表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄されたので、不正会計を暴きます ~地味な書記魔法の私ですが、辺境伯領を立て直したら冷徹辺境伯がなぜか離してくれません~  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/39

039 水たまりに拍手する眼鏡

春一番の雨が上がった午後、公開記録室の前庭には大小いくつもの水たまりが残っていた。


石畳の隙間に溜まったそれを、子どもたちが跳び越えて遊んでいる。

濡れるからやめなさいと叱る声と、今日は式典じゃないから構わんだろうという笑い声が混じり、前庭はよく晴れた日の市場のようににぎやかだった。


その中央で、ひどく場違いな黒い外套が一つだけ直立している。


王立学術院記録法学部、助教アーヴィン・セレス。

細い銀縁眼鏡の、いかにも“紙の前では饒舌だが人前では固い”顔をした青年だった。

彼は王都からの紹介状を差し出し、開口一番こう言った。


「公開記録制度の実効性について、客観的検証を行いたく」


「どうぞ」

エリシアは即答した。

「検証される側が手伝えることはありますか」


「……拒まないのですね」


「制度は見られて困るものではありませんから」


それで少しだけ、学者の肩から力が抜けた。


アーヴィンは三日間、徹底して歩いた。

閲覧室で帳簿を見比べ、返金窓口で手続き時間を測り、公開棚卸しの過去記録から冬越し死亡率の推移まで拾い上げる。

ついでに市場へ行って価格の安定も確認し、橋番小屋では通行許可の発行簿まで見た。

細かすぎるほど細かい。

だがエリシアは嫌いではなかった。

数字を丁寧に疑う人間は、だいたい話が早い。


ただし一つだけ、彼には不得手があった。


「ええと……その、こちらの申請は、なぜ午前と午後で列が分かれているのですか」


「乳児連れと山越え組が朝に集中すると待ち時間が伸びるからです」

受付係のノーラが答える。

「だから家が近い人は午後へ回ってもらうの。前に公開してるから揉めないわ」


「なるほど。合理的です」


「あと、昼のスープ鍋の都合」


「……スープ鍋?」


「お腹が空くと、人は待てないでしょう」


アーヴィンはしばらく黙り、それから手帳に小さく“運用上、極めて重要”と書きつけた。

その真面目さが可笑しくて、エリシアは吹き出しそうになる。


最終日。

ちょうど雨上がりだったせいで、前庭には子どもが多かった。

復帰したベルメとフォーエンの家族が、春の納品ついでに寄っているのだ。

子どもたちは入口脇に掲げられた新しい北境地図の前に集まり、自分の村の名を指しては騒いでいた。


「ここがベルメ!」

「うちはこっち!」

「前はなかったんだって、母ちゃんが言ってた!」


アーヴィンはその様子を、まばたきも忘れたように見ていた。


やがて一人の少女が、彼の袖を引いた。

「先生、めがね曇ってる」


「え?」


差し出された布で眼鏡を拭きながら、彼はぎこちなくしゃがみ込む。

少女は地図の下の凡例を指した。


「これ、何?」


それは“旧失効村名、復帰済”を示す記号だった。

アーヴィンは一瞬エリシアを見る。説明していいか、という視線だ。

エリシアがうなずくと、彼は子どもにも分かる言葉を探すように、少しゆっくり話し始めた。


「一度、地図から消えてしまった名前がね、ちゃんと戻りましたっていう印だよ」


「どうして消えたの?」


「悪い大人が、見えない方が都合がよかったから」

エリシアが答えた。

「でも、戻したの。もう勝手に消せないように」


少女はふうんと考え込み、それから水たまりを一つ跳び越えた。

靴の先で水が跳ね、陽を受けてきらりと光る。


「じゃあ、もうだいじょうぶ?」


その問いに、エリシアは少しだけ考えた。


「放っておいたら、また消そうとする人は出ます」


子どもたちの顔が少し曇る。

そこでルシアンが後ろから口を挟んだ。

「だが今は、消したらすぐ分かる」


サイラスも続ける。

「分かったら、みんなで止められる」


ノーラが笑う。

「それに、あんたたちが大人になっても地図を見ててくれたら、もっと強いわ」


子どもたちは顔を見合わせ、それからなぜか一斉に頷いた。

深い理解があったかは怪しい。

それでも、自分たちの村の名を自分たちで指差せることが、もう小さな強さだった。


その時、最年少らしい男の子が水たまりの縁で滑り、しりもちをついた。

一拍遅れて、前庭が笑いに包まれる。

泣くかと思った本人も、きょとんとしたあとで笑い出した。

つられてアーヴィンまで、手帳を抱えたまま拍手してしまう。


ぱち、ぱち、と不器用な音。


自分で驚いたように、彼は手を止めた。

だが周囲はさらに笑い、子どもたちは調子に乗って水たまり跳びを競い始める。

銀縁眼鏡の学者は耳まで赤くしながら、それでも最後には観念したように口元を緩めた。


夕方、帰り支度を整えた彼は、玄関先でエリシアへ一礼した。


「報告書には、制度の効果を数字で書きます」


「お願いします」


「ですが、おそらく一番重要な点は数字になりません」


「どんな点ですか」


アーヴィンは前庭を見る。

地図の前で、まだ子どもたちが自分の村の名を呼んでいた。


「記録が、住民の所有物になっていることです」


それはエリシアが、ずっと言葉にしたかったことだった。

記録は王家だけのものでも、役所だけのものでもない。

生きる人のものだ。

名前を持つ人のものだ。


王都行きの馬車が門を出るまで見送ってから、エリシアはルシアンと並んで前庭に戻った。

雨上がりの空は高く、石畳の水たまりには青が映っている。


「本当に終わった気がしますか」

ルシアンが訊く。


エリシアは少し笑った。

「終わったというより、やっと始まった感じです」


「それなら、ちょうどいい」


彼はそう言って手を差し出す。

エリシアが取ると、濡れた石畳に二人分の足音が重なった。


地図に戻った村の名は、もう風だけでは消えない。

誰かが見て、読み、受け渡していく限り。

その先の時代まで、きっと。

ここまで読んでくださってありがとうございました。

もし少しでも面白かったら、評価や応援で背中を押してもらえるととても嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ