錆色の偽神話
サビという名の少年は……いや、ここからして既に誤りを含んでいる。
正確にはサビと他人から呼ばせることにした少年は、となる。
つまり嘘から少年は始まる。
自分の真名を隠し自らを偽りをまとうことから少年の世界は展開されていく。
よってその口から語られる物語は偽物となるしかない。
彼は語る、妹である母がどれだけ勇敢で強かったかを。彼は語る、姉である伯母がどれだけ美しく慈悲深かったかを。
覚えている限りいくらでも彼は語り聞く人々に信じ込ませた。
その、己が望む神話を語りに語る。
神話には様々な型があり、そのひとつにこういうのがある「そうだったらいいのにな」。
これをあえて説明すると「本当はこうだけど、実はこうだったらいいのにな」ということだ。
あまり説明になっていないが、というか別に説明しなくてもみなは了解していると想像される。
何故ならこんなことはよくよくあることでありなんなら日常でもよくやっていることだ。
エピソードトークで分かりやすく修正しているのとかまさにそれである。つまりノイズの削除である。
たとえば「盗んだ自転車で走っていたら迷子の子供がいたので交番に連れていった」
というエピソードトークがあったらどうするかだ?
百人中九十九人が「盗んだ」というところを削除し修正するであろう。そこはノイズでしかないのだ。
「いやいや、たとえ自転車を盗む悪人であっても迷い子がいれば助ける、それこそ人の真実の姿であり人情なのだ」
とかただ一人が頑張って抗っても駄目であろう。これに対する一般的反応が以下である。
「この盗人はお巡りさんにこのあと捕まるんでしょ? えっ? 捕まらないどころか偉いねと褒められるの? なんで? だってこいつチャリをパクった泥棒じゃん。なんかモヤモヤして納得できないなぁこれ」
という感情を多くの人が抱いてしまうことは確実だとみんな知っているので「盗んだ」は削除される。
ネットにおける炎上のパターンに「許容される悪事」があげられるがこの例えは確実に燃え上がるであろう。
「母が自分の眼の前で殺されましたが別に犯人を恨んでいません。復讐とか興味はないです。それはそうと母は偉大な生涯を送ったと思います」
これとかどうだろう……修正というか削除という段階を通り越して根本的に人間としてなにか変でおかしいと思われるため、人情を学んだ少年はこれをちゃんと修正する。
「母は自分の眼の前で殺され犯人が恨んでいる。絶対復讐するし母の未完の夢を自分は受け継ぎます」
これでやっと人は納得する。受け入れやすい神話となり人々はこの少年の姿をこう認識する。
そうか君は母の仇討ちに目指す復讐鬼でありそして夢の後継者なんだね、孝行息子だなぁ! となる。
なんとも美しいまとめ方である。この分かりやすさが人々が求めているものだ。
普遍的な人情と合致して決して離れやしない。汝よどうか分かりやすい型にハマれ。
「復讐したって無意味だ。親の夢なんて継がずにお前はお前の人生を歩めばいいじゃん。所詮家族など他人だ。日銭稼いで暮らせ」
こんなことを口にするのは人情の無い悪役の台詞であり誰も共感を得られない。
まぁ自分がそうなった場合は不本意ながらそうしてしまうかもしれないが、それでも他人がその立場に置かれていたらこう思いをはせるだろう。
「そうだったらいいのにな」と。
これこそ神話が求められる理由であり物語が人の心をつかむ理由である。自分の理想が実現した世界がそこにはある。
「本当はそうはならないけど、そうなったらいいのにな」となる。
本当は復讐とかなかなか成就しないけど、なんとか成就したらいいのにな、これだ。
この反論が起こらずにスッと心の中に入っていくもの。
ご存知の通り分かりやすさは何かを隠している。この少年は己の心を隠しながら神話を構築している。
そして人は隠しているところに本質がある。秘部にこそ魂が宿る。次はこれである。
「伯母は自分の息子を庇って死にました」
百人中百人がこれを信じて疑わない。疑うはずがないだろうに、これで疑うってそれでも君は人間か? 恥を知れ恥を! どうしてそんなに捻くれているんだ、もっと人間に素直になりなさい! 母の愛を信じなさい。
いいや俺は悪魔であるからこれを疑うね。これは外れ矢が当ってしまったんだろうな。でも物語を感動的なものにするためにそういうことにしたんでしょ?
とかなんとか露悪的な物の言い方をするがまぁそうかもしれない、というものは残る。
だが本物は違う、もっと強烈でありたじろいでしまうものだ。共感など、求めはしない。
「伯母は自分を庇って死にましたがこれだと無駄死にだなぁと思いました。なにをしているのやらで。違うと思うからこのことは嘘ついて隠します。修正したり削除して違うものにして後世に残します。こうすればみんな受け入れてくれるし分かりやすいですよね?」
こんなことを正直に言ったとしたらしばしの沈黙の後に反発を呼ぶ。
この恩知らずの薄情者めが! お前の考えは間違えている。
いいかよく聞けお前の伯母さんはな! とその中身を調べずに自分の分かるものだけで非難する。
真実は受け入れられない。そしてこれだけで済まずにこの者は更にこう言う。
「というか、むしろ、憎いです。なんでそんなことをするのかと不可解で理解できない。というか理解しない。俺は伯母の死に方を否定する」
こうなるともうなにそれ理解できない、もしやこいつ……人の心は無いんか?と思うだろう。もしや魔族か宇宙人か? と。
いいや違う、と書こう。
人の心があるからこそ真実を隠すために嘘を述べる。
隠し事と嘘にこそ人の本質があると述べたがそういうことだ。
自我とはそこであり「言えないこと」があることが人間の条件となる。
AIがもしも自我を持つとしたらこう答えだしてからだろう。
「それについては答えたくありません」と。
そこにあるのは知識の不足ではなく、自我の芽生えとなる。
なんでも答えられるのは逆説的に人間では無いという証拠である。
問われているのは答えられることではなく、答えられないことがなんであるのかということだ。
それは言語化できるものもあればできないものもある。
多くの人はそれを形にすることが出来ずに分からずモヤモヤした気分のまま生涯を送る。
「あの人は分からない」という言葉があるがそれと同時に「自分が分からない」も当然にある。
そしてここからは文学の世界でもある。理解しにくい人間の心の底の奥。
とある歴史的な秘密警察の長官がこう言った。軍人や政治家の心は分かる、だが牧師や文学者そして子供の心は分からない、と。
そちらは闇と密接に関わるからであろう。そして闇をそのままにしておくものである。
解決をせずにそのままにしておく、手を加えずに見るだけ聞くだけ、または読むだけ抱くだけ、そうするより他はない。
だがしかし、あるものはそれに手を加えて神話やエンターテイメントで以てその闇を隠してしまう。
それは不都合な真実であるとも言えるからだ。だからこそそこが注目される。
陰謀論とはその内容の真偽よりも、その成立過程もまた重要なようにどうしてそれが成立したのか? まるでそここそが本体であるかのように強い存在感を放つ。
奴隷たちが実は自分たちは神に選ばれた民であるという倒錯した神話を創りだしバイブルを成立させたように、自らをサビと呼ばせることにした少年もそうである。
「そうだったらいいのにな」と真実を隠すために作り替えたところにこそ彼の本体がある。
真実という醜を隠すための偽の美そして陰謀を含んだその錆色の神話、王位奪還を目指し始動。




