1.外の世界
「おや、ユージア。ピクニックかい?」
「おはようございます!そう、友達と一緒に!」
朝の陽光がアイレアの丘を柔らかく照らしていた。風が草原を撫でるたびに、蜂蜜色をしたユージアのふわふわの髪の毛が揺れ、風が巻き角の間をすり抜けていく。
「いい天気だねえ。カシューとミルアも一緒かい?楽しんでおいで」
村の老魔人トララは杖をついて微笑み、のんびりと坂道を下っていった。
「ユージア〜、こっち!カシューがもう果物半分食べてるから急いで!」
ミルアが敷物の上から手を振っている。深緑の羽が陽に透けて綺麗だ。その隣では、大きな黒い翼を背中に畳み、カシューが林檎を齧りながら黙ってユージアの方を見ていた。
「……別に半分も食ってない」
そう言いながらも、カシューは二つ目の林檎に手を伸ばしている。耳の先がわずかに動いたのは、ユージアが近づいてくる足音を拾ったからだろう。黒い竜の尾がゆっくりと揺れている。上機嫌の証だった。
「ほら見て、今日のために焼いたタルトもあるの。蜂蜜とナッツのやつ。ユージア好きでしょ?」
ミルアが得意げに布を捲ると、黄金色のタルトが姿を現した。甘い香りが丘の風に乗る。
「あ!これ大好き!やったー」
「ふふ、そんなに喜んでくれると作った甲斐があるわ。はい、一番大きいの取りなさい」
ミルアはクスクス笑いながらタルトを切り分けて、一番ボリュームのある一切れをユージアの前に差し出した。ミルアの尾の房が満足そうにゆらゆらと揺れていた。
「……オレのは」
「あなたはもう林檎二つ食べたでしょ」
「それとこれは別だろ」
カシューが不服そうに鼻を鳴らし、ミルアは涼しい顔で二番目の一切れを黒翼の青年に押しやった。カシューはそれを受け取ると、文句を言ったのが嘘のように黙々と食べ始める。
丘の上からの眺めは格別だった。眼下にはアイレアの集落が点在し、空には結界が陽光にきらめいている。まるで世界の終わりに張られた薄い硝子のように、空気が微かに歪んで見える場所。その向こう側に何があるのか、ユージアたちは話でしか知らない。
「今日は風も気持ちいいし、最高のピクニック日和ね。ねえカシュー、食べ終わったら昼寝でもする?」
「……まあ、悪くないな」
カシューの金色の瞳がユージアの方を一瞥する。口元は相変わらず無愛想だが、その視線は穏やかだった。
「……ねえ、あそこ見える?結界の端っこ」
ミルアが風に乱れた赤い髪を耳にかけ、タルトの欠片を指先で摘まみながら、遠くのきらめきに目を細めた。
「昨日ね、長老会で話してたの聞いちゃった。最近また結界の近くまでニンゲンが来てるんだって」
「……迷いの森なんじゃないのか?」
「さすがに結界までは辿り着けないみたいだけど。森の中をウロウロしてるらしいわ。冒険者とかいう連中」
カシューの黒い尾がぴたりと止まる。金の瞳が結界の境界線を射抜くように見据えた。
「懲りねえな。昔あれだけ好き放題狩っておいて、まだ何か欲しいのか」
「きっと、角とか翼とか、高く売れるって今でも思ってるのよ。あいつら、わたしたちの身体を剥いで武具にしてたんだから」
ミルアの声は穏やかだったけれど、夜色の瞳の奥に冷たいものが光った気がした。
「……まあ、結界がある限り関係ない話だ」
カシューがユージアの方を向いて、ぶっきらぼうに付け加える。
「でも結界の近くには行くなよ。お前は特に目立つ」
その視線がユージアの巻き角に一瞬だけ留まった。
「二人のほうが派手だと思うけど。そんな大きな翼、ぼくの角よりよっぽど目立つよ。いいなぁ、カッコいいし」
「……は?」
カシューが怪訝そうに眉を寄せる。翼がわずかに広がって、陽光を受けた表面が鈍く光った。
「お前の角だって十分立派だろ。それに……」
言いかけて、カシューは口を噤む。目立つと言ったのは褒めたわけじゃないとでも言いたげに、視線を逸らして林檎の芯を草むらに放った。
「あらユージア、わたしたちの翼に憧れてくれてるの?嬉しいわね」
ミルアが翼を片方だけふわりと広げてみせる。穏やかな日の光がエメラルドの羽の一枚一枚を透かして、柔らかい影を地面に落としていた。
「でもね、あなたのモコモコだって十分素敵よ?触り心地最高だし。冬なんか抱きつきたくなるもの」
「……強さがどうとか言い出すなよ」
カシューがぼそりと呟く。ユージアの顔を見ずに、けれどその金の瞳は確かにこちらを気にしていた。
「戦えなくたって、お前には治癒がある。オレが前に翼を折った時、誰が治したと思ってんだ」
黒い尾がぱたんと地面を叩いた。不機嫌な顔はカシューの照れ隠しだ。
「そうだけど、ぼくも強くなりたい……」
「……ユージア」
ミルアの表情がふっと柔らかくなる。タルトを置いて、ユージアの方へ身を乗り出した。
「その気持ちは素敵だけど、強さって一つじゃないのよ?あなたの治癒はわたしにもカシューにも使えないもの」
「そもそも羊が前線に出てどうすんだ」
カシューの言い方は素っ気ない。でもその金の瞳がユージアを真っ直ぐ見ている。
「オレは竜。ミルアはグリフォン。オレたちが戦って、お前はオレたちが崩れた時に立たせる側だろ。……それが弱いってのか?」
黒い尾がユージアの膝をぽんと軽く叩く。乱暴なようでいて、その力加減は昔から変わらなかった。
「それにね、あなた小さいから、前に出たら踏まれちゃうわよ?」
「おい、流石にそれは言い過ぎだろ」
ミルアがくすくすと笑う。その時だった。
足元が、揺れた。
最初はほんのわずか。タルトの皿がカタカタと鳴る程度。だが次の瞬間、丘全体が大きくうねるように跳ねた。地面が波打ち、敷物が滑り、果物の籠がひっくり返る。
「地震?!ユージア!」
カシューが咄嗟に手を伸ばす。しかしユージアの小さな体はもう丘の斜面を転がり始めていた。結界の、きらめく境界線に向かって。
「うわわわわわわ」
コロコロコロコロ。世界がぐるぐる回る。空、草、土、空、草、土。そしてあの薄い硝子のようなきらめきが一瞬だけ歪み、肌を突き抜けた。ひやりとした感触。まるで冷たい水面をくぐったみたいだった。
気がつけば、ユージアの背中は硬い岩にぶつかって止まっていた。目の前の景色が、違う。
霧だ。濃い、重い霧。結界の中の澄んだ空気じゃない。そして、金属がぶつかる音。怒号。獣の咆哮。
ユージアが目を開けた先に広がっていたのは、戦場だった。巨大な蜥蜴のような魔物が三体、血走った目でうねりながら、数人のニンゲンに襲いかかっている。ニンゲンたちは武器を振るい、必死に応戦していた。
カシューの声が聞こえる。遠い。結界の向こう側からだった。
「ユージア!!おい、ユージア!!」
振り返れば、あのきらめきの壁が見える。カシューが結界の内側で翼を広げ、拳を打ちつけている。ミルアも駆け寄ってくる。でもその壁は、通れそうにない。
「嘘でしょ!ユージア!こっちに!結界の中に!」
こもって聞こえる二人の声に、ユージアはハッとした。結界の境界線すぐ傍の大きな岩の陰から、ユージアの手が伸びる。指先が結界に触れた瞬間、弾かれた。ぴしゃりと、まるで招かれざる客を追い返すように。外からは、誰も入れない!
「ええっ!カシュー!ミルア!」
「くそっ……!」
カシューが結界に体当たりする。黒い翼を全開にして、何度も何度も。だが壁は微動だにしない。金の瞳に焦りが、いや、恐怖が滲んでいた。
「ユージア、落ち着いて!隠れなさい、今すぐ!」
ミルアの声が結界越しに届く。震えている。あの世話焼きのお姉さんの声が、こんなに震えているのを聞いたのは初めてだった。
背後で地面を揺らす衝撃。ビリビリ痺れる手を握り、振り返れば、蜥蜴の魔物が一体、ニンゲンの一人を尾で払い落とした。吹き飛ばされたニンゲンが地面を転がり、血を吐く。
見つかったら、殺される。魔物にも。ニンゲンにも。
ユージアの手首のモコモコが逆立つ。本能が叫んでいる。隠れろ。逃げろ。でもどこに。
ユージアは岩陰から動くことができなかった。幸いにも戦いの場から目隠しになってくれている。身を縮めれば、この小さな体なら隠れられる。でもいつまで?
その時、倒れたニンゲンの体から赤いものがどくどくと溢れているのが見えた。見たことがないような出血にユージアは息を呑んだ。衝動的に指先に力がこもる。怪我をしている。助けなきゃ。この治癒の力で。
「余計なことすんな!隠れろ!ユージア!!」
立ち上がりかけるユージアの背中に、カシューの怒鳴り声が突き刺さる。
でも、ユージアの目には怪我をして動けないニンゲンの姿しか映っていなかった。




