哲とエリィ
「じゃあ、鬼釜君の前途を祝って、乾杯!」
居酒屋べろんべろん、月浜駅前店。
哲と鋭斗はすっかり常連になっていて、店の女の子ももう鋭斗に汚物を見るような視線を向けなくなっている。
「さすが鬼釜君だね。あっさり決めちゃって、俺は寂しいよ」
泣き真似をする見苦しい鋭斗に、哲はいつもの、慈愛に満ちた微笑みを向けている。
「またこの店で飲みましょう。家はすぐそばだし、次の職場も隣駅ですからすぐに来られます」
「そんな、俺のことなんかきっとすぐに忘れるよ!」
「そんなこと……、ないよ、三方君」
苦笑する哲と、訝しむ鋭斗。ゆきえの姿はない。
彼女は仕事をやめて家庭に収まっていた。待望の妊娠、現在四か月。
泥酔した挙げ句うっかり鋭斗と関係を持ってしまったと告げられた時は驚いたが、哲は黙っていると二人に誓っていた。
「鬼釜さんとだったら良かったのに」という台詞ともども、墓場まで持っていくつもりだ。
デイアンドナイトで働きながら、哲はたくさんのことを考えた。
これから先の、自分の人生について。
打ちのめされた母親はすっかりしぼんで小さくなっているらしい。
少しくらいは可哀想なので、たまには家に顔を出す。そして、家族と少しずつ歩み寄れるよう、会話をしていく。
以前鋭斗にされたニックシーの話。
ヘイト専門はないが、人の役に立てる何かが作れればいい。前職の経験も生かした仕事を探し、デイアンドナイトは卒業しようと決めた。
自分の力だけで掴みとった場所で、堂々と生きていく。
内定をもらって、デイアンドナイトを辞めると話すと、鋭斗は泣き、店長も引き留めてくれた。
鬼釜君は真面目で、お客さんの受けも良かったから残念だよと。
「でもぉ、鬼釜君はここには勿体ないですよぉ! だってめっちゃめちゃイケメンなんだもん!」
なぜかおいおいと泣きながら、鋭斗は店長に向けて熱く語ってくれた。
優秀な人材だからこそ、気持ちよく送り出しましょうと。
「ありがとう三方君」
「こっちこそぉ、今までありがとう鬼釜くん!」
円満退社が決まり、残りの期日も仕事をこなして、とうとう最後の日。
店の休憩室でささやかな送別のセレモニーをしてもらって、二人はいつもの店へとやって来ていた。
この日も鋭斗はさっそく酔っ払い、ゆきえへの愛を叫びまくり、巨乳の柔らかさについて語りまくった挙句タクシーへ押し込まれていた。
こんな楽しい友情が芽生えたのも、大きな秘密を共有できたのも、新しい道を切り開けたのも、すべて、エリィのお蔭だった。
でも、彼女は姿を見せない。
あの日、母を追い払った時からもう、エリィは哲の前に一度も姿を現さなかった。
居酒屋からの帰り道、駅を通り抜けて、家に辿り着くまで十分ほどかかる。
哲は時折道の途中にある暗がりに目を向けては、エリィがいないか探していた。
歩道橋の階段の裏、路面にある店専用のごみ箱、狭い路地裏の向こう側。
(お別れよ、って言っていた)
あの言葉が、本当の別離を指すのか、哲にはまだわからずにいた。
もしかしたら新しく生まれ変わった哲の前に、初めましてと現れるのではないかと期待をしてしまっている。
「エリィさん」
誰もいない歩道で立ち止まり、どこへともなく呼びかけるが、返事はない。
諦めて帰ろうとすると、道の先には黒い影が立っていた。
見覚えのない顔だし、黒づくめの格好はどこか異様に感じられる。
それゆえに、哲はその影をじっと見つめた。
「なにか用かな?」
見つめられて、黒づくめの男は哲に答えた。
「すみません、あなたの雰囲気が、その、知り合いによく似ていたのでつい」
我ながらおかしなことを口走っていると、哲は思う。だが、どこかで確信があった。エリィが「友達ではないけれど、仲間」と表現していたのはきっと、目の前にいる男なのだと。
「あいつは消えた」
エリィのことだと、はっきりわかった。
消えた。消えてしまった。
男の言葉はおそらく、真実なのだろう。
「僕のせいでしょうか」
恐れながらも、真実を知りたい気持ちが勝って、哲は男へ問いかける。
答えは、イエス。男は真摯な表情で肯定したが、更に、哲にこう告げた。
「『人でなし』にとっては一番幸せな消え方をしたよ」
気が付いた時にはもう男の姿はなく、夜の月浜には哲がただ一人で立ち尽くしている。
人の怒りや憎しみを吸って生きる「人でなし」が、「幸せ」に消えた。
不思議な話だと、哲は思う。
次の日は土曜日で、日課の散歩を昼にずらして、哲は花屋へ寄った。
たくさんの赤い薔薇で作った花束を持って、でも、どこに置くのが正しいのかわからない。
一度家に持って帰ったそれを手に、深夜になって再び哲は街をぶらぶらと歩いていく。
目についた暗がりに、一本ずつ薔薇を置きながら、こう繰り返していく。
「エリィさん、ありがとう」
お人よしの人でなしからもらった新しい人生は、希望に満ちあふれたものになった。
鬼釜哲はまだ月浜に住んでいて、時々道の隅の暗がりに目をやっては、エリィのことを思い出しているという。