埋もれた古い書庫へ向かった。
足を踏み入れる者もいない暗がりの中で、埃をかぶった古い革の帳簿を見つける。
そこに刻まれていたのは、幼い頃に優しく私を抱きしめてくれた、母方の祖母の名だった。
挟まれていた黄ばんだ羊皮紙──それは、祖母の遺言状。
『北西辺境、ルナール港にある小さな家一軒を、愛する孫娘リディアへ』
「ルナール港……」
王都から遥か遠く、馬車で十日。
北西の果てに位置する、霧と海に包まれた港町。
そしてそこは──「鉄壁の公爵」と恐れられる、ヴィクトル・アシュフォード公爵の領地。
冷酷無比の軍人。血も涙もない戦神。
人間よりも契約書と数字を愛し、一度も微笑んだことがない男。
「……そんな遠いところに」
窓の外を仰ぐ。
王都の灰色の空。
ここにいれば、私はまた「都合のいい便利な女」として、誰かの期待を埋めるだけの人生に戻される。
新しい夫。新しい命令。偽りの言葉を紡ぐ日々。
──けれど、祖母はなぜ、私にこの家を残してくれたのだろう?
「……行ってみようかしら」
その瞬間。
机の上の魔法羽根ペンが、微かに、けれど愛おしそうに光を放った。
誰かの感情を拾った光ではない。
私の凍りついていた心が、熱を帯びて動き出した証。
私は新しい紙を広げ、力強くペンを走らせた。
『北西辺境ルナール港へ行く』
たった一行。
誰の命令でもない。誰の期待でもない。
私が私のためだけに紡いだ、人生で最初の、愛しい言葉。
婚約を破棄されたその日。
私はようやく、自分だけの物語の、最初の一行目を書き始めたのだ。








