可哀想な宝物 下
それから、一度も母とは会ってはいない。
その空いた役割を埋めるように、ニセモノの"母たち"は宝を愛した。
同じ学校の生徒だったり、先生だったり、時にはバイト先の先輩だったり、隣の家のお姉さんも宝を愛した。
そうした宝の悪い噂は中学でも高校でもたちまちに広がる。絶えず女性が寄り付いたので、宝が困る事はあまりなかった。
宝が欲しかったのはあの時の母の温もりだけだったが、彼女らは皆一様に愛の言葉だったり性の交わりを宝に求める。しかも厄介なことにそれに応えないと彼女たちは納得せず、宝はいつも仕方なしに応えることにしていた。そうすれば皆納得する、眺めているものが違うのなら仕方ない。自分にそう言い聞かせて、宝はいつも彼女らに愛されることを選んだ。
その中でひかりは別段目立つような子だったわけじゃない。ぼやっとしていて、地味な子。宝からすれば、そこらの女子と何ら変わりはない印象だった。
そもそも話しかけたのも蘭咲が倒れたからではなく、彼女のタオルが気になったからだ。
"ラブにゃんこ21"のキャラクタータオル。宝の"母たち"に何度観ようとせがんでも「面白くなさそうだからイヤ」と拒否されたアニメ。彼女はそれを知っている、それだけがひかりに関わろうとした理由だ。
だから、彼女が宝の感情を動かすような人間だとは、ちっとも予想していなかった。
時刻は午後四時を過ぎる。厚い雨雲に覆われた空は宝をどんよりとした気分にさせた。
宝は家からかなり距離のある小さな公園へ訪れた。近くのベンチに座り、周りを見渡す。
錆びたブランコと滑り台、遊具はそれくらいしかないのに、遊ぶ場所がない子供たちがひとつに集まってジャンケンをしている。
「お母さん、再婚するんだって。まあ……複雑だろうけど、幸せそうだったしそれで良かったんだろうな」
三日ほど前、父に笑ってそう告げられたとき、宝は本気で死んでやろうかと思った。
宝を寂しくて可哀想にした張本人が幸せになる、変わっていくなんて許せない。それを仕方ないなんて言葉で諭されるのはもっと許せなかった。
『腹が立つのなら少しでもスッキリする為にぶつけにいきましょう。でもそれに罪悪感を覚えるのなら時が過ぎるのを待てばいいのでは?』
ここまできて罪悪感はない。選ぶのなら前者だろう。宝は胸ポケットにいれたくしゃくしゃのメモを取り出して開いた。父親をなんとか説得して手に入れた母の住所が、そこには書いてある。今、宝がいる場所から目と鼻の先にその家はあった。深く息を吸い込もうとすれば、気管に何か引っかかり、みっともなく咳き込んでしまう。大げさな咳の音に、子供たちの無垢な瞳が一気にこちらへ向くと、宝は恥ずかしくなって顔を下に向けた。
すると突然、髪を乱すような突風が吹いた。
思わずメモを手から取りこぼしそうになったのをすんでの所でキャッチする。子供たちは強い風に吹かれると、キャッキャと喜んで騒いでいた。
「うわ、すごい風……」
女性の声に宝は顔を上げる。別に何があったとかではなく、自然と。
宝の視線の先で女性は重たそうなまあるいお腹を支えて、公園を見渡していた。
――母だ、と直感でわかった。
よく似ていると言われた柔らかな垂れ目に、女性にしては高いすらりとした背丈。宝と最後に会った時よりふくよかになっていて、宝の中の形を保たない感情はどんどんと大きくなる。
「こんにちは」
考えるより先に声は出ていた。人の良い笑みをわざと作り、立ち上がって母に近寄る。
母は一度視線を彷徨わせた後、宝を見つけ瞳を大きく見開く。瞬間、宝は「やった!」と唇を噛み締めた。
「……こんにちは、風が強いですねえ。学校の帰りですか?」
しかし、宝の喜びはただの杞憂だった。母は知らない人と会話するかのように宝に微笑んだ。
可愛い我が子の顔を忘れる親もいる。宝は知っていたはずだったのに。
***
記憶はそこで途切れている。何が起こったのかわからない。
口の中に入った砂がじゃり、と音を立てる。
「宝! 宝が悪いんだよ、あれだけ愛してあげたのになんで捨てようとするの!?」
つんざくような悲鳴は恐らく母のものではない。母はどこへいったのだろう? 半分も開いていない視界には母の姿は見当たらない。それどころかほぼ地面しか見えず、地面に反射して赤いランプが点滅を繰り返している。
お腹の辺りがあったかい。とくとくと心臓の音が段階を経てゆっくりになっていくのが分かった。
砂の地面に赤い海が出来上がる。鼻をつうと辿って降りていくこの液体もきっと赤いのだろう。その光景にぼんやりと見惚れていると、突然身体がふわり一人でに浮いた。
横向きだった身体が仰向けに動かされると、真っ赤な夕焼け空が宝を迎えた。だがそれを遮るように沢山の大人が顔を覗かせ、何かを宝に叫んでいる。それが鬱陶しくて顔を背ければ、遠くの方で女が男たちにに取り押さえられているのが見えた。さらにその奥には……
(最悪の呪いの解き方だ)
瞼は強制的に閉じられる。宝の頭の中では、何度も祖母との会話が繰り返された。
『そりゃあ、こんなきらきらして可愛い子、宝って名前をつけたくなるわねえ』
『ぼくって宝物みたい?』
『ええ、もちろん』
『それなら何でママはぼくを捨てたんだろう』
こんな汚れた宝物、だれもいるもんか。




