039 水たまりに拍手する眼鏡
春一番の雨が上がった午後、公開記録室の前庭には大小いくつもの水たまりが残っていた。
石畳の隙間に溜まったそれを、子どもたちが跳び越えて遊んでいる。
濡れるからやめなさいと叱る声と、今日は式典じゃないから構わんだろうという笑い声が混じり、前庭はよく晴れた日の市場のようににぎやかだった。
その中央で、ひどく場違いな黒い外套が一つだけ直立している。
王立学術院記録法学部、助教アーヴィン・セレス。
細い銀縁眼鏡の、いかにも“紙の前では饒舌だが人前では固い”顔をした青年だった。
彼は王都からの紹介状を差し出し、開口一番こう言った。
「公開記録制度の実効性について、客観的検証を行いたく」
「どうぞ」
エリシアは即答した。
「検証される側が手伝えることはありますか」
「……拒まないのですね」
「制度は見られて困るものではありませんから」
それで少しだけ、学者の肩から力が抜けた。
アーヴィンは三日間、徹底して歩いた。
閲覧室で帳簿を見比べ、返金窓口で手続き時間を測り、公開棚卸しの過去記録から冬越し死亡率の推移まで拾い上げる。
ついでに市場へ行って価格の安定も確認し、橋番小屋では通行許可の発行簿まで見た。
細かすぎるほど細かい。
だがエリシアは嫌いではなかった。
数字を丁寧に疑う人間は、だいたい話が早い。
ただし一つだけ、彼には不得手があった。
「ええと……その、こちらの申請は、なぜ午前と午後で列が分かれているのですか」
「乳児連れと山越え組が朝に集中すると待ち時間が伸びるからです」
受付係のノーラが答える。
「だから家が近い人は午後へ回ってもらうの。前に公開してるから揉めないわ」
「なるほど。合理的です」
「あと、昼のスープ鍋の都合」
「……スープ鍋?」
「お腹が空くと、人は待てないでしょう」
アーヴィンはしばらく黙り、それから手帳に小さく“運用上、極めて重要”と書きつけた。
その真面目さが可笑しくて、エリシアは吹き出しそうになる。
最終日。
ちょうど雨上がりだったせいで、前庭には子どもが多かった。
復帰したベルメとフォーエンの家族が、春の納品ついでに寄っているのだ。
子どもたちは入口脇に掲げられた新しい北境地図の前に集まり、自分の村の名を指しては騒いでいた。
「ここがベルメ!」
「うちはこっち!」
「前はなかったんだって、母ちゃんが言ってた!」
アーヴィンはその様子を、まばたきも忘れたように見ていた。
やがて一人の少女が、彼の袖を引いた。
「先生、めがね曇ってる」
「え?」
差し出された布で眼鏡を拭きながら、彼はぎこちなくしゃがみ込む。
少女は地図の下の凡例を指した。
「これ、何?」
それは“旧失効村名、復帰済”を示す記号だった。
アーヴィンは一瞬エリシアを見る。説明していいか、という視線だ。
エリシアがうなずくと、彼は子どもにも分かる言葉を探すように、少しゆっくり話し始めた。
「一度、地図から消えてしまった名前がね、ちゃんと戻りましたっていう印だよ」
「どうして消えたの?」
「悪い大人が、見えない方が都合がよかったから」
エリシアが答えた。
「でも、戻したの。もう勝手に消せないように」
少女はふうんと考え込み、それから水たまりを一つ跳び越えた。
靴の先で水が跳ね、陽を受けてきらりと光る。
「じゃあ、もうだいじょうぶ?」
その問いに、エリシアは少しだけ考えた。
「放っておいたら、また消そうとする人は出ます」
子どもたちの顔が少し曇る。
そこでルシアンが後ろから口を挟んだ。
「だが今は、消したらすぐ分かる」
サイラスも続ける。
「分かったら、みんなで止められる」
ノーラが笑う。
「それに、あんたたちが大人になっても地図を見ててくれたら、もっと強いわ」
子どもたちは顔を見合わせ、それからなぜか一斉に頷いた。
深い理解があったかは怪しい。
それでも、自分たちの村の名を自分たちで指差せることが、もう小さな強さだった。
その時、最年少らしい男の子が水たまりの縁で滑り、しりもちをついた。
一拍遅れて、前庭が笑いに包まれる。
泣くかと思った本人も、きょとんとしたあとで笑い出した。
つられてアーヴィンまで、手帳を抱えたまま拍手してしまう。
ぱち、ぱち、と不器用な音。
自分で驚いたように、彼は手を止めた。
だが周囲はさらに笑い、子どもたちは調子に乗って水たまり跳びを競い始める。
銀縁眼鏡の学者は耳まで赤くしながら、それでも最後には観念したように口元を緩めた。
夕方、帰り支度を整えた彼は、玄関先でエリシアへ一礼した。
「報告書には、制度の効果を数字で書きます」
「お願いします」
「ですが、おそらく一番重要な点は数字になりません」
「どんな点ですか」
アーヴィンは前庭を見る。
地図の前で、まだ子どもたちが自分の村の名を呼んでいた。
「記録が、住民の所有物になっていることです」
それはエリシアが、ずっと言葉にしたかったことだった。
記録は王家だけのものでも、役所だけのものでもない。
生きる人のものだ。
名前を持つ人のものだ。
王都行きの馬車が門を出るまで見送ってから、エリシアはルシアンと並んで前庭に戻った。
雨上がりの空は高く、石畳の水たまりには青が映っている。
「本当に終わった気がしますか」
ルシアンが訊く。
エリシアは少し笑った。
「終わったというより、やっと始まった感じです」
「それなら、ちょうどいい」
彼はそう言って手を差し出す。
エリシアが取ると、濡れた石畳に二人分の足音が重なった。
地図に戻った村の名は、もう風だけでは消えない。
誰かが見て、読み、受け渡していく限り。
その先の時代まで、きっと。
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